あのあと少ししてから、佑はムクリと起き上がった。

「風呂、入ってくる」

 床にでも話しかけるみたいに暗く呟くと、シャワーの音を延々と響かせ、なかなか風呂場から戻ってこなかった。滝にでも打たれているくらいの心境で、佑が項垂れているだろうことがよくわかった。弱音を見せしまった自分が、きっと許せないでいるんだ。

 佑が部屋に戻るまでの間に床に布団を敷き、私はベッドにもぐりこんだ。シャワーの音は、もうやんでいた。零してしまった自分の弱音に、飲み込まれてしまっていなければいいけれど。

 翌朝、佑はなかなか起きてこなかった。精神的な疲れがたまっているのかもしれない。先に起きだした私は、頬の腫れを確認するために洗面所の鏡を覗き込んでいた。

「よく見ないとわからないくらいかな。いや、少し腫れてるかな」

 溜息を零し、まだ少し痛む頬に触れる。ほんの少しばかり、まだ熱を持っているような気がする。以前、洋菓子を買った時についてきた保冷剤を冷凍庫から取り出した。ノーメイクのまま左手には頬に保冷剤、右手には薬缶を持ち、キッチンでコーヒーを淹れていたらインターホンが鳴った。

 こんな朝早くに誰だろう?

 薬缶を持ったまま画面を覗くと梶さんの顔が見えて、心臓がビクンと跳ね上がる。持っていた薬缶の中のお湯が、驚く私の動きに合わせて盛大に揺れた。慌てて薬缶と保冷剤を置いてマスクをする。恐る恐る玄関ドアを開けると、梶さんはいつもと何ら変わりない微笑みで、パンの収まる袋を私に差し出した。告白から十日近く経っていた。

「昨夜も来たけど、留守だったみたいで。朝早くに悪いかとも思ったけど、できるだけ早い方が美味しいから」

 笑顔と共に差し出されたパンの収まる袋を受け取った。

「ありがとうございます」

 昨夜は、美香と飲んでいる時間帯に訪ねてくれたのかもしれない。これだけ穏やかだということは、深夜の騒動には気がつかなかったということだろう。彼女に詰め寄られたときには助けて欲しいと考えたけれど、今にして思えば気がつかれなくてよかった。女同士の醜い争いごとに梶さんを巻き込むなんて、彼のことを穢してしまうような気がするからだ。

 梶さんという存在は、私の中でとても綺麗なガラスのような、澄んだ青空のようなイメージだから。それが濁ってしまう気がして、知られなかったことに安堵した。

「朝食の準備をしようとコーヒーを淹れたところだったので、嬉しいです」

 梶さんがいつもと変わらなく接してくれたことで、私も以前のように会話をすることができた。

「風邪?」

 マスクを見て、梶さんが訊ねる。

「あ、いえ、これは。ノーメイクなので」

 本当は頬の腫れを誤魔化すためだったけれど、咄嗟に言ったこともあながち間違いではない。

「雪乃―」

 玄関先でドアを開けたまま立ち話をしていたら、奥の部屋から佑が呼ぶ。部屋の方を振り返ると、眠そうな顔でこっちにやって来た。

「あ、ども」

 寝ぼけ眼で佑が適当な挨拶をすると、梶さんは少し引き攣ったような戸惑った表情をした。

「もしかして、佑君は、昨日泊まったのかな?」

 躊躇うように訊ねる梶さんに、私はおどけたように返した。

「そうなんですよ。うち、旅館じゃないんですけどね」

 冗談交じりに話したのに、目の前に立つ梶さんも真横にやってきた佑も笑っていない。

 なんだか空気が重い。

 気まずさに言葉をなくしていると、梶さんが会話を終わらせた。

「じゃあ、……また」
「はい。パン、ありがとうございました」

 梶さんが佑のことをチラリと見る。佑もまだ私のそばに立ったままで、梶さんを見ているようだ。

 ドアが閉まると同時に、マスクを取って深いため息を漏らした。緊張の糸が解けたように体から空気が抜けていく。貰ったパンの袋を、リビングのテーブルに置いた。

「佑も食べるでしょ?」

 コーヒーの準備に再び取り掛かりながら訊ねた。

「俺は、要らね。コーヒーだけでいいや」
「そう」

「今日は? スタジオ行ったりしないの?」
「事務所に行ってくる」

 もしかして、契約更新の件だろうか?

「この前の曲のことでな」

 どうやら、契約のことではないらしい。けれど、もしその曲を気に入ってもらえれば、更新してもらえるかもしれないのだから関係なくもないのか。

「うまくいきそう?」
「わかんね」

 昨夜見せた佑の不安な呟きを、また思い出す。うまくいくかなんて、佑の方が知りたいくらいなのに、軽率な質問だった。

「隣のアイツのこと。雪乃が本気なら、いいんじゃねえの」

 なんだかんだと心配をして口出ししてはみたものの、最終的には私の気持ちを汲み取ろうとしてくれる発言だった。

「なんかあったら、いつでも言えよ。雪乃は、ホント男運ねぇからな」

 ふざけた調子で言っているけれど、佑の思いやりが伝わってくる。

「ありがと、佑」
「おう」

 ママチャリにまたがり駅に向かう佑を見送ってから。のんびりと朝の時間を過ごした。梶さんがくれたパンを小さくちぎりながら口に入れ、コーヒーを飲む。頬の痛みに巧く口を開けたり、噛んだりができない。

 昨夜のゴタゴタで美香の後押しがどこかへ飛んで行ってしまいそうだったけれど、今朝梶さんに会ったことでちゃんと向き合わなければと再び思い直した。

 少し前のようにSAKURAに行き、櫻子さんとも話をして。そして、梶さんの顔をちゃんと見て、答えを出そう。ううん。答えは、初めから決まっている。ただ周囲にあるものに、気持ちを振り回されてしまっていただけ。今でも櫻子さんの想いが気になるのは確かだけれど、私自身の気持ちを伝えるのは間違っていないよね。

 なるべく時間をかけて出かける支度をした。時間をかけることで、気持ちを整理し、落ち着かせようとしていた。

 まずは、SAKURAに向かう。花屋の角を曲がりカフェに近づきながら、少しずつ鼓動が速くなる。櫻子さんに逢って、梶さんへの気持ちを直接聞こうとしているわけじゃない。ただ、彼女の雰囲気をもっと冷静に感じとろうと思っていた。

 幸い、Uzdrowienieの店先にあっ君の姿はなく、梶さんに気づかれないうちにSAKURAの甲板を上がった。背後を気にしながらドアを開けて驚いた。カウンター席に思いもよらぬ人物。梶さんがいて心臓が跳ねた。あまりに驚き過ぎて足が止まったままでいると、梶さんが席を立ちドアまでやって来た。

「雪乃ちゃん」

 いつもと変わらず屈託のない表情で声をかけてきた梶さんは「きっとここへ来ると思ったんだ」と言いながら私を店内に導き、タイミングが合ってよかったと、いつものカウンター席へと促した。

「雪ちゃん、いらっしゃい」

 櫻子さんも、いつもと変わらない笑みを浮かべてレモン水を持ってきた。櫻子さんの気持ちを知りたかっただけなのに、展開が変わってきそうだ。温かなカフェオレを注文し、櫻子さんが下がったのを機に話し始める。

「今朝は、ありがとうございました」

 普段通りにと思ってそう口にしてみたけれど、告白されたときのことを思い出し緊張してしまう。
 隣同士に座ったまま、うまく言葉を繋げずに黙ってしまう。右隣に座る梶さんの前には、コーヒーがほんの少しだけ残っているカップが置かれていた。

 タイミングが合ったなんて言っていたけれど、いつからここで待っていてくれたのだろう。お店があるというのに、要らぬ時間を取らせてしまったことに気が引けた。

「彼。佑君は?」
「事務所に行くみたいで、あの後すぐに帰りました」
「そう。雪乃ちゃんは、食事?」

 食欲はそれほどなかったけれど頷いた。

「じゃあ、僕も何か食べようかな」

 梶さんは立てかけてあるメニューを手に取ると、自分は食べるものが決まっているからと私へ手渡した。

「約束でもしてたのかな。待ち合わせなんて、仲がいいのね」

 カフェオレを運んできた櫻子さんがそう言って微笑みを向けてくるのに、その奥にあるだろう真意をつい探っている自分が嫌になる。梶さんはと言えば、いつもと何ら変わりなく櫻子さんへ微笑みを返していた。その微笑みは、今までもずっと見てきたというのに、心が戸惑いを感じてならない。梶さんには過去のことだと教えてもらったけれど、あまりに自然な二人のやり取りは、私の入る隙間などないと言われている気がしてならないからだ。無理やり入り込んでしまっているような自分の存在が、異物にしか感じられない。

 熱々のカフェオレに静かに息を吹きかけ口をつけ、気持ちを落ち着かせた。梶さんはドライカレーとコーヒーのお代わりを、私は単品でほうれん草のクリームスープを頼んだ。
 注文を聞いた櫻子さんが再び下がる。

「ああいうことって、……その。よくあるの?」

 二人だけになり料理を待つ間、目の前にある自分のお店を見つめながら梶さんが訊ねた。

「ああいうこと?」

 オウム返しで訊ねながら、今朝のことだと気がついた。

「佑は、私にとって家族みたいなものですから。何かあると、お互いに相談しあうんです。今回は、佑のことでちょっとあって」

 昨夜のゴタゴタを梶さんに説明するのは佑のプライドに関わるし、その事には触れないよう話を続けた。

「事務所と契約はしてるけど、あんなだからお給料も少なくて。お腹が空いたって言われれば、ご飯を食べさせることがあって」
「昨日みたいに、泊まることもよくあるの?」

 話を繋ぐようにして、梶さんが付け足した。
 強い口調ではないのに、まっすぐ見てくる瞳はとても悪いことをして叱られているような、責められているような気になり、つい目を逸らした。

「おまたせ」

 そこへ料理が届いた。ごゆっくり、と微笑みを残して仕事に戻る櫻子さんに小さく会釈をする。

「食べようか」

 目の前で湯気を上げ、おいしそうな香りを放つドライカレーに梶さんがスプーンを刺した。私も倣うようにスプーンを手にして、スープを掬い口にする。頬の痛みにあまり大きく口が開けられず、少しだけ顔が歪んだ。

 梶さんの責めるような視線が頭に焼き付いて、口に入れたスープの味がよく解らない。隣でスプーンを動かしている梶さんからは、ぎこちない様な少し冷たいような雰囲気が漂っている気がして、口に運ぶスプーンは機械的になり益々味など分からなくなっていた。SAKURAの料理はどれも美味しいはずなのに、ただ胃に流し込んだだけだった。

 食後のコーヒーを飲み、梶さんが静かに言葉を零した。

「僕の気持ちは、迷惑だったかな?」

 隣に座る私のことを、少しだけ首を傾げるようにして見る。その瞬間、頭で考えるよりも先に体が反応して、勢い良く首を横に振り否定した。そんな私を見て、梶さんがほっとしたように少しだけ笑った。

「その、私。突然で驚いてしまって。櫻子さんとのことも勝手に誤解していたから、何て言うか……」

 言葉に詰まっていると、梶さんがコーヒーのカップを手にした。一口飲むとゆっくりとカップをソーサーへ戻す。カチリと鳴った食器の音がスイッチだったのか、梶さんはそれを合図のようにまた話始めた。

「櫻子さんとの関係がそう見えてしまったことに、僕自身も反省してる。雪乃ちゃんの混乱を招いてしまったからね」

 梶さんの言葉に、またぶんぶんと首を横に振った。

 梶さんは、優しい。声を荒げたり、突き放したりしない。穏やかに凪いだ海のように私の言葉に耳を傾け、話をしてくれる。そんな梶さんだから、余計にふわりとした雰囲気を持つ櫻子さんとの関係は似合い過ぎて、私が梶さんの隣にいる絵を想像できないんだ。隣にいるのは、私じゃない気がしてならない。

 そんな風に思うのに、梶さんの優しい眼差しには胸がドキドキしてしまうし、穏やかに話す梶さんの声や雰囲気に触れたくてUzdrowienieにやって来てしまう。心は反応しているのに踏み込めないのは、単に私に勇気や自信がないだけ。隣にいていいのかなって、すぐに不安を覚えて答えを躊躇してしまう。似合う、似合わないなんて、二の次三の次と開き直ってしまえばいいのだろうか。梶さんに向かっているこの想いだけで、返事をしてしまえばいいのだろうか。
 こんな風に考えても尚、自信なんてものは少しも満ちてこない。

「梶さんは、その。私のどこが、よかったんでしょうか」

 こんなことを訊くなんて、本当はとても恥ずかしい。傲慢な女みたいで、嫌われてしまうんじゃないかって思えてしまう。けれど、どうしても確かめたかった。あんなに素敵な櫻子さんという人がすぐそばにいるというのに、どうして私なのだろうと。

 梶さんが、ふわりと微笑んだ。

「言葉にするのは、少し難しいかな。気がついたら、僕は雪乃ちゃんを好きになっていたから」

 視線を逸らすことなく伝えられた言葉に、一気に顔が熱くなる。私を見続ける梶さんの視線に耐えられなくて、カップを手にして俯いた。心臓が煩すぎるほどに騒いでいる。カップを握る手に無駄に力が入る。

「雪乃ちゃんのそばには、僕が居たいと思った。それじゃあ、ダメかな?」

 二度目の告白に、早鐘を打っていた心臓は、破裂でもしてしまうんじゃないかというくらいに騒がしい。ひどく暴れすぎて、このままだと逆に止まってしまうんじゃないかと思えるほど、心が梶さんに反応していた。

「雪乃ちゃん」

 カップを握りしめたまま俯く私の名前を梶さんが呼ぶ。騒がしく鳴る心臓を落ち着かせられないまま、ゆっくりと顔を上げた。少しだけ緊張したような梶さんと目が合った。

「もう一度言わせて。僕は、雪乃ちゃんのことが好きだよ。僕のそばにいてくれませんか?」

 カフェの喧騒が、消えていく。さっきまで聴こえていた店内のBGMも。周囲にいるお客さんたちの話し声も。注文を受ける櫻子さんやスタッフさんの声も。全てが聴こえなくなり、私と梶さんだけが別の空間に移動してしまったみたいに周囲の物音は消えていた。

 すべての物音が聴こえなくなったその時、私の中にある梶さんへの気持ちがとてもクリアに見えてきた。迷いも何もなく梶さんの気持ちを受け取り、大好きなその顔に向かって「はい」と頷きを返していた。
 梶さんの表情が、クシャリと嬉しそうに歪んだ。