深夜の室内は、とても静かだった。突然やって来た女の子の罵声や、頬に当たる衝撃。弾かれたスマホが転げ落ちるチープな音。駆け付けた佑の怒りと、倒れた自転車の金属音。それらは普段にない喧騒なのに、あまりに突然で、あまりに強引だったものだから、脳内が勘違いでもしているみたいに、まるでそれこそが普通だと思わされてしまう。今あるこの静けさこそが、不自然な気になってしまうのだ。

 勝手知ったる我が家のように、佑がタオルと氷を用意して手渡してきた。ベッドに腰かけていた私は、素直にそれを受け取り頬に当てる。冷たすぎる氷は、頬に当てた瞬間、鋭利なものにでも触れたみたいに、チクリと刺さるような感覚を連れてきた。チクチクとする痛みを我慢しながら頬に氷を当て続ける。

 今夜は、なんと中身の濃い夜だったことだろうか。梶さんへの返事にうだうだと悩む私を美香が飲みに誘ってくれて、心が少し軽くなったと思ったら、佑がらみの女の子に強烈な平手打ちをされてしまった。勘違いで襲ってきた災害は、彼女の感情をぶれさせることなくぶつけられた。アルコールを飲んだせいもあるのか、まるで乱暴なお祭り騒ぎのように、今日が平日なのか休日なのか境目がつかなくなってくる。

 ぼんやりとしたまま、さっきあの子に叩き落とされたスマホを手にして、日付と時刻を確認した。ホームボタンを押せば、光る画面に大きな数字が表れる。

 そうか、今日は金曜の夜だった。明日が休みでよかった。

 ベッドに座る私の背中は丸まり溜息が零れた。
 頬に当てている氷のせいなのか、熱のせいなのか。頬は未だ別の生き物みたいにジンジンとしていた。まるで蠢くエイリアンが頬に住み着いてでもいるみたいだ。ホラーなら、私は確実に初めの方でやられる配役だろう。どうにか生き残ってしまったけれど、戦う気力などこれっぽっちもない。

 氷を手渡した後の佑は、キッチン棚の扉を開けて何やら物色している。お腹が空いているのだろうか。自分の住処みたいに自然な振る舞いをする佑を目で追いながら、思考はぼんやりと物思いにふけった。

 佑は、優しい。口は悪いし、態度もデカい。自分の意見を曲げない頑固なところもある。だけど、佑は優しい。

 私の父親が亡くなり、母と二人でどう生きていくか茫然自失になっていた時も、佑は優しかった。小さな体で私にしがみ付き、大丈夫だよって笑顔を向けてきた。子供なりの優しさは、同情しないで欲しいと思うつまらないプライドを刺激することなく。寄り添うように、いつだってそばにあった。
 幸い母も私もお気楽な性格を持ち合わせていたおかげで、父のことを長く引きずるよりも打開策に目を向けることができた。それもこれも、佑がそばにいて見守ってくれていたからだ。

 成長するにしたがって、佑の優しさは、より理解できるようになった。甲斐甲斐しく何かをしてくれるわけではないけれど、態度や言葉が優しくなるんだ。傷ついた私の涙が濃く重くならないように、ふざけたことを言って笑わせ、わざと話を変えて楽しい方に目を向けさせてくれた。
 だから、佑は、優しい。私は、それを痛いほどよく知っている。

「佑は優しいから、女の子が勘違いするのも、仕方ないのかもしれないね」

 ぽつりと床に敷かれているラグに向かって零した言葉に、佑は何言ってんだ? って顔をする。きっと、本人は自分が優しいなどとは、露ほども思っていないだろう。

 彼女は、佑のさり気ない気遣いや優しさが、自分への好意だと勘違いしてしまったのだろう。罪作りな男だよ、まったく。

 頬に氷を当てながら佑のことを見て「ありがとね」なんて言ったら、ちょっとは理解したみたいだ。

「優しくなんか、ねぇだろう」
「自分でできるようなことにも、手を貸してくれるでしょ」

 照れているのだろう。佑は、「そんくらいしか思いつかねぇし」なんて頬の辺りを人差し指でポリポリとかいている。 けれど、こういった些細なことの繰り返しが、佑の優しさを大きなものに変えている。少しずつ積み重ねられた優しさは、ちょっとした風に吹かれたくらいじゃ揺らぐことなどない。思いついたように、大きな優しさを一度だけトンと寄越されるよりも、こうやって少しずつ積み重ねられていく優しさは、寄り添うようで安心できる。

「雪乃は別だろ」

 長い付き合いじゃねぇか。そんな顔を向けられた。
 こうすることは当たり前で、そんなことが優しさだなんておかしな話だとばかりに佑は肩を竦めた。これも照れ隠しだ。これ以上褒めてしまえば、柄にもないと言い出すだろうから、この辺でシフトチェンジだ。

「そうだよね。幼馴染の長い付き合いだもんね。おかげでこれだけど」

 頬を少しばかり突き出しわざと嫌味を言うと、だから悪かったって。と本当に申し訳ない顔をするものだから、突然やって来た竜巻みたいな出来事は少しずつどうでもよくなっていく。確かに巻き込まれて目が回るほど感情をかき混ぜられたけれど、着地してみたらいつもの場所だった。そんなところだ。

「見せてみろよ」

 頬から氷を離して見せると、腫れてるな……。と再び氷を当てるよう促された。
 彼女の平手はとても強烈だったらしく、痛みより熱さを感じたくらいだったから、しばらくは腫れが引かないかもしれない。化粧で誤魔化せるだろうか。

「あいつの様子がおかしかったから、追いかけてきて正解だった」

 佑がダイニングの椅子に腰かけ、体をベッドのあるこちらに向けて座った。

「一緒にいたの?」
「二人だけじゃねぇよ。事務所からの指示で、今日は知り合いのライブにゲスト出演してたんだ。で、その打ち上げに行ったら、いつの間にかいて」

 いつの間にかって。打ち上げなんて誰でも参加できるものじゃないでしょ。
 疑問を感じとったのか、佑が付け加えた。

「あいつさ、色んな所に顔を出してる常連でさ。バンドのリーダー格的な奴らと仲良くなるのも得意だから、大概の打ち上げには顔パスらしいんだよ。初めはメインバンドのそばにいたのに、俺が他のやつらとの話に夢中になっていたらいつの間にか近くのテーブルにいて。そのうちすぐ隣に座り出して。ほら、吉祥寺のゲリラん時みたいに。あんな感じで接してくるから、参ったよ」

 佑の言う色んな所というのは、大なり小なりあるライブのことだ。その範囲は、アマチュアからプロに至るまでということなのだろうか。だとしたら、本当に顔が広い。身内にそういった関係者でもいるのかもしれない。それにしても。

「で、これか」

 再び厭味ったらしく、頬に当てた氷を取ってみせる。佑に向かってニヒルに笑おうと無理に口角を上げようとしたら、痛くてすぐにやめた。その姿を見て、本人は笑うよりも慌てている。

「大丈夫かっ」

 椅子から立ち上がってそばに来ようとした佑に、大丈夫だからと手で制する。

「打ち上げに出ていたってことは、お腹は満たされてるんだよね?」

 佑が家に来る用事と言えば、ほぼ食事目的と言っていい。ただ、今日の場合はちょっといつもとパターンが違う。

「俺の空腹感まで気にしてもらって、お気遣いありがとう」

 お互いに、わざとらしい目線と厭味ったらしい顔つきをしてニシシと笑いあう。

「風呂のスイッチ、入れてきてやるよ」

 私のことを考えてか、時間を気にするようにして立ち上がり、風呂場へ足を向ける。けれど、言葉遣いはどうにも俺様だ。佑らしいけれど。

「何その上から目線。ここ、私んち」

 敢えて言い返すと、更に言い返される。

「知ってるよ」

 ケロッとした顔が憎らしくも可笑しい。ふざけながら言い合っていれば、いつもの調子などすぐに戻る。笑いあうことは、大きな喧嘩なんてすることもない私たちの常套手段ともいえる。

 お風呂のスイッチを入れて戻った佑が、冷蔵庫から麦茶を取り出しグラスに注いだ。

「チャリ飛ばしてきたから、すげー喉渇く」

 グビグビと喉を鳴らし、佑は二杯の麦茶を飲み干し、三杯目をグラスに注いでからそれを持ってこちらの部屋に移動してきた。代わりに私がキッチンへ行き、ミルクをマグに注いでレンジに入れた。少し温かいものを体に入れたい。佑はローテーブルにグラスを置くと、ゴロリとベッドに寝転がってしまう。

「そのまま寝ないでよ」
「わかってるって」

 レンジのスイッチを押してからベッドの傍に行くと、寝転がった佑の瞼はすでに下りていた。

「寝ちゃってるじゃん」

 腰に手を当て、すやすやと寝息を立てている佑を見下ろしてから、お風呂が沸くまでの間ダイニングの椅子に腰かけ、温かなミルクを喉に流し込んだ。体の内側が温まり、そこでようやく気持ちが落ち着いたような気がした。

 沸いたお風呂にのんびりつかると、湯船の温かさに頬の痛みが広がっていった。ジンジンとエイリアンが住み着いているかの如く脈打つ左頬。そっと手で触れると、やっぱり腫れている気がした。

 お風呂上りにタオルを頭に巻いたまま再びベッドに近づくと、佑はさっきと同じ体勢のまま爆睡していた。きっとゲスト出演したと言っていたライブで疲れたのだろう。慣れない場所や対バンは、意外と体力を消耗するものだと話していたことがある。起こしてしまうのはかわいそうな気もするけれど、私のベッドにこのまま寝られてしまっても困る。それに。

「汗かいたでしょ。お風呂に入って来てよ」

 佑の体をゆさゆさと揺らすと、佑はようやくぼんやりとした瞳を見せた。そうして、ぼそりと呟いたんだ。

「俺、音楽続けていけんのかな」

 泣き言などあまり口にすることのない佑からの呟きに、私の表情が不安に引き攣った。

 寝ぼけているのかもしれないけれど、それは今までにない弱気な発言だった。契約を切られそうになっていることで、精神的に追い詰められているのだろう。いくら飄々としている佑でも、今回のことは相当堪えているようだ。

 弱音を零してしまうほど弱っている佑に、私が直接何かできるわけでもない。プロデューサーに知り合いがいるわけでも、事務所に顔が利くわけでもない。ただの平凡なOL風情ができることと言えば、とにかく応援してあげることくらいだろう。なんともどかしいのか。学生の頃みたいに、もっと路上ライブに付き合って、サクラをやってあげた方がいいだろうか。昔みたいに作った曲を付きっ切りで聴いて、素人意見でも言ってあげるべきだろうか。

 静かな寝息を立てる佑の眉間には、辛そうなしわが刻まれていた。再び眠りに落ちながらも、この先の不安に心を悩ませているのがよく解る。
 その苦しそうに浮き出ている眉間のしわを何とかしてあげたいと思うも、どうすればいいのか皆目見当もつかない夜だった。