これと言って代わり映えのしない仕事を終えるころ、梶さんから再びメッセージが届いた。
 平坦な波の中で淡々と仕事をこなしていると、スマホの画面に現れた本日二度目になる名前は強烈だ。あっという間に心がウキウキとしだすのだから、現金とさえいえよう。

 メッセージには、少しお腹が空くかもしれないけれど、映画を観てから食事でもいいだろうかという内容のことが書かれていた。

 既に小腹は空き始めていた。大して脳みそを使ったような記憶もないけれど、生きている以上空腹を覚えるのが人間だ。食事までに時間があるとなると、どんな内容の映画を観るのかまだわからないが、真剣な場面や泣ける場面で、間の抜けたお腹の音が鳴ってしまっては台無しだろう。笑われてしまうかもしれない。抽斗の中にある、チョコレート菓子でもつまんでから行こうか。

 一部備蓄庫と化している抽斗を開けて中を覗き、コンビニサイズのサンドクッキーやアーモンドの入ったチョコレートを眺めていたら、美香が「あれ。デートじゃないの?」と不思議そうな顔を向けた。
 この後会う約束をしていることを知っている美香にしてみたら、今からおやつを食べようなんておかしな話だろう。

「映画をね、観てからご飯にしましょうって。それで、観ている間にお腹が鳴ったら恥ずかしいなって思って」

 備蓄庫の中から、チョコレート菓子の袋を一つ取り出しシャカシャカと振る。

「おバカ」

 美香が呆れた顔を向けた。

「映画と言えば?」

 突然のクイズに慌てて考える。
 映画と言えば、何だろう。

「あ」
「そう。ポップコーンでしょうよ。しかも恋人同士なら、一つのカップで仲睦まじく食べるのがいいでしょう」

 人差し指を立てて僅かばかりニヤリとしながら、美香が触れ合いターイムなんて笑う。

「一つのカップに伸ばす互いの手。触れた瞬間に、あっ。なんてなるわけでしょうよ。それも楽しかったりするのが映画でしょうよ」

 はしゃぐように提案する美香の言葉に、同時にポップコーンへと手を伸ばす図が浮かんで頬がぽっと熱くなる。

「チョコ菓子なんかでお腹膨らませてる場合じゃないですよ、雪乃さん。仲良くやりなさいな」

 お疲れ~。とひらひら手を振り美香がフロアを出ていく姿を見送って、備蓄庫へと再びチョコ菓子を戻して返事を打った。

【大丈夫です。ポップコーン食べますから】

 安易に返してから、これじゃあ、食い意地張ってるかな。と肩を竦めていたら、梶さんから笑顔のスタンプが届いて恥ずかしくなってしまった。
 食べ物好きはとうにバレてしまっているだろうけれど、食い意地が張っていると思われるのは、乙女としていかがなものか。次回からは、返事に気をつけなくちゃ。

 指定のあったシネコン前で、直接待ち合わせをした。館内に入ると席は予約済みで、二人でポップコーンと飲み物を買って開演時間目指して案内に従い中に進む。
 始まる前のざわつきの中、ゆったりと作られた席に座ると、何だかどっと疲れが押し寄せてきた。座席は座り心地がよすぎて、このまま目を瞑ってしまいたいくらいだ。
 右隣に座る梶さんから飲み物を受け取り、左サイドのドリンクホルダーに置いた。ポップコーンは、二人の間にあるひじ掛けに設置された場所に置かれた。

「どんな映画なんですか?」

 ここへ来るまでに喉が渇いていたので、買ったアイスティーに口をつけた。ストローから体内に流れ込んでくる冷たさがたまらない。

「雪乃ちゃんが好きかと思って。最近人気の恋愛ものにしたよ」

 梶さんからパンフレットを渡され、まだ照明のある明るさの中で写真やストーリーに目を向けた。
 男女二人の切ない恋物語。ありきたりな中にある紆余曲折が、見る人の心をダイレクトに掴むらしく、共感度が高いと評判の映画だ。かなりの興行成績を上げている海外の恋愛映画だった。

 パンフレットを眺めながら、今まで切ない恋愛映画を観に来たことがないということに気がついた。
 付き合ってきた人たちと観たのは、コメディタッチの物が多かったし。佑と来たときは、ドキドキするようなファンタジーやSFものが多かった。佑に言わせれば、私に切ない恋愛映画なんて似合わな過ぎて笑えるらしい。私自身も、そういった内容の映画に興味を抱いたことはなかった。どちらかと言えば、楽しく見て笑えるか。感動物のヒューマンストーリーに号泣する方が好きだからだ。
 佑に切ない恋愛映画を観てきたなんて言ったら、指を刺され爆笑されてしまうかもしれない。お腹を抱えて笑っている佑の姿が容易に想像できて悔しくなる。

「雪乃ちゃん?」

 脳内の佑に文句を言ってやろうかと思っていたら話しかけられた。

「あまり好みじゃなかったかな?」

 パンフレットを握りしめたまま妄想していたら、余計な気を遣わせてしまった。

「いえ、そんなことは。どんな話かなって、ちょっと想像を巡らせていて」

 取り繕うように慌てて応える態度に気づいているのかいないのか、「ポップコーン食べてね」といつもの微笑みをくれる。

 照明が落ちて、本編前の宣伝が始まった。大きな音が椅子の背もたれから聞こえてくる。
 薄暗闇の中でもわかる、梶さんの優しい笑み。佑の嫌味なんて想像している場合ではない。美香に「甘えなさい」と言われたことを思い出す。

 そうだよ。今のこの時間を楽しもう。

 二人の間にあるポップコーンへ私が手を伸ばすと梶さんも同時に手を伸ばすことがあって、触れた指さきにドキリとした。その度に画面の灯りの中に見える表情を窺うと、微笑みを向けてくれていた。字幕を追わないと内容なんて頭に入ってこないのだけれど、梶さんの笑みに惹きつけられて、どうしてもすぐには目を放せない。見つめ合うこと数秒。顔に血が昇り、クラクラしそうだ。
 幸い暗がりで、頬が紅潮しているのはわからないと思うけど、気づかれてしまっているだろうか。

 ポップコーンを食べきると、梶さんは空いたポップコーンのカップを足元に置き、左手で私の右手を握った。
 驚きと嬉しさに隣を見ると、またあの癒しの笑みをくれた。そのすぐ後には、指を絡ませるように握られて、今目の前で繰り広げられている映画の甘いシーンとリンクするように、とろけるような愛しい気持ちが心に沸き起こる。
 恍惚とした気持ちになりながら、これがシネコンなんて人目のある場所じゃなかったらキスしたいほどだった。

 あの日。帰り道に触れた梶さんの唇の感触が蘇り、ドキドキとしていた。大人のキスにしては物足りなくて、でも子供のキスなんかじゃけしてない、少しだけ長くて熱いキス。
 そこまで考えて、恥ずかしすぎる自分の妄想に頭が爆発しそうになった。

 大好きな人と恋愛映画を観に来ると、こんな気持ちになるんだね。知らなかったよ。それともこれは梶さん効果? 彼の人柄がこんな気持ちにさせてくれるのかな?

 今まで感じたことのない恍惚感は、自分自身で恥ずかしくなりながらも幸せに満ちていた。
 胸の高鳴りを抱きながら観ていた映画は、長いようで短くて。握られた手は、このまま放すことができないかもしれないという愛しい想いに溢れていた。

 エンドロールが流れ出し、お客さんは次々に席を立つ。他の人たちが席を離れていく中、繋がる手を放すのが惜しいように互いの手を握ったまま私たちは席に着いていた。確認するように、もう一度互いの指を深く絡め、エンドロールが終わるまで余韻に浸った。

「行こうか」

 照明がつき、清掃員が片付けのために中へと入ってきた。
 名残惜しいまま手を放し、バッグと食べ終わったカップを手に出口を目指す。

「ポップコーンでお腹が膨れてしまったかな」

 席を離れて出口に向かいながら、半歩後ろを歩く私に向かって梶さんの手がスッと伸びてきた。躊躇うことなく、その手を取る。再び繋がった互いの手。幸せ過ぎて、口角は上がりっぱなしだ。
 梶さんが愛しい。愛しくて、たまらない。