週末に押しかけてくるかと思っていた佑は、やって来ることはなかった。あの日、事務所に行って話し合った結果がどうだったのか気になるところだけれど、いい方に向かっていることを願い、曲作りの邪魔をしないようこちらから連絡を取ることはしない。

 梶さんから距離をおくように言われたのだから、佑と話すべきなのかもしれないけれど、今この時にその内容の電話をかけるのは気が引けた。大事な時期だとわかっているのに煩わせたくないからだ。

 そもそも、どう話を切り出せばいいのか。巧い言葉が見つからない。梶さんからの言葉をそのまま伝えたら、佑はどんな顔をするだろう。今までの自分たちを否定するような梶さんに、怒りを覚えるだろうか。それとも、悲しそうな顔をして、すんなりと距離を置いてしまったりするのだろうか。もしも後者なら、今までの私たちの過ごして来た時間が呆気なく消えてしまうようで寂しい気持ちになってしまうな。

 梶さんの想いと、長年の付き合いがある佑との間で、天秤はどちらにも傾くことができずに、ずっとグラグラしたままどうしたらいいのか解らない。
 どちらにしろ、こういった話は言い出しにくいし、できるなら今のままがいいと先送りにしようとしてしまう私はご都合主義者だ。もめ事や煩わしいと感じたことから目を背け、解決しようという考えに及ばない。

 初めて梶さんが訪ねてきたときから、佑はあまりいい印象を受けていないようだった。引っ越し挨拶の時にUzdrowienieのチラシを渡して宣伝してきたことにも嫌悪感を抱いていたのを思い出す。そのせいか、警戒してもいるようだったし、心配もしてくれている。恋愛で傷ついてきたことを目の前で見てきているから余計だろう。それでも佑は、応援すると言ってくれた。

 梶さんは梶さんで。佑が家に泊まっているのを見てよく思っていないのは確かで、戸惑いを隠せないようだった。梶さんが心配するようなことなど、何一つないのだけれど。男と女というだけで、友情や家族愛のような付き合いが受け入れてもらえないというのは納得し硬い。

 もしも私が佑から離れるようなことになったら、佑はどうなるのだろう。食べるものに困って、飢え死にしてしまったりしないだろうか。電気だってガスだって払えなくて、お風呂にも入れない生活を送るのだろうか。駆け出しのミュージシャンが貧乏だなんて話はよく聞くけれど、佑との長い付き合いは見て見ぬふりできそうにない。ご飯を届けに行くくらいならいいだろうか。でも、また変なファンに遭遇するのも怖い。ビンタなんて、二度とごめんだ。だけど、やっぱり放っては置けない。

 思考はブレブレで、あっちへ行ったりこっちへ行ったり。ピタリと答えを出せない優柔不断さに頭をもたげる。佑のことを心配してみても、梶さんの気持ちを無碍にもできない私は、どっちつかずのどうしようもない女だ。

 火曜日。仕事が終わりにまっすぐ帰宅した。着替えて夕食の準備をしようと、以前Uzdrowienieで買ったエプロンを付けたところで梶さんからメッセージが届いた。
 明日の定休日に、食事とお酒に誘われた。付き合うことになって、初めて二人で会うことになる。
 メッセージには、夜まで用事があるから閉店するまでSAKURAで待っていて欲しいとも書かれていたけれど気が進まなかった。梶さんと付き合うことになったと話した時の、櫻子さんの様子が気にかかっていたからだ。ただ、忙しい中、梶さんへ何度もメッセージを送るのは気が引けて、結局SAKURAで待つことにした。

 仕事帰り、一旦家に戻り着替えてから再び外出する。気が進まないままSAKURAに向かったものだから、足取りも自然と重くなっていた。いつもよりも時間をかけて、花屋の角までやって来た。Uzdrowienieはシャッターを閉じ、櫻子さんのカフェが周囲を照らすように煌々と明かりを灯していた。その灯りのそばに何となく近づけずに立ち止まっていると、路地から出てきたあっ君が私に気づいた。

「雪ちゃん」

 まだ距離があるというのに、あっ君が元気に手を振りながら声を上げるものだから、恥ずかしくなり慌てて駆け寄った。

「あっ君。恥ずかしいから」

 駆け寄って制すると、イタズラに笑っている。けれど、あっ君のおかげで、少し気持ちがほぐれてきた。

「今日は、お休みなんじゃないの?」

 訊ねると、どうやら店内で在庫の整理をしているとのことだった。だから、SAKURAで待ち合わせと言ったのだろう。

「梶さんと約束?」
「SAKURAで待つことになってて」
「櫻子さんのところで、美味しいケーキでも食べるといいよ」

 軽い口調でケーキを勧められれば、自分はあれこれと考え過ぎなのかもしれないとマイナス思考を振り切った。

 あっ君に手を振りSAKURAの甲板を上がる。カウベルを鳴らしてドアを開けると、櫻子さんが笑顔でそばに来た。

「いらっしゃい、雪ちゃん」

 迎えてくれた櫻子さんの態度は、いつもと何も変わらない。昨日の様子は思い過ごしだったのだろうか。
 定位置になっている窓辺のカウンター席に腰かけると、レモン水を置いて微笑みを向ける。やっぱり、気のせいだったのかもしれない。

「頬の腫れ、引いたみたいだね」

 心配して顔を覗き込まれて、頷きを返した。

「何にする?」
「ミルクティーを下さい」
「コーヒーじゃなくていいの?」

 いつもはコーヒーを頼む私を不思議そうに見ている。
 さっきまで櫻子さんのことを気にしながら重い足取りで歩いていたら、なんとなく胃の調子が思わしくないのだ。少しすると、柔らかないい香りのするミルクティーがテーブルに届いた。

「梶君と、お出かけ?」

 少しばかり躊躇うように問われてしまえば、こちらも同じように言葉が戸惑いを孕んだようになってしまう。

「……はい」
「私もついて行っちゃおっかな」

 櫻子さんがはしゃいだ声を上げた。
 考えもしなかった反応に驚き、思わず櫻子さんを凝視してしまったのだけれど、本人は特に気にする風もない。その上、こんなことまで言ってきた。

「梶君がどんな顔をして雪ちゃんと過ごすのか、私の時と比べちゃいそう」

 ふふ。という可愛らしい微笑みとは裏腹に、かけられた言葉は程遠く。どう反応を示していいものか。威圧感というのか、言葉にできない櫻子さんからの牽制のようなものを感じて頬が僅かに引き攣った。

「ごめんね。冗談が過ぎちゃった。ごゆっくり」

 笑みを残して踵を返す櫻子さんの背中を振り返るのが怖くて、湯気の上がるミルクティーの水面を見つめた。

 今の言葉は、本当に冗談だったのだろうか。梶さんと付き合うことになった私のことを、櫻子さんはよく思っていないのではないだろうか。

 頭の中は、再び否定的なマイナス思考に陥り、冷めていくミルクティーに手を付けられない。背中越しに櫻子さんの視線を常に感じてるような気がして、とても落ち着かない時間を過ごした。

 在庫整理は、どれくらいで終わるのだろう。家で少し時間を潰してから来るべきだった。それとも、図書館に寄って時間を潰すか、気を紛らわせるために本の一冊でも借りてくるべきだったかな。

 櫻子さんからかけられた言葉の真意はわからないけれど、肯定的に取れる要素は一つも見当たらなくて、とにかくここに居る時間が苦痛でならない。あんなに居心地よくいられる場所だったはずなのに……。

 落ち着かなさと手持無沙汰になり、スマホを取り出し佑の名前を表示したところで思い出した。
 そう言えば、六月一日には吉祥寺で佑のライブがある。
 財布にしまい込んでいたチケットの日付を確認した。久しぶりに佑のライブを観られることに、落ちていた気持ちが少し上がり始めた。チケットを眺めながらどんなライブになるのか想像すれば、心が高揚していく。その後、シャッターの閉じたUzdrowienieに視線をやり、付き合えたことでバラ色の時間を過ごしているはずが、マイナスなことばかり考えている現状に、こういうのを前途多難というのかもしれないと息がもれた。

「心、ここにあらずね」

 不意打ちのように、櫻子さんが空いている隣の席に座り話しかけてきた。思わず体がピクリと反応する。驚き過ぎてしまえば感じが悪いだろうと思うけれど、突然すぎてそうも言っていられない。
 気がつけば、店内にいるお客の数は、私を残して二人ほどになっていたらしく。手の空いた櫻子さんは、それを機にやって来たようだ。
 心臓が過剰反応をして、身構えるように早鐘を打った。

「なんのチケット?」


 手にしたままのチケットに、櫻子さんが手を伸ばしてきた。

「なっ、なんでもないですっ」

 隠すようにチケットをテーブルに伏せてしまってから、感じの悪い態度をとったことを後悔した。櫻子さんが、小さく息を吐く。罪悪感に視線を合わせられない。

「梶君と出掛けるんでしょ? 楽しそうな顔をしていないのは、どうしてかな?」

 チケットのことにはそれ以上触れず、様子を窺うように訊ねられた。

「それは……」

 櫻子さん。あなたのことが気がかりだからです。とは言えるはずもなく黙り込んだ。

「雪ちゃん。梶君て人はね、穏やかで冷静な顔の裏で、本当は胃が痛くなるほどたくさんのことを考えている人なの。雪ちゃんが梶君のことをどこまで想っているのか私には解らないけれど、梶君を悲しませることだけはしないでね。なんて、私梶君の母親みたいなこと言ってるよね。ごめんね、おせっかいで」

 櫻子さんの言葉に、硬い表情で緩く首を横に振ることしかできない。
 おせっかいと言ったその言葉は、母親というよりも元カノ。ううん、恋人のようだ。

 心がキシキシときつく擦れるような音を立てた。

 櫻子さんが言う悲しませるということには、佑のことが含まれている気がした。梶さんから佑と離れるようにと言った話や、佑と私の関係を聞いて知っているのかもしれない。