外に出ると平日だというのも関係ない程、街は賑やかだった。既にアルコールに満たされた人たちが、そこいら中で声高に話している。学生が多く集まる街だからだろうか。来た時もそうだったけれど、スクランブル交差点を渡るのも、人にぶつからないよう気を付けていないと躓いて転んでしまいそうだ。

 この都会よりも、ほんの少しばかり離れた町で生まれ育った私にしてみれば、この人の量は少しばかりの厳しさだった。学生の頃は、友達と遠出と言っては、度々この街に来ていた。特に長期の夏休みや冬休みには、お小遣いをため、セール目当てに訪れていたのは懐かしい思い出だ。

 私の生まれ育った町は、確かに大きな建物もあったし、チェーン店がいくつも点在しているような、そこそこ人口密度のある場所だった。しかし、ここはそれを遥かに上回る。この中に都内出身の人たちは、どれくらいいるのだろう。多分、一掴み程度ではないだろうか。みんな、ほんの少し離れた場所からやってきた人たちや、とても遠い地からここへとやって来た人たちだろう。学生の頃は流行の最先端を行くこの街に来ると、ワクワクと楽しかった。けれど、大人になってからは、この街の密集具合にいつも辟易させられている。

 信号が青になるのと同時に、人波が一斉に動き出した。その波に押されるように歩き出す。それと同時に、梶さんの手が私の手を握った。

「電車は、混んでいて疲れるだろうから。タクシーを捕まえよう」

 ホームに辿り着くのもやっとのこの場所を一生懸命に歩いて駅の階段を上り電車に乗るよりも、家の近所までタクシーのシートに身を委ねる方がずっと楽だ。

 手を引かれ、渡り切った先のロータリーへ向かい、空車のタクシーを探した。幸い、人波をかき分け進むことがほとんどないままタクシーを捕まえられた。
 道路事情もあって初めはなかなか進まなかったタクシーも、混雑している街を離れると割とスムーズに家の近所まで戻ることができた。

 家の最寄り駅辺りでタクシーを降り、意外にも人通りがある裏手の道を行くと、最近できたようなお洒落な雰囲気の居酒屋ダイニングの前で梶さんが立ち止まった。
 どうやら、目的のお店はここらしい。

「こっち側の道も、人通りがあるんですね。知りませんでした」

 率直な感想を述べた。

「この辺は、旧商店街通りになるんだよ。元々こっちの方が賑わっていたけれど、駅前開発で今は向こうの目につく通りの方がメインになってるよね。ただ、こっちもまだまだ人気のお店が多くて、人は集まっているよ。僕の店も、この辺りにしようか迷ったくらいだから」

 もしもUzdrowienieがこの旧商店街通りで営業していたなら、SAKURAはどうなっていたのだろう。確か、店舗を設立した時期はUzdrowienieより少しあとだったと聞いているから、もしかしたら櫻子さんのカフェも、この辺りの同じような近くの場所で営業をしていたのかもしれない。ううん。櫻子さんなら、きっと梶さんを追ってきたに違いない。どんな場所に梶さんがお店を持とうと、そこには対のようにあのカフェが存在する。それがまるで当然のようにイメージできてしまった。

 梶さんに付きまとう櫻子さんの存在を振り払えないまま、店内に入り個室に案内された。促されるまま先に席に着くと、隣の椅子に梶さんが座った。

「この前は、淳史に先を越されたけど。好きな人とは、隣同士に座るのが好きなんだ」

 カフェの時と同じように、梶さんが隣に腰かけたことで、居酒屋の明るさも手伝い顔が余計に赤くなっている気がした。シネコンでも隣の席で手だって握っていたのに、何を今更と思うかもしれない。けれど、場所が変わり、しかもこれだけ店内の照明に煌々と照らされてしまうと、互いの表情はよく読み取れわけで。今自分がどんな顔をしているのかと考えただけで顔が熱い。

 寄り添うように座る梶さんの肩が触れた。息遣いが近い。一つのメニューを一緒に見ているけれど、内容なんてちっとも頭に入ってこない。

「何がいいかな?」

 すぐそばで聞こえる声にドキドキが増しながらも、何とかメニューの中身を頭の中に入れようとした。
 心臓の高鳴りを抑えながら目で追ったメニューの内容はしっかりしたものが多く、拘った食材の食べ物もいくつかあり種類が豊富だった。
 ドリンクメニューも居酒屋感覚の軽いものから、東北にある日本酒に焦点を置いたものや、ワインではフランスを中心に、よく聞くお手軽なものから少しお高いものまで取り揃えられている。
 グラスワインも、決まった一種類ではなく。選んだワインの物を飲めるのは、気が利いている。その中から、梶さんが選んだブルゴーニュ産の赤ワインをグラスで注文した。

 シネコンでポップコーンを食べてしまっていたので、料理は軽めのものをおつまみ程度に頼んだ。プロシュートとチーズの盛り合わせ。オリーブとグリルしたお肉が少し。それらがテーブルに届くと、イタリアンレストランに来たような雰囲気になり、ここが居酒屋だということを忘れそうになる。ただ、イタリアンのレストランで食事をする際、隣同士で座ることなど、滅多にないだろうな。なんて考えたら、またドキドキしてきてしまった。

「イタリアンのカウンター席みたいだね」
「あ、なるほど」イタリアンにも、カウンター席というのがあるよね。

 同じようなことを考えていたせいで、そんな返答をしたら梶さんがくすっと笑った。なんだか恥ずかしい。

「映画、どうだった?」

 ワイングラスに口をつけ、チーズを摘まんだあと私の顔を覗き見る。

 ち、近いですっ。

 まだ一口ほどしかグラスに口をつけていないというのに、アルコールが体中に行き渡ったみたいに顔が熱くてたまらない。お店にいる間、この状況に耐えられるだろうか。

 落ち着きなく鳴る心臓と共に顔を赤らめながらも、どう応えるべきか一瞬躊躇った。正直に、普段はああいった映画を観ることはないと応えるべきか。それとも、話を合わせるべきか。
 答えあぐねていると、梶さんが話し始めた。

「あの監督はね、元々フランス映画の監督で、とても綺麗な映像を撮ることで有名なんだ。今回初めてアメリカ映画を撮って、僕としてはハリウッドと絡むと大袈裟になる気がして懸念していたけど、流石だよ。やっぱり彼の撮る映画は、素晴らしかった」

 梶さんはとても饒舌に話し、満足そうな表情をした。

 確かに、映像は本当にきれいだった。無声映画だと言われて見せられても、ずっとスクリーンを眺めていられたかもしれない。梶さんにドキドキする傍ら、映像美にも魅せられていたおかげで、実のところ内容は、盛り上がりの部分以外あまり覚えていないのだ。

 とてもいい映画だったと語る梶さんの息遣いの近さには、どうしても鼓動が騒がしくなる。隣同士で座るって、こんな風な感覚になるものなんだ。

「おかわりする?」

 気がつけば、グラスのワインは残りわずかになっていた。梶さんがメニューを開いて差し出してくれた。
 ドリンクメニューは目を惹くものが多くて、色々と飲んでみたいけれど。ワインとちゃんぽんして、悪酔いするのはどうかと思い別の赤ワインをお願いした。

「じゃあ、僕はウイスキーにかえようかな」

 程なくしてテーブルにグラスワインと、丸い氷が入ったウイスキー。それに、チェイサーが置かれた。
 以前もうそうだったけれど、たくさん食べる人ではないようで、テーブルの料理にはほとんど手を付けていない。さっきから自分ばかり食べていることに不意に気がついた瞬間、とてつもなく恥ずかしくなった。

 やっぱり食い意地が張っているよね。乙女をどこに忘れてきちゃったのよ、もうっ。

 皿の上からとうになくなってしまった料理を前にしては、もうどうにもならないのだけれど。
 自分の食い意地に若干凹んでいたら、急に顔を覗き込まれた。

 だからっ。顔が近いですって。

 さっきは、アルコールがほとんど入っていなかったけれど、今度は二杯分のアルコールのせいで、体まで熱くなり恥ずかしさについ俯きがちになる。

「美味しそうに食べる顔、好きだよ」

 す、好きっ。
 そんな癒し系の顔で、どうしてそんな大胆なことを平気な顔で言ってしまうのですか。

 好きっていうワードに、慌てふためき過剰反応する心臓を必死に抑えつけた。

「僕は、美味しそうにご飯を食べる表情が好きなんだ」

 もぉー。だから、それ反則ですって。心臓が壊れちゃいます。

「僕は、食べ物にあまり執着する方ではないから。好きな人が美味しそうに食べている顔を見て、満足できてしまうんだよ」
「そんなこと言ったら、私ドンドン食べて太っちゃいますよ」

 これだけ返すのが精いっぱいで、残ったグラスワインを一気に喉へと流し込む。恥ずかしさを隠すようにそうしていると「雪乃ちゃんは、可愛いよ」と、頭を引き寄せるようにして抱き寄せられ、髪の毛にキスをするから驚いた。

 ダメだ。もう、心臓が持たない。梶さんの行動は大胆過ぎて、どうにかなりそう。いくら個室とはいえ、こんな風にされたら嬉しさと恥ずかしさでクラクラしてしまう。

 好きな人に感情を右往左往させるのはとても幸せだけど、心臓は落ち着きをなくし、顔も熱すぎて倒れてしまいそう。

 どうしよう。梶さんのことが好きすぎる。
 梶さんは、私の気持ちをこんなに振り回していることを知っているのだろうか。大人で普段はとてもスマートな対応をするのに。いざ二人きりになると、そこら中を甘い空気が埋め尽くし、溺れてしまいそうになる。梶さんという甘く酔い心地のいい海の中で、私は彼の愛に溺れていく。

 外に出るころには、繋がる手は自然な仕種にかわっていた。

「同じマンションに帰るって、いいね」

 以前、同じようなことを思ったことがあったので大いに頷いたら「同じ部屋だったらもっといいのに」なんて返されるから、落ち着き始めていた心臓は、ものすごい勢いで跳ねあがり。顔から火が出るかと思った。一時たりとも落ち着かせてはくれない甘い言葉の数々に、私の心臓はやられっぱなしだ。

 こんなことを言う人だなんて、本当に思ってもみなかった。スマートな表情から、大胆で照れくさくなるような、幸せに溢れた言葉の数々を浴びせられていることに私は幸福感を得ていた。