梅雨の気配は色を濃くし始めていた。曖昧な天気予報に傘が手放せず、バッグの中に折りたたみ傘を忍ばせて歩く。

 夕方前の吉祥寺は、土曜ということもあり人が大勢だ。景観を大事にしている通りには高い建物がなく、UzdrowienieやSAKURAのようなお洒落なお店がいくつも軒を連ねていた。

 今日行われる佑のライブは、老舗のライブハウスで演奏される。まだ知名度の低い佑だから、満員御礼というわけにはいかないだろうけれど、対バンには最近売れ始めているスリーピースバンドがいた。うまくいけば、そこから客が流れてきてくれるかもしれない。

 私の頬をぶった彼女は、今日のライブに来るのだろうか。あれだけの暴言を吐き暴力をふるった後では、顔を出し辛いだろうな。
 他人事のように思い、ライブが始まるまでウインドーショッピングやカフェで時間を潰していた。

 少し前、梶さんに佑のライブのことを話すと、一度観てみたいなと言ってくれた。ただ、ライブの話をしたのは急だったし、定休日でもないから当然都合がつくはずもなく、今日は私一人でやって来ていた。

 どのくらいお客は来てくれるだろう。ライブにくる人は、目的のバンドが終わってしまえばライブハウスを出てしまうことが多い。少しでも興味を持って残ってくれた人を帰さないために、演奏者はここぞという曲で掴みにかかる。それが功を奏す場合もあれば、まったくそうではない場合もあって。ライブに行くたびに、私の方がお客の入りを気にしてドギマギとしてしまう。演奏中にドアが開けば、客が帰ってしまうのかと振り返り、佑よりも落ち着きがない。

 佑は佑でもちろんお客の入りは気にするだろうけれど、いざ演奏が始まってしまえば歌うことに夢中で、そんなことはどうでもいいとばかりに声を張り上げ、ギターをかき鳴らす。曲や詞に込めた思いを、今ここで出し切らなくてどうするんだというように歌い上げる。その姿を目にし、漸く私も佑の音楽を楽しむことができるようになる。

 今日は、どんな曲をやるのだろう。あの夜聴かせてくれた曲を演奏するのだろうか。もしもそうなら、今日来たお客さんはついている。だってあの曲は、この後きっと世に出ることになる。そして、信じられないくらいに売れることになるはずなんだ。この曲、CDになる前から知ってるよ。そんな風に自慢できること間違いなしなんだから。

 当の佑よりも肩に力を入れてそんな妄想に耽っていたら、ライブの時間が迫っていた。
 財布の中のチケットを確認し、チェーン店のカフェを出た。ライブハウスの狭く急な階段を下り、受付にチケットを渡し、たくさんのフライヤーを渡され会場入りする。
 ドリンクカウンターでチケットの半券をビールに換え、後ろへ行く。佑の歌をステージ傍で聴きたいけれど、敢えて後ろに立つのは、お客の反応や人数も知りたいからだ。

 ひとつ前のステージでやっていたバンドのお客らしき何組かが残っていたおかげで、客席がスカスカということもなく、まずはホッとした。スタンディングでは百名ほど入るこのライブハウスに、今日はテーブルとイスがいくつか置かれていた。今は疎らな観客席だけれど、きっと佑ならこの箱を人が犇めき合うくらい満員にできる日が来る。そして、いずれこの小さな箱では補えないくらいのファンが押し寄せるんだ。

 預言者のように確信を持った思考に満足し、ビールを口にした。

 スタンディング用の背の高い小さな丸テーブルにビールの入ったプラスチックカップを置き、始まるまでの時間にフライヤーに目を通した。知らないバンドばかりだ。その中に紛れている佑のフライヤーは、いつもよりちょっと手が混んでいた。いつもならブルーや黄色の紙に黒文字の単色刷りというシンプルなものだけれど、今回はカラー印刷だった。もしかしたら、事務所が売り出そうと再び力を入れ始めてくれているのかもしれない。だとしたら、契約の話もいい方向へ進んでいる気がした。今までに出したCDも、受付で売られているとフライヤーに書かれていた。

 軽快に流れていた演奏前のBGMがふっと止み、ステージにふわっと明かりが灯る。雑談をしていた観客席が徐々に静まり返り、袖から現れた佑の姿に拍手と僅かな歓声が上がった。

「どうも。大友佑です。最近は路上ばかりで、箱でやるのは久しぶりだから、ちょっと緊張してます」

 MCが苦手な佑に、思わず「真面目かっ」と突っ込みそうになってしまった。

 佑のファンはじっと佑の言葉に耳を傾けているけれど、それ以外の観客はまだ雑談を続け、見慣れない佑の姿に噂話をしているようだ。ザワザワとなかなか落ち着かない観客を前にしても、特にイラついた様子もなく、照れくさそうにギターを抱え直し、シールドを確認するようにして見ている。目の前にある足元のスピーカーに貼られているだろう手書きのセットリストを、緊張を誤魔化すように何度もチラチラと見ている。
 弦を鳴らしギターの音を確認し、んんっ、なんて喉の調子を整えながら一曲目のスタートだ。

「聴いてください。あの日の優しい夜」

 辛いことや憤ることがあるたびに二人で行った夜の公園。その事を詞にした曲だ。
 佑の優しい声。沁みるギターコード。泣いているみたいに、でも立ち向かうような強さを持った曲。
 思い入れがありすぎて、一曲目から泣いてしまいそうだ。

 目じりに浮きでた涙を指先で拭い、曲に耳を傾ける。気がつけば、さっきまでおしゃべりに夢中だったお客も、噂話をしていた人たちも、誰も声を発していない。みんなが佑の曲に耳を傾け、聴き入っていた。

 それに気がついた瞬間に、やっぱり泣き出しそうで。今すぐにでも佑に話しかけたい衝動に駆られた。

 ほら、見て佑。みんなが佑に注目してるよ。みんなが佑の音楽に聴き入っているよ。だから大丈夫。佑は絶対に売れる。

 歌い上げる佑を見ながら、また涙を拭った。続く緩やかな音の波。照れくさそうに弾む曲に切り替えて、観客の心を掴んでいく。そうしこの夜、佑の音と声がお客の心を掴んでいった。

 何人のお客をものにできただろう。ローディーなどいない佑は、自ら楽器や自分の機材を回収し、片づけている。そこへ何人かのお客が、舞台上の佑にフライヤーを手渡していた。

 フライヤーには、簡単なアンケートがついていた。通常それは、帰り際受付に渡して帰れば済むことなのだけれど、直接渡したいというファン心理を働かせたということは、いい傾向だと思う。

 その様子を少しの間満足げに眺めてから私はライブハウスをあとにした。
 外に出ると、なんとなく雨の匂いがしていた。もしかしたら降ってくるのかもしれない。ライブハウスを出たところで夜空を見上げていると、バッグの中でスマホが震えていた。LINEの画面に通知のマークがついている。佑からだ。

 事務所とレコード会社の人たちが来ていて、この後打ち上げだから、雪乃も来たら?

 そう書かれたメッセージに、これはかなりいい傾向だと私の表情は一段と明るくなる。契約やCD関係で話が進むといいな。

 浮かれた感情を押し込め、断りの返信をした。いくら身内みたいなものだとはいえ、部外者が同席していいような気はしない。佑の人生だ。佑が思うとおりに生きなきゃ何の意味もない。自分の言いたいこと、やりたいことをアピールしたらいい。とはいえ、契約更新がまずは先だけれど。

 久しぶりにライブを観たせいか、思いの外疲れていた。きっと、お客の入りを気にし、はしゃぎ、観客の動向に涙し、感情を忙しくさせていたからだろう。

 部屋に帰りシャワーを浴びてサッパリした。窓から見える空はまだどんよりとしているだけで、地面を濡らすことはなかった。きっと、二度目になる佑の門出になるだろうこの日を、何とか穏やかな一日にしようと頑張ってくれているに違いない。
 空の頑張りに笑みをこぼし、ありがとうと呟いて布団に潜り込む。
 翌朝目が覚めると、佑から「いいライブになった」と一言LINEが入っていた。