勘違いだろうか? 睨みつけてくる顔はなんとなく見覚えがある気はするけれど不確かだ。脳内でたくさんの人の顔を検索しながらエントランスのそばまで行くと、女の子はやはり私を鋭く睨みつけていた。

 えっと、誰だっけ?

 睨みつけられる理由などもちろんわからないし、そもそもこの女の子のことが記憶の中からみつからない。
 どこの誰だっただろう。アルコールに鈍る脳内を動かし、出会ってきた人たちを思い出していく。
 しかし、どんなに記憶を掘り起こしても、酔っているせいか彼女の顔にいきつかない。そうこうしていたら、突然「ゲス女!」と罵られて驚きに体が跳ねあがった。ビクリと震える体と見開く目。

 私に、言ったんだよね?

 あまりに唐突な出来事に、苦笑いが浮かぶ。というよりも、他にどんな顔をすればいいのか解らない。全く記憶にない相手からの罵声にどうしたらいいのか解らず、表情がただ歪んだと言った方がいいかもしれない。

 誰かと勘違いしていませんか?

 目の前で顔を確認してもわからなくて、そんな風に問いかけようとしたら、再び女の子が私に向かって大きな声で叫んだ。

「佑君から離れてよ!!」

 声の大きさに驚いたものの、出てきた名前に、ああ、そういうことかと合点がいった。

 これ、久しぶりのやつだ。最近はこの手のトラブルがなかったから、少し油断していた。彼女は、佑の熱狂的なファン? それとも、新しい彼女? なんにしても、佑のいないこんな深夜の場面というのは、私にとって不利じゃない?

 お酒に浸って緩んでいた思考が、徐々に焦り冷めていく。

 さて、どうしようかな。とにかく、元凶である大元に連絡をしよう。寝てたりしないでよ。

 佑に連絡をしようとスマホを取り出すと、睨みつけていた女の子がツカツカと前に進み出てきて私の手の中で光を放つ小さな機械を勢いよく払い落した。避ける間もなくアスファルトに転げ落ちたスマホは、光を放ったまま玩具のように軽い音を立てる。

 えっ、ちょっと、何を……。

 夜の色に染まり余計に黒さを増したコンクリートの上に、私のスマホは光を放ちつつ、画面を下にうつ伏せた状態で大人しくしている。払い落されたスマホに視線をやりながら、冷静にも画面が割れていないだろうか、などと思っていた。

「幼馴染か何か知らないけど、いい気にならないで!!」

 転がるスマホを心配していると再び罵声が発せられ、目の前に立つ彼女を見た。怒りのせいか、彼女は肩で息をしていて、とても興奮している。ここで私までもが声を荒げてしまえば、静かなこの夜が騒がしくなることは容易に想像できた。とはいえ、争いごとは得意じゃないから、やり返そうなどという気持ちはない。
 とにかく、怒りで頭に血が昇っているだろう彼女の気持ちを、少しでも沈めないことには話にならない。

「あの、私は――――」
「――――うるさい!!」

 佑とのことを説明しようと口を開いたのだけれど、彼女は言葉をかぶせて遮った。冷静に諭すつもりでいたけれど、彼女の放つ雰囲気からして、これ以上何かを言ってしまったら大騒ぎになりそうだ。深夜にそんなことにでもなれば、ご近所さんは大迷惑だろう。

 話は聞いてもらえないし、転がったままのスマホを拾いたくてもそんな雰囲気にもなく。佑に助けを求められないなら、マンションの住民が帰ってくるか、出て来やしないかと一縷の望みを抱いた。

 梶さんは、家にいないだろうか? Uzdrowienieの営業時間は、とっくに終わっているよね。さっき彼女が叫んだ声に気がついて、渡り廊下からこちらを覗き込んでくれたりしないだろうか。それとも、あっ君と飲みに行っていて留守なのだろうか。今この場面で帰ってきたりしないだろうか。

 告白されてから今日まで避けていたというのに、なんて都合のいい思考だろう。

 安易な考えにとらわれていると、怒りに顔を歪ませた彼女が叫ぶように言い放つ。

「好きでもないくせに、佑君の気を惹くなんて。最低っ」
「気なんて惹いて――――」

 彼女の言葉に反論したその瞬間、左頬に強烈な衝撃が走った。予想外の出来事が起きると、人の時間は止まるのかもしれない。何が起きたのか解らなくて、ただ左頬がどんどん熱を持っていくのがわかった。左耳がキーンという音を立てている。
 あまりに突然すぎる頬に広がる熱に、それが痛みだと少ししてからやっと気がついた。

 ……痛い。

 再び抱いた感想は少しだけ他人事のようで、叩かれたから痛いと思っているのか。でも、本当はただ熱いだけなのではないだろうかとか。脳内はまるで現実逃避のようだ。

 今までも佑のことで、女の子が押しかけてくることはよくあった。嫌味を言われたり、睨みつけられたり。逆に擦り寄ってくることもあった。その度に宥めすかし、冷静になるよう話をしてきた。けれど、まさか話をする前に平手打ちが飛んでくるなんて思いもしなかった。

 初めての先制攻撃に、いつもなら落ち着いて対応できることも、驚きと痛みでじんわりと涙が浮かび。恐怖なのか何なのか、心臓がドクドクと激しく音を立て手が震えだす。まるで自分の手じゃないみたいに、ぎこちなく頬をその震える手で押さえていると、ジンジンと脈打つのがわかるくらいだった。

 そもそも平手打ちなんて、生まれてこのかたされたことなどないのだから動揺して当然なのだ。人生の中で殴られるようなことなどしてこなかったし。未だって。殴られるようなことなどしていない。

 そのうち痛い思いをする。

 美香の言葉が蘇る。

 本当にそうなっちゃったよ、美香。

 泣き言が零れそうになる。

 幼馴染だからと、この手のことに関して甘やかしすぎただろうか。もう少し距離を置いた方がいいの? けれど、今更距離を置くと言ってもどうしたらいいのか解らない。お互いに相談し合うことも間々あるし。そうすることで毎日を越えてきたと言ったっていいのだから。それがなくなるというのは心細い。

 頬に手を置いたまま、未だ睨みつけてくる彼女のことを半場放心状態で見ていたら、背後から慌ただしい物音が近づいてきた。

「なにやってんだよっ!」

 叫び声と共にママチャリを飛ばしてきただろう佑が、乗っていた自転車を投げ出すように乗り捨てこちらに走ってきた。
 佑の登場に、初めて目の前の彼女が動揺をみせた。佑を追う目が僅かに泳ぐ。

 深夜のマンション前で乗り捨てられた自転車が大きな金属音を立てた後、その場は再び静けさに包まれた。ただ、睨みつける佑の目が怖いくらいで、竦んだような表情になった目の前の彼女が、なんだか少しかわいそうになってしまう。ズカズカとやってきた佑は私に背を向けて立ち、庇うように彼女との間に割り込んだ。
 この状況に僅かに怯んだ彼女だけれど、私を庇う佑の態度が気に入らないのか、再び逆上しだした。

「こんな女のどこがいいのよっ。佑君の気持ちに少しも気づかないでっ。幼馴染ってだけで大きな顔して!」

 佑の気持ちってなんだろう? 今までの子達もそうだけれど、佑が私を女としてみていると思っているなら大きな間違いだ。私たちの間にあるのは、家族間にある愛情と変わりのないものだけだ。男女としての愛は、微塵もない。

「大きな顔なんて」

 ぼそりと零した私を、目の前に立つ佑が振り返る。そこで、頬を抑えていることに気がついたようで、佑の表情がさらに険し声をあげた。

「少なくとも!!」

 彼女に向かって自分の出した声のボリュームが、この夜にそぐわないと思ったのか、佑はそこで一旦言葉を止めて大きく息を吐き出した。冷静になろうと、無理やり気持ちを抑え込んででもいるようだ。それから静かに怒りを抑えながら言葉を繋いだ。

「雪乃は、手を上げたりしねぇよっ」

 佑の言葉に、彼女がぐっと息を飲み込んだのがわかった。自分のしたことに対する羞恥のせいか、顔を紅潮させている。それでもやっぱり、佑に庇われている私のことが気に入らないのだろう。

「全部ダメになればいいっ。音楽も歌も、あんたたちもっ」

 勢いに任せて叫んだせいか、彼女の声は時折震え、そして静かな夜の中で滑稽さに満ちていた。悔しさのせいか、拳をキリキリと強く握っている。けれど、睨みつけていた目はいつの間にか涙で滲み、もうこの場にいられないとばかりに、私たちの横をすり抜け、走り去っていった。

「追いかけなくていいの」

 去り行く背中を僅かだけ振り返り目で追った後、背を向け立ったままの佑へ声をかけた。

「そういう相手じゃねぇし」

 そうなんだ。

 未だジンジンとしている頬から手を放し、今起きたことに溜息がもれた。それは、やっと彼女から解放された安心感なのか、殴られる前に来て欲しかったという今更感のある佑への気持ちからか。自分でも判別のつかない溜息で、足元をぼんやりと眺めたまま、精気が抜けたようになってしまう。

「悪かったな」

 転がっていたスマホを佑が拾って手渡してくれた。受け取ったスマホの画面にひび割れはなかったけれど、機能は大丈夫だろうかと、今起きた出来事がなんでもないことのように再び冷静な思考が働く。私は、現実逃避が得意なのだろう。

 佑が私の顔を覗き込んでくる。きっと叩かれた頬を見ているのだろう。

「大丈夫だよ。少しジンジンするくらい。今度、お詫びに何か奢ってよね」

 冗談交じりに笑いながら言ったつもりだったけれど、巧く笑顔を作れていない気がした。笑おうとすると、頬が痛いし耳元のキーンという音がまだ少し続いていた。
 そこから不意に記憶の波がやって来て、彼女の存在を思い出した。

「今の子って、吉祥寺のゲリラライブした時にいた子じゃない? 付き合ってるの?」

 ぽつりぽつりと訊ねながら、私と佑は漸く動き出した。佑は投げ捨てるようにしたマイカーのママチャリを立て、エントランスそばにとめる。それから二人で、マンション内に入った。

 エントランスの中は外と同じくらい静かで、置かれている自動販売機から独特の機械音が僅かに聞こえるくらいだ。

「ただのファンだよ。あっちが勝手に盛り上がってるだけ」

 投げやりな佑の態度にイラついたのか。それとも、相手のせいだけにするその考えにイラついたのか。突如怒りが込み上げてきた。

「迷惑だからっ」

 強めに言った私の言葉が、エントランスの壁に当たって跳ね返ってくるみたいだった。
 きっと突然の出来事が、今になってじわじわと私の心を攻め立て動揺させているのだろう。跳ね返ってきた自らの言葉に溜息がもれた。佑は、私の怒りはもっともだと思っているのか、単に言葉が見つからないのか、何も言い返してこない。
 エレベーターの前でボタン押すと、箱が一階にいてドアがすぐに開いた。佑と二人で乗り込むと、そこでやっと言葉を発した。

「ホント、ごめん……」

 いつにもなく、しおらしく謝られる。さっきは声を荒げてしまったけれど、心が動揺していただけで、跳ね返ってきた自分の言葉の強さに、私自身が嫌な気持ちになっていたから、佑の言葉には力なく首を横に振った。首を振るのと同時にドアが閉まり、箱が動き出す。
 なんだか、とても疲れている気がした。