レストランからは電車に乗らず、手を繋いだまま並んで歩いていた。道路沿いを少しばかり行ってから、大きな公園を横切る。夜の公園は、一人なら怖くて絶対に通ったりしないだろうけれど、梶さんと一緒というだけで、怖さよりも街灯の少ない静けさが心地よく感じられた。少し前に刈られたばかりなのだろうか、青臭い香りが時折緩い風に乗って鼻腔に届く。スニーカーが踏みしめる草の音は、硬すぎず、柔らかすぎず。ほんの少し沈み込むような感覚がアスファルトとは違って、自然の中にいることがよく解る。

 芝生の広場を抜け、少しだけ上り坂になった細い道には枕木が設置されていた。街灯は等間隔にあるけれど、足元をよく見て歩かないと、その枕木に足を取られて転んでしまいそう。梶さんが繋がる手に少しばかり力を入れ、放さないようしっかりと握ってくれた。

「大丈夫?」

 時折かけられる、気づかいある優しい声に頷きを返す。

 キスをした後の梶さんは、フレンチを食べていた時とは打って変わり、とても物静かだ。余計な言葉など必要ないとでもいうように、歩幅を合わせて歩いてくれる。

 片や私は、キスしたことにも繋がるこの手にもドキドキはやまなくて落ち着かない。付き合いの長い恋人同士なら、会話のないこの時間も何ら慌てることなくいられるのだろうけれど。付き合い初めにこの無言の時間はハードルが高い。

 枕木の坂道を登りきると、再び拓けた場所に出た。子供が駆け回って転んでも、大きな怪我をしないようになのか、コンクリートのような地面はとても柔らかな材質でできていた。

 梶さんは、ドキドキしたりしないのだろうか。私だけが、こんなに胸を高鳴らせ、繋がる手に緊張しているのだろうか。今までも年上の男性と付き合ったことは何度かあったけれど、こんなにすぐ穏やかな空気を醸し出す人がそばにいたことはない。付き合い始めは、高揚感にテンションを上げることが多かった気がする。

 櫻子さんが言うように、この無言の時間の中で、梶さんはたくさんの色んなことに考えを巡らせているのだろうか。どんなことを思っているのだろう。私のことだけを考えてくれているのかな。そうだと嬉しいな。

 少しの間会話を探しながら歩き、まだ佑に距離を置く話をしていないことを、どう梶さんに伝えたらいいのかも考えた。

 柔らかなコンクリートの地面を見つめながら手を引かれていると、公園の出口が見えてきた。
 見覚えのある場所。近所にある大きな森林公園の入り口と似ている。もしかして、この公園は私が知っている森林公園と同じなのかも。夜の雰囲気と、敷地の広さに判断ができない。

 公園の外に出ると、見慣れてきた風景が目に入る。やっぱり、同じ森林公園だったようだ。それほど歩いたという感覚はないから、公園を抜けるとかなりショートカットできるということを知った。これだけ広い公園だから、他にも出入り口はあるだろう。どこに繋がっているのか調べたら、色々なところへ行く近道を知ることができるな。

 少し行くと、見慣れた道路の前に出た。ここからは、マンションまであと少しだ。

「あの。梶さん」

 通りに出て、信号待ちで止まったのを機に話を切り出した。

「この前のことですけど。実は、まだ佑に話せていなくて……」

 そんな風に切り出してはみても、できるなら距離を置くなんてことはしたくないのが本心だ。佑とは、今の状態がベストで、これ以上近づくことも離れることも均衡を崩してしまう。

 梶さんが苦笑いを浮かべた。まだ話していないのかと、呆れているのかもしれない。
 折角幸せな気持ちでいたのに、胃が痛いな。

 気分を害してしまったかもしれないと、顔色を窺うように慌てて話を続けた。

「佑とは、あれ以来会っていなくて」

 早口で取り繕うと、優しい瞳で見つめられる。

 佑と距離を置くということは、身近な相談相手を失うという不安に陥る。何かあれば連絡をして、愚痴に付き合ってもらっていたあの日常が失われるとなると、不安を覚えずにはいられない。

 友達がいないわけじゃない。同級生とはたまにLINEで連絡を取り合うことだってあるし、会社には美香もいる。けれど、幼い時からの全てを理解しているのは、佑ただ一人だ。何かあるたびに昔のことを根掘り葉掘り話して聞かせなくても、阿吽の呼吸で理解し、不安を取り除き、時には元気が出るように笑い飛ばしてくれる。佑は口が悪くて横柄に見えるけれど、本気の悩みを馬鹿にしたり、頭ごなしに抑えつけたりすることはない。

 佑が女だったらよかったのに。そうでなければ、私が男ならこんな風に頭を悩ませることも、梶さんに気を遣わせるせるようなこともなかったのだから。幼馴染が異性というだけで、こんなにも生きにくい。

 梶さんが小さく首を横に振った。それは、急がなくてもいいよ。と気を遣われている半面、まだ話していなかったんだねという寂しげな表情にも捉えることができた。

 ごめんなさいと口にしそうになった時、大きく暖かな手が左頬に伸びてきてそっと触れた。
 再び心臓が高鳴り、ドキドキしながら梶さんの瞳を見返した。

「腫れは、引いたみたいだね」

 頬から手が離れる。

「あの時は、少し言い方がきつくなってしまってごめんね。君を傷つけるものがすぐ近くにあると思っただけで、気持ちを制御できなくなってしまったんだ。けど、佑君は幼馴染って言っていたし、雪乃ちゃんにとっては大切な家族のようなものなのかもしれないって考えてね」

 もしかして、理解してくれたの?

 悩んではみても解決できなかった問題に光が差し、表情は自然と明るくなる。

「ただね……。僕は、こう見えて焼きもち焼きだから。いくら幼馴染とはいえ、雪乃ちゃんと佑君との距離に、何でもないふりをしたままではいられないかな」

 心臓がドクリと嫌な音を立てた。

  ああ、やっぱりこうなるんだ。

 今までそばにいた人たちと何ら変わらない反応を示されて、私の目が力なく伏せられる。

「あまり急かすことはしたくないけれど、僕の気持ちも解って欲しい」

 表情は穏やかでいて申し訳なさを滲ませているけれど、結局のところ佑の存在を認めることができないということだ。
 射した光は幻で、また暗闇に逆戻りしてしまった。いつものように、どちらを選ぶのか、そう問われる日がくるのだろうか。梶さんと佑を天秤にかけるなんてできるわけがない。恋人と幼馴染という違う二人を同じ秤に乗せたところで、答えは出るはずがないのだ。

 言葉もないまま歩き続け、ほどなくしてマンション前に辿りついた。

「佑君と、仲良くなれたらとも思うんだけど……」

 佑とのことで悩み言葉数が減ってしまうと、梶さんが譲歩するようにポツリと言った。
 弱々しい笑みを浮かべたまま、まだ何も言えずに黙っていると言葉を続けた。

「雪乃ちゃんが信頼をし、家族のように共に歩んで生きた彼のことを知ったら、僕も仲良くなれるかな?」

 そこまで言ってくれる気持ちは、素直にありがたいと思う。けれど、梶さんが抱えている感情が吹っ切れたわけではないだろうし。無理に仲良くなろうとすれば、歪みが出ないだろうか。無理をし続けていった先で、歪みに足元を掬われたりしないだろうか。

 相手が自分のことをどんな風に思い感じているのか。苦手としている相手なら特にそうだと思うけれど、意外とそういった感情には気づきやすいものだ。無理に仲良くしようとすれば、佑はそんな梶さんの気持ちに気づき、同じように無理をし。果てには、強い感情をぶつけるかもしれない。真一文字に唇を結び、睨みつけるだろう佑の表情が浮かんで胃がキリキリとした。

 それでも、仲良くしたいと言ってくれた気持ちには感謝をしないと。
 今までなら、佑とのことは頭ごなしに否定されてばかりだった。いつも尖がった態度ばかりをする佑だから、余計に話がこじれることもあった。体の関係まで疑われたことだってある。私たちがその事でどれほど傷ついたか。

 恋人になった相手が、歩み寄ろうと考え始めてくれたことは、今までにないことだ。梶さんなら、本当に佑とのことを受け入れ、仲良くなってくれるのかもしれない。

「慌てず、ゆっくりいくよ。急いては事を仕損じる。すぐに解りあおうなんて、虫が良すぎる話だからね」

 梶君は、たくさんのことを考えているの。
 櫻子さんの言葉が、頭の中をグルグルと巡る。

 無理をさせているのは、明らかだよね……。
 付き合い始めから重い空気になるなんて、この先に不安しかないように思えて気持ちが沈む。

「雪乃ちゃんが間に立ってくれたら、僕は安心かな」

 心情を察してか、梶さんは明るい口調で前向きなことを言ってくれた。
 この態度と言葉に、大人の男性だと安心して寄りかかってしまっていいのだろうか。
 穏やかで優しい笑みのその裏で、彼はどれだけのことを考え、心を悩ませているのだろう。本当は、佑と仲良くしたいなんて、思っていないのかもしれない。私の手前、我慢しているだけなのかもしれない。
 我慢を積み重ねた先にあるものが、けしていいことではないのは、高々二十数年生きてきただけの私にだってわかる。
 梶さんの優しさに触れると、私の抱える全てが我儘に感じられて堪らなくなった。

「おやすみ、雪乃ちゃん」

 部屋の前でふわりと抱き締められ、おでこにキスがおりてきた。
 心ごと包み込まれる安心感は、梶さんから漂う特別な空気だ。この安心感をずっと大切にしたい……。

「おやすみなさい」

 部屋に入るまで見送る姿に、心臓は想いをのせて穏やかな音を立てながらも、迷いに僅かな影が降りていた。