櫻子さんが業務に戻ったあと、カウンター席の背もたれに力なく寄りかかる。
初めて梶さんを見かけてから、気づかぬ間に心は惹かれていた。それがどの瞬間だったかなんて、細かいことはわからない。お隣のドアの前に立つ姿を見た時からだったのか。お店に来て欲しいとUzdrowienieのチラシを手渡された時だったのか。それとも、このカウンター席で初めて隣同士に座った時だったのか。いずれにせよ、自分の頭で考えるよりもずっと先に、心が梶さんに惹かれていたのは間違いない。梶さんを想う気持ちは、嘘でも偽りでもない。けれど、櫻子さんから見える私は、梶さんを想う気持ちが薄っぺらに感じられるのだろう。だから、さっきみたいな言葉を向けられたのだ。
傍から見れば、どんなに薄っぺらかろうが何だろうが、想う気持ちは本物だ。だからこうやって悩んでいるわけだし。安易な気持ちだったわけじゃない。告白されて見つめられて、心臓は激しく鼓動を打ったし、心だって熱くなった。ただ、梶さんの気持ちをもっとよく考えてから、返事をするべきだったんじゃないだろうかとも思う。
こんな風に考えてしまうのは、櫻子さんという存在や、彼女から向けられた言葉に心が怯えているせいなのだろうか。
グルグルと考えを巡らせたところで、なんら答えは出てこない。ガラスの向こうでは、梶さんがこちらに向かって軽く手を上げながら歩いてきていた。どうやら、在庫整理が終わったようだ。
ほとんど口をつけることのなかったミクティーを一瞥し、バッグを手に立ち上がる。
ミルクティーを残してしまったことに、申し訳ない気持ちで店内の奥を振り返った。ごめんなさいと頭を下げてから気がついた。櫻子さんは、席を立った私に気付くこともなく、真っすぐ梶さんを見つめていたのだ。その瞳には、どう考えても想いが見て取れた。瞬間、心がキュッと締め付けられ息苦しくなる。そこから無理やり視線を外し、振り切るようにカフェのドアに手をかけた。
「雪ちゃん。また来てね」
いつの間にそばに来たのか、櫻子さんが開けたドアを支え笑顔で私を送り出す。その表情に釣られて口角は上がるものの、気づいてしまった想いに気持ちのやり場がない。
カフェの甲板を降りて道路を渡ると、梶さんがにこやかな表情で迎えてくれた。そこで初めて肩に入っていた力に気がつきほっとした。SAKURAにいる間、どれほど気を張っていたかがわかった。
「待ってもらって、ごめんね」
首を振っていると、あっ君も出てきた。
「雪ちゃーん。僕も一緒に行きたいのは山々なんだけど、今日は用事があるんだよ。残念っ。じゃあ、またね」
早口で言うと、あっ君は足早にUzdrowienieをあとにした。
「あっ君、忙しそうですね」
「起ち上げようと考えている自分の会社のことで、色々と大変なようだよ」
いつも冗談ばかり言っているあっ君だけれど、仕事にはしっかりと向き合っているのだろう。すごいなぁ。
尊敬の眼差しを向けながら、小さくなっていくあっ君の背中を見送った。
「気軽に入れるいい店があるんだけど、そこでいいかな」
あっ君を見送った後、二人で肩を並べて歩いた。二駅先まで電車で行き、ホームに降り立つ。改札を出て駅から少し歩き、路地を曲がった先にあったのは、カジュアルフレンチのレストランだった。気軽に入れると言っていたので、今までのように居酒屋さんのような場所を想定していたから少し驚いた。
戸惑うようにお店の外観を眺めていたら、「フレンチ嫌い?」なんて訊ねられて首を振った。
店内に入り案内されて、向かい合い席に着く。どうやら、予約をしてくれていたようだ。
梶さんは、手渡されたドリンクメニューを慣れたように見ている。カジュアルとはいえフレンチのお店に来ることになるとは思いもしていなかったから、私の身なりはなんともラフなジーンズにTシャツ姿だ。店内に視線を走らせ、他のお客さんがどんな服装か観察した。幸いチノパン姿の男性や、ジーンズとまではいかなくてもラフな格好の人が数名いたことでひとまずほっとした。
「赤でいいかな?」
ドリンクメニューを見て梶さんが注文をする。
「嫌いなものは、ないんだよね?」
ポーランド料理のお店でした会話を、覚えていてくれたらしい。お肉にするかお魚にするかを応えて、料理は梶さんにお任せした。
赤ワインが、程なくしてテーブルに届いた。ぷっくりと膨れたワイングラスに注がれる真紅の色を眺めながら、トクトクと注がれる心地いい音に耳を傾けた。
ワインは、味以外でも楽しめる。形がいい素敵なグラスも、注がれた微妙に違うワインの色も、グラスに小さな波を起こす音も。種類によって違う香りも。
間接照明に照らされた優しい色が、ワインを優しく照らしていた。目の前に座る梶さんの表情はとても穏やかで、グラスを持ち上げる仕草に倣って私も持ち上げた。
「お疲れさま」
梶さんの声には、不思議な力がある。尖った感じが少しもなくて、しっとりと凪いだ海のような声。日常の細々としたストレスや雑音が、スッと溶けてなくなっていくような耳心地のいい声だ。
ワインの味は、渋いのにとてもフルーティーで美味しかった。ソムリエでもないから、どんな風にフルーティーなのかなんて訊かれても答えられない。けれど、少なくとも普段行くスーパーの棚には並んでいないだろうし、当然日常的に口にする味でないことはわかる。
前菜から始まって、少しずつ運ばれてくる料理を堪能した。普段自分で作るB級料理。はたまた、作るのがちょっと面倒になって、帰り際に寄ったコンビニやお弁当屋さんの幕の内らいしか口にしない私にとって。こんな素敵な場所でワインを傾けながら、間合いを見計らったように運ばれてくる料理の数々は、語彙力もなくさせるほどに美味しかった。
食事をしながらの会話は、佑とのことにも、告白されたことにも触れずに進んだ。梶さんが大学生の頃の話や、ポーランドへ行った時の話。叔母のマイペースでいて、常に自信に満ちた振る舞いを尊敬している話。大学を卒業後、IT会社を起業しようとしているあっ君のおかげで、Uzdrowienieのホームページはとても素晴らしく充実した内容になっていることも話して聞かせてくれた。
私が勘違いしていたこともあってか、櫻子さんの話は出ず。あえて触れないように気を遣ってくれている気がした。
ダイニングバーももちろん楽しかったけれど、しっとりとした二人で過ごす時間は楽しいだけではなく幸せだった。 それに、梶さんは私が思っていた以上に話好きで驚いた。もっと寡黙というか、どちらかというと聞き役に徹する、もの静かな人なのかと思っていた。
――――冷静な顔の裏で、本当は胃が痛くなるほどいろんなことを考えているの。
櫻子さんの言葉が脳裡を掠める。
こんな風にたくさん話をしてくれているのは、櫻子さんの言った言葉通りに梶さんが考えすぎてのことなのだろうか。だとしたら、彼の気持ちに負担をかけていることになる。本当は最初の印象通り、物静かで聞き役の人なのかもしれないのに。
「結構飲んだね」
目の前の梶さんを置き去りに、彼の心の内を考えていたら、声をかけられボトルに目をやった。見ると、ほぼ空に近い。
私は、一体何杯飲んだのだろう。食事が始まってからのことを振り返ってみたけれど、せいぜい三杯がいいところだから、あとは梶さんが飲んだことになる。
「梶さんは、お酒が強いんですね」
目の前でグラスを傾ける梶さんの顔は、普段とほぼ変わらず。顔が赤くなっていることも、目元がとろんとしていることもない。
「そうでもないけど。雪乃ちゃんといると楽しくて、進んでしまったみたいだよ」
穏やかな瞳が私を見つめるから、照れくさくなって目を伏せた。
食事を終えて外に出ると、空気には幾分か湿気が含まれている感じがした。
「なんとなく、梅雨の気配がしているね」
梶さんも、僅かに紛れている湿気を感じ取ったようだ。
「あっという間に、梅雨の季節になりそうですよね」
傘を持ち歩くことが増えるのかと思うと、少しばかり憂鬱な気持ちになる。
並んで歩いていると、長く続く幅広の植え込みに紫陽花の花を見つけた。ほんの少しだけ花びらを広げ、街頭の灯りの中花を咲かせていた。
「梶さん、紫陽花――――」
紫色の花に目が行き、梶さんにも見て欲しくて言葉にした時、不意に手が繋がり驚いた。
「雪乃ちゃんの手は、冷たいね」
見つめられる瞳の熱さに、言葉がうまく出てこない。
「ひ、冷え性なんです」
ロマンティックの欠片もない返答に、我ながら恥ずかしすぎる。
「この手を僕がずっと温めてあげたい」
瞳をのぞき込まれるように恍惚として見つめられてしまえば、心臓は否応なく早鐘を打つ。
「雪乃ちゃん。好きだよ」
背の高い梶さんが首を傾げると、唇がゆっくりと近づいてきた。距離が縮まっていく中、自然と目を閉じる。
優しく柔らかく触れる唇。少しだけ長く、温かく。紫陽花に見つめられながら、初めてのキスをした。
幸せな気持ちのずっと奥の方で、梶さんを見つめる櫻子さんの顔が脳裏をよぎる――――。
初めて梶さんを見かけてから、気づかぬ間に心は惹かれていた。それがどの瞬間だったかなんて、細かいことはわからない。お隣のドアの前に立つ姿を見た時からだったのか。お店に来て欲しいとUzdrowienieのチラシを手渡された時だったのか。それとも、このカウンター席で初めて隣同士に座った時だったのか。いずれにせよ、自分の頭で考えるよりもずっと先に、心が梶さんに惹かれていたのは間違いない。梶さんを想う気持ちは、嘘でも偽りでもない。けれど、櫻子さんから見える私は、梶さんを想う気持ちが薄っぺらに感じられるのだろう。だから、さっきみたいな言葉を向けられたのだ。
傍から見れば、どんなに薄っぺらかろうが何だろうが、想う気持ちは本物だ。だからこうやって悩んでいるわけだし。安易な気持ちだったわけじゃない。告白されて見つめられて、心臓は激しく鼓動を打ったし、心だって熱くなった。ただ、梶さんの気持ちをもっとよく考えてから、返事をするべきだったんじゃないだろうかとも思う。
こんな風に考えてしまうのは、櫻子さんという存在や、彼女から向けられた言葉に心が怯えているせいなのだろうか。
グルグルと考えを巡らせたところで、なんら答えは出てこない。ガラスの向こうでは、梶さんがこちらに向かって軽く手を上げながら歩いてきていた。どうやら、在庫整理が終わったようだ。
ほとんど口をつけることのなかったミクティーを一瞥し、バッグを手に立ち上がる。
ミルクティーを残してしまったことに、申し訳ない気持ちで店内の奥を振り返った。ごめんなさいと頭を下げてから気がついた。櫻子さんは、席を立った私に気付くこともなく、真っすぐ梶さんを見つめていたのだ。その瞳には、どう考えても想いが見て取れた。瞬間、心がキュッと締め付けられ息苦しくなる。そこから無理やり視線を外し、振り切るようにカフェのドアに手をかけた。
「雪ちゃん。また来てね」
いつの間にそばに来たのか、櫻子さんが開けたドアを支え笑顔で私を送り出す。その表情に釣られて口角は上がるものの、気づいてしまった想いに気持ちのやり場がない。
カフェの甲板を降りて道路を渡ると、梶さんがにこやかな表情で迎えてくれた。そこで初めて肩に入っていた力に気がつきほっとした。SAKURAにいる間、どれほど気を張っていたかがわかった。
「待ってもらって、ごめんね」
首を振っていると、あっ君も出てきた。
「雪ちゃーん。僕も一緒に行きたいのは山々なんだけど、今日は用事があるんだよ。残念っ。じゃあ、またね」
早口で言うと、あっ君は足早にUzdrowienieをあとにした。
「あっ君、忙しそうですね」
「起ち上げようと考えている自分の会社のことで、色々と大変なようだよ」
いつも冗談ばかり言っているあっ君だけれど、仕事にはしっかりと向き合っているのだろう。すごいなぁ。
尊敬の眼差しを向けながら、小さくなっていくあっ君の背中を見送った。
「気軽に入れるいい店があるんだけど、そこでいいかな」
あっ君を見送った後、二人で肩を並べて歩いた。二駅先まで電車で行き、ホームに降り立つ。改札を出て駅から少し歩き、路地を曲がった先にあったのは、カジュアルフレンチのレストランだった。気軽に入れると言っていたので、今までのように居酒屋さんのような場所を想定していたから少し驚いた。
戸惑うようにお店の外観を眺めていたら、「フレンチ嫌い?」なんて訊ねられて首を振った。
店内に入り案内されて、向かい合い席に着く。どうやら、予約をしてくれていたようだ。
梶さんは、手渡されたドリンクメニューを慣れたように見ている。カジュアルとはいえフレンチのお店に来ることになるとは思いもしていなかったから、私の身なりはなんともラフなジーンズにTシャツ姿だ。店内に視線を走らせ、他のお客さんがどんな服装か観察した。幸いチノパン姿の男性や、ジーンズとまではいかなくてもラフな格好の人が数名いたことでひとまずほっとした。
「赤でいいかな?」
ドリンクメニューを見て梶さんが注文をする。
「嫌いなものは、ないんだよね?」
ポーランド料理のお店でした会話を、覚えていてくれたらしい。お肉にするかお魚にするかを応えて、料理は梶さんにお任せした。
赤ワインが、程なくしてテーブルに届いた。ぷっくりと膨れたワイングラスに注がれる真紅の色を眺めながら、トクトクと注がれる心地いい音に耳を傾けた。
ワインは、味以外でも楽しめる。形がいい素敵なグラスも、注がれた微妙に違うワインの色も、グラスに小さな波を起こす音も。種類によって違う香りも。
間接照明に照らされた優しい色が、ワインを優しく照らしていた。目の前に座る梶さんの表情はとても穏やかで、グラスを持ち上げる仕草に倣って私も持ち上げた。
「お疲れさま」
梶さんの声には、不思議な力がある。尖った感じが少しもなくて、しっとりと凪いだ海のような声。日常の細々としたストレスや雑音が、スッと溶けてなくなっていくような耳心地のいい声だ。
ワインの味は、渋いのにとてもフルーティーで美味しかった。ソムリエでもないから、どんな風にフルーティーなのかなんて訊かれても答えられない。けれど、少なくとも普段行くスーパーの棚には並んでいないだろうし、当然日常的に口にする味でないことはわかる。
前菜から始まって、少しずつ運ばれてくる料理を堪能した。普段自分で作るB級料理。はたまた、作るのがちょっと面倒になって、帰り際に寄ったコンビニやお弁当屋さんの幕の内らいしか口にしない私にとって。こんな素敵な場所でワインを傾けながら、間合いを見計らったように運ばれてくる料理の数々は、語彙力もなくさせるほどに美味しかった。
食事をしながらの会話は、佑とのことにも、告白されたことにも触れずに進んだ。梶さんが大学生の頃の話や、ポーランドへ行った時の話。叔母のマイペースでいて、常に自信に満ちた振る舞いを尊敬している話。大学を卒業後、IT会社を起業しようとしているあっ君のおかげで、Uzdrowienieのホームページはとても素晴らしく充実した内容になっていることも話して聞かせてくれた。
私が勘違いしていたこともあってか、櫻子さんの話は出ず。あえて触れないように気を遣ってくれている気がした。
ダイニングバーももちろん楽しかったけれど、しっとりとした二人で過ごす時間は楽しいだけではなく幸せだった。 それに、梶さんは私が思っていた以上に話好きで驚いた。もっと寡黙というか、どちらかというと聞き役に徹する、もの静かな人なのかと思っていた。
――――冷静な顔の裏で、本当は胃が痛くなるほどいろんなことを考えているの。
櫻子さんの言葉が脳裡を掠める。
こんな風にたくさん話をしてくれているのは、櫻子さんの言った言葉通りに梶さんが考えすぎてのことなのだろうか。だとしたら、彼の気持ちに負担をかけていることになる。本当は最初の印象通り、物静かで聞き役の人なのかもしれないのに。
「結構飲んだね」
目の前の梶さんを置き去りに、彼の心の内を考えていたら、声をかけられボトルに目をやった。見ると、ほぼ空に近い。
私は、一体何杯飲んだのだろう。食事が始まってからのことを振り返ってみたけれど、せいぜい三杯がいいところだから、あとは梶さんが飲んだことになる。
「梶さんは、お酒が強いんですね」
目の前でグラスを傾ける梶さんの顔は、普段とほぼ変わらず。顔が赤くなっていることも、目元がとろんとしていることもない。
「そうでもないけど。雪乃ちゃんといると楽しくて、進んでしまったみたいだよ」
穏やかな瞳が私を見つめるから、照れくさくなって目を伏せた。
食事を終えて外に出ると、空気には幾分か湿気が含まれている感じがした。
「なんとなく、梅雨の気配がしているね」
梶さんも、僅かに紛れている湿気を感じ取ったようだ。
「あっという間に、梅雨の季節になりそうですよね」
傘を持ち歩くことが増えるのかと思うと、少しばかり憂鬱な気持ちになる。
並んで歩いていると、長く続く幅広の植え込みに紫陽花の花を見つけた。ほんの少しだけ花びらを広げ、街頭の灯りの中花を咲かせていた。
「梶さん、紫陽花――――」
紫色の花に目が行き、梶さんにも見て欲しくて言葉にした時、不意に手が繋がり驚いた。
「雪乃ちゃんの手は、冷たいね」
見つめられる瞳の熱さに、言葉がうまく出てこない。
「ひ、冷え性なんです」
ロマンティックの欠片もない返答に、我ながら恥ずかしすぎる。
「この手を僕がずっと温めてあげたい」
瞳をのぞき込まれるように恍惚として見つめられてしまえば、心臓は否応なく早鐘を打つ。
「雪乃ちゃん。好きだよ」
背の高い梶さんが首を傾げると、唇がゆっくりと近づいてきた。距離が縮まっていく中、自然と目を閉じる。
優しく柔らかく触れる唇。少しだけ長く、温かく。紫陽花に見つめられながら、初めてのキスをした。
幸せな気持ちのずっと奥の方で、梶さんを見つめる櫻子さんの顔が脳裏をよぎる――――。