木目の甲板を上り、ドアに手をかけるとカウベルがカランと鳴る。梶さんが言っていたように、SAKURAは今日も盛況だ。コーヒーの香りとともに、食欲をそそる香辛料の匂い。これはカレーだ。あとは、何だろう。

 首を巡らせると、すぐ近くのテーブルには、とろとろ卵のオムライスとワンプレートタイプのハヤシライスが見えた。食べているのは、どちらも女性。楽しそうに会話をしながら、美味しそうに頬張っている。

 カフェの料理に目を奪われていると、櫻子さんがやって来た。

「いらっしゃい、雪ちゃん。今日は、お友達もつれてきてくれたの?」

 真っ白な開襟シャツが今日も清潔で、襟元から見える鎖骨がとてもきれい。一つに束ねた髪の毛が、ふわりと誘うような香りをほんの少しだけさせている。

「今日はカウンターじゃなくて、テーブル席の方がいいかな」

 隣に並ぶ美香へ櫻子さんが微笑みかけると、美香が何となく頭を下げた。その仕種は、不躾とまではいかないけれど、どこか一歩引いたように警戒でもしているみたいだった。

 櫻子さんに促されて、今まで座ったことのない壁際のテーブル席に案内された。ここからは、右手にレジと左手にはカウンター席のある出口が見える。椅子は壁に沿ったソファになっていて、美香にそっちを薦め。私は、通路側の木で作られた椅子に座った。背もたれの角度も丁度良く、クッションが敷かれていて座り心地がいい。

「素敵な作りだね。カントリー調っていうの?」

 美香は店内をきょろきょろと観察し、テーブルの真ん中にある小さな白いポットへ目をやる。それは、ポーランドの飲食店に連れて行ってもらった時目にした、緑が活けられていたものと似ていた。ポットの下には、白いレースが敷かれていて、真っ赤なガーベラとカスミソウが花を広げていた。

 このお店も、ポーランドを意識しているのかな。それとも、梶さんが好きなものを櫻子さんも取り入れているのかな。どちらにしろ、恋人を意識しているには変わりない。
 お互いを想いあっているのだろうと、ポットに活けられた鮮烈に赤いガーベラから目が逸らせなくなる。

 美香が荷物を足元にあるバスケットに入れていると、櫻子さんがやって来た。グラスに入ったレモン水をテーブルに置き、メニューを手渡される。
 美香がメニューを見ている間、足元のバスケットへ視線をやった。

 これ、Uzdrowienieにあったものと同じだ。
 なるほど。こういう使い方もあるんだ。そうだ、タオル類を入れてバスルームに置くのもいいかも。

「何にする?」

 美香が開いたメニューを見ながら考えていると、櫻子さんが訊ねてくれた。

「ガッツリいきたい? それとも、軽めにする?」

 美香と私の顔を交互に見る。

「ガッツリで」

 即答する美香に、笑顔で頷く櫻子さん。私は、軽めでいいかな。

「男性にも人気なのが、温泉たまごが乗ったドライカレーとカツレツプレート。それから、わりとしっかりご飯の詰まっているオムライス。あとは、スープ感覚でいけるロールキャベツもあるわよ」

 ロールキャベツって、もしかしてあの時食べたのと同じ、ポーランド料理のだろうか。確か名前は、「ゴウォンブキ」と言ったかな。ポーランド語は難しい。
 梶さんと食べた時のことを思い出し、あの時間の心地よさや幸せな感覚が蘇る。

「どしたの?」
「え?」

 美香に突然訊ねられて、きょとんとしてしまった。

「顔が緩んでる」

 ニヤニヤした顔を向けられて、梶さんのことを考えていた締まりのない顔が熱くなった。頭の中まで、すべて丸見えになっている気がして焦ってしまう。櫻子さんにまで頭の中身を見られていやしないかと、視線を合わせづらくなった。

「私は、カツレツプレートにします。雪乃は?」

 美香に訊かれて、ロールキャベツしか頭になかった私は、それを注文した。

「パンにする? ライスにする?」

 あのお店と同じポーランド料理なら、中にはお米が入っているはずだからパンにしてもらった。

 注文を終えて櫻子さんがテーブルを離れると、美香が声のトーンを落として話し出した。視線はレジの方へ向いているから、きっと戻っていく櫻子さんを目で追っているのだろう。

「素敵な人だね。大人の女性って感じ」

 美香は視線を目の前にいる私に向け、少しばかり顔を近づけるようにして話した。

「でしょ。梶さんと、本当にお似合いだと思うんだ」

 ついさっき会ったばかりの梶さんの、あの穏やかで優しい笑みを思い出していた。いつも落ち着いていて、はしゃぐようなことはないけれど、ポーランドのことを話した時のきらきらとした瞳は子供のようだった。そんな梶さんのことを考えるだけで、私の心は毛布にくるまれたようにいつもじんわりと暖かくなっていく。温めたミルクをゆっくりと体に流し込んだ時のような、安心感に満たされる。けれど、その隣にいるのは、私じゃなくて櫻子さんだ。現実を思えば、一瞬でその温もりは去ってしまう。

 コーヒーを運んでいる櫻子さんの横顔を見た。大人の女性と美香が言うように、カフェを経営するだけあってとてもしっかりしている。なのに雰囲気はどこか儚げで、誰かが守ってあげたくなるような可憐さがあった。梶さんと櫻子さんは、誰が見てもぴったりと収まりのつく恋人同士だ。あんなにお似合いな恋人同士だから、私の想いなんて足元に転がる石ころ同然で気づいてもらえもしないだろう。何かの拍子にカツンと蹴られて、コロコロと道の端に転げていったら、そのまま忘れ去られてしまうに違いない。

 悲しい思いに駆られていると、美香が口を開いた。

「確かに美男美女だけど」

 二人を目にした美香は、どこか含みを持ったような反応をすると、すっきりとしない顔つきをして櫻子さんを一瞥した。

「だけど?」
「ちょっと違う感じがする」

 再び、レジにいる櫻子さんの姿を眺める。

 何が違うというのだろう。こんなにベストなカップルなど、そうそういるものではない。けど、美香はそう思っていないようだ。

 顔に疑問を浮かべている私に、巧く言えないけどと、美香はやはりはっきりとしないまま口を閉じてしまった。

 少しして届いたカツレツを、美香はとても美味しそうに頬張った。私が頼んだロールキャベツは、ポーランドの物ではなくて、よくあるトマト系のシンプルなものだった。期待していたものと違うことに残念な気持ちになるはずが、シンプルなそのロールキャベツにどこかほっとしていた。ここにあるすべてが梶さんに影響されていてもおかしくないとは思っていても、その期待をこのロールキャベツが裏切ってくれたことを喜んでしまうんだ。

 ほんの些細な希望にも似た感想は、自分のいやらしい部分を露呈しているみたいで少し憂鬱にもなった。

 食事の間、美香は食べる口を休めることはないけれど、視線は度々櫻子さんを追っていた。何をそんなに見ることがあるのかわからないけれど、あんまり見すぎるものだから、何度か櫻子さんが美香の視線に気づいて微笑み、何か別の注文があるのかとテーブルに来てしまい、忙しいのに申し訳ない気持ちになった。

 カツレツを完食した美香は、食後のコーヒーを一口飲んでからカップをソーサーへ戻す。櫻子さんからのサービスで、ソーサーにはボックスクッキーが一つ乗っていた。美香は、初めにそれを美味しそうに頬張った。

「テキパキとしているのにキツイ感じはなくて、ふんわりとしたイメージ。笑顔はしとやかで癒し系。可愛らしいというよりも綺麗系。お店を経営しているだけあって、気配りにも長けている。非の打ち所がないじゃん」

 美香は頬杖をつきながら、その言葉をどうしてか不満そうな顔つきで漏らした。

「素敵な人でしょ?」

 不満を持つ原因がなんなのかわからないけれど、櫻子さんが素敵だと理解しているみたいだ。

「けど、負けちゃだめだよ」
「え?」

 ついていた頬杖を外し、美香が私の目をまっすぐ見てきた。

「雪乃を見る梶さんの目は、雪乃を好きな目だよ」

 真剣な眼差しで断言されて、心臓が驚いたように反応した。信じがたい言葉に素直な気持ちになれず、茶化すように笑ってみせる。

「なにそれ。出たね、恋愛マスター」

 突拍子もない言葉に笑ってはみても、内心そうだったらいいのにという僅かな希望も芽生えていた。

「笑ってるけど、雪乃。ちゃんと、梶さんのことみてる?」
「え? なにそれ、みてるよ」

 真面目な顔をして話し出した美香に、私はまだ茶化し続け、クスクスと小さく声を上げていた。美香は、誤魔化すようにして笑う私の気持ちを逆なでするように更に言葉を重ねる。

「いやいや、雪乃は上っ面しか見てないよ」

 何かを確信でもしたように力強く言い切った美香は、クルッと表情を一変させると、テーブルの端に立ててあるデザートメニューを開いた。

「食べるよね?」

 さっきまでの話はどこへやら、思考は突然デザートに変更されたらしい。鼻歌交じりで、どれにしようかとメニューを眺めだす。

 負けちゃダメなどとけし掛けてきたかと思えば、デザートの誘惑にコロッと表情を変えてしまうから、今度は本当に可笑しくてクスクスと笑って頷いた。

 美香が頼んだキャラメルのババロアケーキと、私が頼んだレアチーズケーキ。それに舌鼓を打っていたら、カウベルの音と共に梶さんがやって来た。彼の姿をとらえた瞬間、心臓が跳ねるように反応する。我ながらわかりやすい。

「梶君、あがり?」

 入ってきた梶さんの傍に行き、櫻子さんが訊ねている。

「ほら、見て。あの二人、やっぱりいい雰囲気じゃない」

 梶さんへと抱く気持ちとは裏腹に、二人の姿に笑みさえ浮かべて美香へと同意を求めた。私は、心に嘘をつくのが得意なのかもしれない。

 チーズケーキを食べる手を休め、梶さんと櫻子さんの様子を窺っていた。美香は、二人の姿を眺めながらまた不満そうな顔つきになっている。さっきまで美味しそうに食べていた頬の緩みも今はない。

 背の高い梶さんに合うくらいの、丁度いい身長の櫻子さん。二人が一緒にいると、まるでモデル雑誌の一ページみたいにスタイリッシュで素敵だ。

「コーヒー?」

 櫻子さんが、再び梶さんへと訊ねた。梶さんは曖昧に頷きながら、店内に視線を走らせる。首を巡らせ、私たちの姿を見つけると笑みを向けてくれた。

 ああ、これ。この微笑み。梶さんの微笑みは、癒し系だ。櫻子さんも癒し系だけれど、私にはやっぱり梶さんの笑顔が何よりの癒しになる。きっとどんなに疲れていても、彼の笑顔ですべて帳消しになる気がした。

 櫻子さんのそばを離れ、梶さんがこちらにやって来た。

「よかった、雪乃ちゃんに美香ちゃん。まだ居てくれた」

 やって来た梶さんが、そう言って微笑む。

「お目当ては、雪ちゃんだったのね」

 梶さんのあとについてやってきた櫻子さんが、そう言って笑った。その後すぐに、レモン水のグラスを隣の空いているテーブルに置き、梶さんを促した。隣のテーブルに腰かけた梶さんが、膝をこちらへ少しだけ向けるようにして座る。

「食事は、済んだ?」

 美香と二人で頷き返すと、じゃあ、と私たちをお酒に誘ってくれた。

「せっかく雪乃ちゃんのお友達に会えたから、どうかなと思って」

 特に断る理由もなく、私と美香は梶さんからのお誘いに快く返事をした。美香にもっと梶さんの素敵なところを見て欲しい。何より、また梶さんとお酒を飲めるということが嬉しかった。

 ケーキを食べ終えるまで待っていてくれた梶さんと一緒にSAKURAを出た。

「ごちそうさまでした」

 お店の外まで見送りに来てくれた櫻子さんに笑みを向けると、こちらこそと笑みが返ってくる。

「梶君」

 そばにいる梶さんの、少し乱れたシャツの襟元に手をやり、櫻子さんが直してあげている。

「ありがと」

 櫻子さんにお礼を言う梶さん。それに、頬笑み返す櫻子さん。二人の間には、これでもかってくらい甘い雰囲気と癒しの空気が流れている気がした。
 癒しだけなら心地いいだけの感情でいられるだろうけれど、甘い雰囲気はさすがに辛い。近くで仲のいい二人を見るのは、心が軋みを上げてしまう。恋人同士なのだから当然のことだと自分に言い聞かせ、なんでもない表情を装った。

 そんな二人を目にした美香が、「これ見よがし」とぼそり零した。