食事の間中、心臓は過剰反応していて、まともに梶さんを見られない。返事をしてからずっと、隣に座る梶さんてば私のことを覗き込むように視線を寄越し続けるものだから、心臓が落ち着く暇がないのだ。

 梶さんの中で私を見続けることに何ら躊躇いはないのだろうけれど、見られている側としては、やっと気持ちに向き合えたばかりなのだから照れくさくてたまらない。
 隣同士という距離感もそうだ。少し体を動かせば肩が触れそうで、嬉しいけれどやはり照れくさい。横顔を見続けられていると、食後のコーヒーに口をつけるのさえ恥ずかしい。

 見つめる側と、見つめられる側の違いは何だろう。今までの数少ない経験から考えてみると、どうしても気持ちを伝えたいと感情が高ぶっている時は、見つめ続けることに抵抗はなかった気がする。けれど、逆に気持ちをぶつけられる側に立つと、同じ好きという感情を抱えていても、見られるということにドキマギとして視線を合わせていられない。

 梶さんという人は、とても穏やかで冷静な人に思えていたけれど。こうして告白された今、とても情熱的で想いを強く相手にぶつけてくるような人なのではないだろうか。私だって梶さんが好きだけれど、それを上回る想いを向け、幸せな気持ちにさせてくれる。

 何が言いたいかと言えば、嬉しさと照れ臭さで今にも心臓が破裂しそうなのだ。

「デザート、食べる?」

 甘いものが得意ではない梶さんは私にデザートのメニューを渡し、ブラックのコーヒーを飲みながら訊ねる。その仕種は絵になりすぎていた。流れるような動作は滑らかで、一連の動きはお茶をたてる所作のよう。

 梶さんは、着物も似合う気がするな。夏には、浴衣を着たりしないだろうか。藍染が似合いそうだ。一緒に夏祭りに行けたら嬉しいな。

 心の中でニヤニヤとしながらそんな妄想に浸っていたら、「そうだ。これ、僕の番号」と言って梶さんがスマホの画面を私に向けた。私もスマホを取り出し、その番号に発信をした。すると少ししてLINEの画面に反応があり、見ると宜しくお願いします。という可愛らしく描かれた猫のスタンプが送られてきた。まさか、梶さんからスタンプが届くとは思いもせず。スタンプキャラの愛らしさと、梶さんの行動の可愛らしさに笑みが漏れた。なんて、おちゃめな人なのだろう。

「これで、いつでも連絡できる」

 満面の笑みを向けられ照れ臭い。

「……連絡先」

 近くのテーブルにある食器を片付けていた櫻子さんが、私たちのやり取りを見て驚いたように言葉を零した。櫻子さんの方へ視線を向けると、とても硬い表情をしていた。

「もしかして、雪乃ちゃんて、梶君と……?」

 語尾ははっきりと聞き取れなかったものの、言いたいことはわかった。

「雪乃ちゃん、から?」

 上ずるような声で問う櫻子さんに「僕からだよ」と梶さんが応えた。

「梶君、から……」

 櫻子さんの様子が明らかにおかしい。動揺するように表情がなくなっていく様子に不安を覚える。硬く重い雰囲気が櫻子さんから伝わってくる。束の間沈黙が続いたところで、お客さんからお呼びがかかった。いつもの櫻子さんなら丁寧に食器を片付けるはずなのに、ガチャガチャと少しばかり音を立てている。そうしてから、慌てたように表情を作り直すと、呼ばれたテーブル席へと踵を返した。

 櫻子さんは、やっぱりまだ梶さんのこと……。

 櫻子さんの態度を見て確信した。と同時に不安に駆られる。
 私と梶さんのことを知った櫻子さんがあんな風に取り乱すなら、この先私はSAKURAやUzdrowienieに顔を出さない方がいいのではないだろうか。
 そんなことを思っているところへ、気を取り直した様子の櫻子さんがもう一度テーブルの傍に来た。

「雪ちゃん、デザート食べる?」

 私が手にしたままのデザートメニューに目を留め、櫻子さんが顔を覗き込むように訊ねてきた。
 さっきまでの慌てたような様子も、硬い表情もない。私たちのことを知って動揺したけれど、納得したということなのだろうか。それとも――――。

「あら、どうしたの、雪ちゃん。……それ」

 考えを巡らせていると、さっきとは違う。少し硬く、心配そうな声がかけられた。問われて櫻子さんに視線をやると、私の頬を見ている瞳に気がついた。右隣に座る梶さんに気づかれずに済んでいたこともあり、頬のことなどすっかり頭から飛んでいた。

「頬、腫れてない?」

 心臓がキュッと縮み上がり、冷たく冷えていく。一瞬で血の気が引いて、心臓が圧迫されるような感覚になった。
 さっきは気がつかなかったけれど、と付け足した櫻子さんが、椅子に座る私と同じ視線を保つようにその場にしゃがみ込んだ。

 ドギマギとしていた。頬の痛みはあるものの、会ってすぐに気がつかれなかったことで大丈夫だと油断していた。けれど、昨夜の平手打ちはやはり想像以上だったらしい。化粧では誤魔化しきれなかった腫れに、櫻子さんは気がついてしまった。知られたくない。あんな場面に巻き込まれるような自分のことも。佑が悪い様にとられてしまうかもしれない出来事も。だって、私も佑もただ一生懸命に生きてきただけだから。全て壊れてしまえばいいなんて、あんな悪意のある捨て台詞を吐かれてしまうような謂れはない。夢を勝ち取るため。自分の好きな音楽を形にして世に送り出すため。佑がどれほど頑張ってきたのかを私は知っている。昨夜のことで、佑が信頼をなくすなんてことにはなって欲しくない。

 なのに問われたことで、反射的に手を左頬に持っていってしまった。なんでもないですと誤魔化し、小刻みに首を横に振ったところで話がすむはずはなかった。

 隣に座る梶さんが表情を硬くした。頬を押さえている私の左手首を握り、ゆっくりと頬から引き離していく。同時に、梶さんの眉間に小さなしわが寄った。温和な梶さんからは今まで見たことのない険しい顔つきに、ジワリと嫌な汗が浮き始める。
 今朝、佑に会っていた梶さんだから、よからぬ方に考えてしまう気がして顔が引き攣り始めた。

「雪乃ちゃん、これってまさか、佑君じゃ……」

 思った通り、梶さんが佑を疑った。

「違いますっ。佑は、私を叩くなんてしませんっ」

 大切な家族に疑いの目を向けられ、つい強い口調になってしまった。周囲にいるお客さんの何人かが、こちらに視線を向けたような気がした。お店で大きい声を出してしまったことに、身を固くし俯いてしまう。慌てて否定する私のすぐそばでは、櫻子さんが冷静に問いただした。

「じゃあ、誰に叩かれたの?」

 小さい子の隠し事を聞き出すような櫻子さんからの視線と、心配そうに私のことを見つめる梶さんの視線。二人の視線に挟まれて、観念した私は昨夜のことをぽつりぽつりと話していった。

 佑が関係していることは確かだけれど、梶さんに悪いイメージを植え付けたくなくて、できるだけ誤解のないように話していく。
 昨夜の出来事を話し終えると、二人はほぼ同時に息を漏らした。それは、どんな溜息だったのか。呆れているのか、心配しているのか。長い話が終わって、一呼吸ついただけなのか。どれにしろ、私は顔を上げられず俯いたままだ。お店が忙しいのに話に付き合ってくれた櫻子さんが、梶さんの肩にトンと手を置いて業務に戻っていった。

「ちゃんと、冷やした?」
「はい。佑が氷とタオルを用意してくれて」

 慌てて駆け付け私の前に盾になった佑の、低く怒りを含んだ声。あんな酷い言葉を投げつけられて、どんなに嫌な気持ちになったことか。疲れて寝ころんだベッドの上での弱音は、いつもバカばっかり言っている佑らしくなくて、こっちが不安になるほどだった。佑を傷つけたくない。いつも守って来てくれた佑に、仇を返すような形にだけはしたくない。
 梶さんは、少しの間思い悩むようにしてから再び口を開いた。

「雪乃ちゃん。これは、僕からのお願いだよ。佑君とは、少し距離を置いた方がいいと思うんだ。仲がいいのはわかるけれど、雪乃ちゃんがこんな目に合ったのに、僕はその状況を黙認することはできないよ」

 そんな……。梶さんが心配してくれる気持ちはわかるけれど、距離を置くなんて。

「佑が叩いたわけじゃ」
「わかっているよ」

 梶さんに言葉を制されて、黙りこくってしまう。

「確かに、彼が直接雪乃ちゃんに手を上げたわけじゃない。だけど、こういうことはこの先も起こり得る。そうじゃないかな?」

 冷静な見解を述べられてしまえば、何も言い返すことなどできない。今までこういうことにならなかった方が、不思議なくらいなのかもしれない。
 けれど、距離を置くということがどういうことなのか、頭で巧く想像できない。同じ家に住んできたわけでもないし、毎日ずっと一緒だったわけでもない。だけど、何かあればいつでもすぐに駆け付けられる距離にいて、お互いに連絡を取らなくなるなんてこともなかった。食事の時間になれば自然と食卓に集まる家族のような距離間を、ずっと保ってきた。

 梶さんが言う距離というのは、そういったこと全てから離れるということなのだろうか。今までのように、お腹が空いたとやってくる佑と食事をしたり、ガス代をケチってお風呂に入りに来たり。昨夜のように、何かあれば泊まることだってある。そういったことをこの先、すべてなくして欲しいということなのか。

 普通の異性で考えれば、佑と私はおかしな間柄なのだろう。それくらいは、私にだってわかる。けれど、佑とはそういった間柄など越える関係なのだ。まさに家族と変わらない、姉弟同然の関係。ただ、それを理解してもらう術を、私は見つけられていない。どうやって話せば周囲に理解してもらえるのか、未だにわからないままだった。

「雪乃ちゃんが言いにくいなら、僕から佑君に話してもいいよ」

 話しにくいということではない。私自身が、佑と連絡が取れなくなるということに不安を覚えているだけだ。寧ろ、このままの関係でいるためにはどうすればいいのかと悩んでいるくらい。

 梶さんは、佑と私の関係を疑っているのかもしれない。だから、余計に距離を置くよう勧めるのだろう。そんなんじゃないのに。

 そうは思っても、私に対してあれほどの敵意を向けてきた昨夜の彼女を思えば、それは当然の考えなのだろう。

「大丈夫です……」

 それだけ言うのが精いっぱいだった。今どんな言葉を尽くしても、梶さんにはうまく伝えられる気がしない。

 告白に浮かれていたつい数十分前が嘘みたいに、心は沈んでいた。昨日からあまりに心のアップダウンが激しすぎて、なんだかわけがわからなくなりそうだ。感情の波形は息切れするほどに上下し、ついて行けないがために荒い呼吸を繰り返す。立ち止まり、落ち着く時間が欲しい。

 自然と洩れそうになるため息を、慌てて堪えた。心配してくれる、梶さんに失礼だから。

 気まずい沈黙が過ぎていく。梶さんの思いは嬉しいけれど、心配し過ぎる気持ちは疑念を感じさせ、心を萎縮させていた。佑との関係をうまく伝えられないもどかしさに、心は項垂れ続ける。

 雰囲気を改善することもできず、居座り続ける気力もなくなる。そろそろ帰りますと席を立ってバッグを手にすると、梶さんも席を立ち私の頬にそっと手を触れた。

「雪乃ちゃんを傷つけるものを、僕は許せない」

 キッパリとした口調に、この場の空気がピリッと痺れるように緊張した。


 一人で帰るマンションまでの道程では、溜息の連続だった。
 部屋に着き、触れられた頬に自分もそっと触れてみた。梶さんから伝わった温もりなのか、まだ痛みに熱を持っているのか。頬は自分の意志に逆らって、自己主張でもしているみたいに熱をまだ少し残していた。

 頬の痛みに、佑との距離。心を悩ませる事案が頭をもたげる中。この日から、私に対する櫻子さんの態度はどこか余所余所しいものになっていった。あんなに人懐っこく話しかけてくれて、癒しの笑顔をくれていた櫻子さんは、その姿を隠すように変わる。どこか他人行儀で、小さな、目に見えないくらいの棘のようなものが幾度となく刺さり、痛みが伝わるようになっていった。

 夜、梶さんからメッセージが届いた。僕の気持ちに応えてくれて、ありがとうとシンプルに書かれた文面に頬が緩むも、佑のことや櫻子さんのことを思えば嬉しさはどこか上滑りしてしまい、部屋の中にはたくさんの溜息が充満していった。