なかなか現れない佑に若干憤慨し、腰に手を当てていたらインターホンが鳴った。画面を覗くと噂の佑だ。
ほんのり茶色に染めた髪の毛と、覗く耳には数個のピアス。だらりとしたジーンズを腰履きにして、よく解らないロゴのついたTシャツを着ている。長く伸び始めた前髪の奥に見える黒目がちで二重の瞳。スッとしているけれど、小ぶりの鼻と尖り気味のあご。態度が悪いから敬遠されがちだけれど、よく見れば、なかなか整った顔つきなのだ。
「おっそい」
少しばかり怒ったようにインターホンに向かってこぼし、すぐにエントランスを解除した。程なくして、ドアフォンが鳴った。何時だと思ってんのよ。そう言ってやろうと息巻き確認もせずに勢いよくドアを開けたら「危機管理なしかよ」と先手を打った佑が呆れた顔を向けてきた。
「佑が来る来る言って、こないから――――」
「――――はいはい。すんませんでした。ライブ仲間と話し込んでたら、こんな時間になってた。ほら、引っ越し蕎麦」
面倒くさそうに愚痴を遮り、スニーカーを脱ぎながらコンビニ袋を鼻先に突きつけてくる。
「話し込むって、ファミレス?」
「そう。ドリンクバーで五時間粘った」
掌をパーにして得意気に言われても。
「ていうか、もっといいお蕎麦買ってきてよ」
「俺が金持ってねーの知ってんじゃん。つか、贅沢言うなよ」
お金がないことを強気で言う姿はあまりに佑らしくて、確かに。と思わず苦笑いが零れてしまった。
こんな風に悪ぶってはいるけれど、根はいい子なのだ。大学費用を出してくれている両親に迷惑はかけられないと、それ以外の諸々は何とか自分でやりくりしようとしているのだから。深夜の工事現場で鉄骨を運んだり、道路で誘導棒を振ったり。筋肉を痛めつけるかのようなアルバイトに日々勤しんでいる。
デスクワークの方が楽じゃない? と提案はしたのだけれど、黙って机に噛り付いているのは、大学に行ってる時だけで充分らしい。
佑は、大学に通いながら所謂売れないミュージシャンというやつをやっている。高校の時に事務所に所属はしたものの、未だに鳴かず飛ばずだ。事務所も、ヒット曲を出さないミュージシャンにいい給料など出すはずもなく、まるでその日暮らしのように日々を生きている。それでも音楽をやめる気などなくて、曲を作り路上で歌い、小さなライブハウスで少しずつ御客を増やそうと努力していた。そんな佑だから、食べるものもままならず、しょっちゅうやって来ては食事をせびる。なので、引っ越し蕎麦を買ってきただけ、今日はましな方だろう。
それより。こんな状況で、ちゃんと大学生活を続けられるかの方が心配だ。せめて音楽で成功していたらもう少し違ったのかもしれないが、それは本人が一番わかっていることだから私の口からは言えない。
「雪乃。腹減った。蕎麦喰おうぜ」
引っ越し荷物から出したばかりの使い込んだマグカップをざっと洗い、ティーパックの緑茶を淹れる。
テーブルに着いて、コンビニのお蕎麦を目の前に手を合わせ、互いに「いただきます」をする。これは、小さい頃からの習慣だ。
挨拶だけはきちんとしなさい。
忙しく働く両方の母親からよく言い聞かされてきたせいか、横柄な口ばかりきく佑も、これだけは忘れない。
「隣には、挨拶に行ったのかよ」
さっきも話したけれど、こんな口の利き方をしていても一応の礼儀はわきまえているのだ。ただ、気に入らない人に対しては、一貫して態度が悪いのだけれど。
「お隣さん以外には、渡せたよ。お隣さんだけ、留守だった。あとでもう一度行ってくる」
佑は、コンビニの蕎麦を一瞬で食べ終わると、仕方ねーな。とダルそうにしながら動き出した。ビニール紐を使い、玄関先に散らかっている空いた段ボールを一纏めにし、重い本を棚におさめてくれる。意外と働き者だ。
「髪の毛、伸びたな」
段ボールの中から荷物を取り出す私の横顔に向かって、佑がぼそりと零した。
「……あぁ、うん。そうだね」
鎖骨の辺りで切りそろえた髪の毛は、引っ越し作業に邪魔でさっき無造作に束ねていた。指先で前髪に触れると、髪の毛がサラリと指の間をすり抜ける。
佑がどうしてこんなことを言うのかといえば、それは一年程前に遡る。元カレの影響で、背中ほどまであった髪の毛を、バッサリとショートヘアにしたのだ。
今まであまり短くした経験がないというのに、恋というのはとんだ勇気をくれるものだ。切ってすぐは首筋が寒くて、頭から風邪をひくんじゃないだろうかと思ったくらいだ。けれど、彼はショートヘアにした私を見てとても喜ぶものだから、ちょっといい気分だったりしたのだ。
しかし、バッサリと切って三ヶ月後。呆気なく別れの時は来て、どれほど切ったことを後悔したことか。そして、何度佑に愚痴ったことか。呆れつつも、何度も愚痴に付き合ってくれた佑は、根気強さも兼ね備えているようだ。
「あんなに切ったことを後悔したけど、髪の毛なんてすぐに伸びるのよね」
肩を竦めると、佑が笑っている。
「すっかり吹っ切れたみたいで、よかったじゃん」
顔を見合わせ、お互いに笑ってしまった。
私たちはこんな風に笑いあって、落ち込んでしまう出来事も、悲しくて涙してしまう思いも、すべてを大したことじゃなかったんだと思いあえる仲だ。
音楽事務所がなかなか見つからなくても。作った曲がCDにならなくても。
就職活動に行き詰まりを感じ、この世の終わりみたいに嘆いていても。付き合っていた彼と別れることになっても。
全てを大したことじゃないんだというように笑い話にできる貴重な間柄だ。
「今何時?」
ダイニングテーブルの上に置きっぱなしにしていた私のスマホを佑が覗き見る。
「もう、九時過ぎてるぞ」
「あ……、挨拶。行き忘れちゃった。明日の方がいいかな?」
そう言いながらも、渡し損ねた引っ越し祝いのタオルを持って玄関先へ向かった。隣の様子を窺うようにそっとドアを開けたところで、隣の部屋の前で玄関ドアに鍵を差し込む隣人だろう姿に遭遇する。
まさかのタイミングに、おかしな勢いがついた。
「あっ、あのっ!」
スニーカーを引っ掛けたまま、前のめりで渡り廊下に飛び出し声をかけてしまった。まるでこれを逃したら、一生お隣さんには会えないのではないかというくらいの勢いだ。
すると、お隣さんは徐にこちらへ首を向け、お互いの視線が合った。そして、僅かに間を空けたあと、ふわりと笑みを見せる。
春風が柔らかく頬を撫でて通り過ぎていった気がした。それは、全くの気のせいのような気もするし。実際、マンションの渡り廊下へと入り込んできた風の仕業だったようにも思える。頬を撫でるような柔らかな空気みたいな、そんな春の雰囲気が今目の前にあった。
「こんばんは」
先に向こうからかけられた挨拶は、とても穏やかで優しい。まるで漣のようにするすると耳に届いた。
瞬間的に反応した胸の音に自分でも焦り、とにかく頭を下げ挨拶を返した。
「こんばんは」
スラリとした身長は百八十センチくらいだろうか。温和な表情に浮かべる微笑みは、常日頃からそうしているように、とても自然で優しい。年は、私より上だろう。とても落ち着いた雰囲気だ。背景はすっかり夜の闇だというのに、春色のフレームが見えるくらいに暖かな雰囲気を醸し出している。
「遅くにすみませんっ」
帰ってきたところを偶然捕まえる形になってしまい、恐縮してしまう。
慌てている私とは対照的に、とても落ち着いた態度でお隣さんに微笑みを向けられてしまうと思わず見惚れてしまい、手に持つ引っ越し祝いの存在を数秒間忘れてしまったほどだ。
お隣さんの視線が穏やかなままだからつい視線を逸らせずにいたのだけれど、手に持つタオルにハッと気がつき、パタパタと傍に行った。
「隣に越してきた、星川雪乃です。宜しくお願いします。あ、これ、つまらないものですが」
日本人特有の、つまらないものですが挨拶をし、ペコペコと頭を下げながらタオルを差し出し渡した。
「梶です。梶優斗。宜しくお願いします」
梶優斗さん。素敵な人。
再び見惚れてしまったけれど、我に返り「失礼します」と振り切るように踵を返す。玄関ドアを閉めた後、胸に手を当て鼓動を聴いた。少しだけ、速い気がする。
部屋では、佑が黙々と不要なゴミをまとめてくれていた。やるときはやる、とでもいうところだろうか。なんだかんだ言っても、手伝ってもらえるのはありがたい。
「渡せたのか?」
一纏めに持ちやすいようにした段ボールを玄関先に持ってきた。
「うん。丁度帰ってきて、渡せた。とっても素敵な人だったよ」
弾むように言うと、「惚れやすっ」と笑われた。
「佑だって、見たらカッコイイって思うよ」
「男になんか、興味ねぇし」
「興味あったら、怖いけど。そうなら、早めに言ってね。対応考えるから」
「お気遣いどうもっ」
冗談を言い合っていたら、ドアフォンが鳴った。
佑以外に訊ねてくる人などいないから、首をかしげてインターホンを押して応えると、「梶です。あ、隣の」というさっき聞いたばかりの素敵な声が聞こえてきた。
「今開けますっ」
慌てて応え、玄関先へ急ぐ私を、佑が少しばかり呆れた表情で見ている。
ドアを開けると、梶さんが微笑みを浮かべて紙袋を差し出してきた。
「パン。好きかな?」
「え? あ、はい、好きです」
応えた好きが、まるで梶さん自身に向けたもののようで、自分で言ってからとても気恥ずかしくなった。
「うちの母親がパン作りにはまっていて、たくさん持ってくるんです。一人だと食べきれないので、よかったら」
「ありがとうございます」
「それと、こちらも。見に来るだけでも」
そう言って渡されたのは、素敵な雑貨の載っているチラシで「Uzdrowienie」と書かれていた。
「ウズ……」
「ウズドリャビャニャ。ポーランド語で、癒しっていう名前の店名です。ここ、僕が経営しているポーランド雑貨の店なので、よかったら暇つぶしにでも遊びに来てもらえませんか?」
「雑貨屋さん?」
「はい。見てるだけでも楽しいよ」
楽しいよ。その言い方がとても人懐っこくて、思わず梶さんの顔を見ると、そこには満面の笑みがあった。瞬間的に、顔に熱がいく。
「あ、ありがとうございます。伺います」
じゃあ、また。というように梶さんが踵を返す姿を見送ってから、静かにドアを閉めた。
振り返ると、佑が壁に寄りかかり、腕を組んだ姿勢で不満そうな顔をこちらに向けていた。
「な、何よ……」
文句を言いたそうな顔にぼそりと呟き、貰ったパンとチラシを持ってダイニングのテーブルにそれらを置いてから再び佑を見た。
「初対面のくせに、図々しい奴だ」
どうやら佑は、隣人の梶さんをお気に召さないようだ。その癖、貰ったパンの袋をのぞき込み、「食おうぜ」なんて、浮かれた声を出している。パンに罪はない、というところだろうか。
「コーヒーでいい?」
「おう」
不満気な顔をしていたわりに、手慣れたように食器棚からプレートを取り出すと、テーブルに置いて椅子に座る。佑が袋の中に手を入れて取り出したのはロールパンだった。
「それ、バターロールだよね。美味しそう。何か塗る?」
「いらね」
さっき緑茶を飲むのに使ったマグカップを洗い、フィルターをセットしてコーヒーの粉を入れていると、二人分のお湯が沸き細い口の薬缶が湯気を上げた。フィルターの端に沿って薬缶の湯を丁寧に回し入れると、一瞬で大好きなコーヒーの香りが部屋の中を満たしていった。
日本は、世界の中でもコーヒーを多く飲む人種らしい。どうしてこんなに日本人にコーヒーが浸透したのかわからないけれど。少なくとも、私はこの香りだけで、とても幸せな気持ちになる。きっと、コーヒー好きの人は、まずこの香りにやられているんじゃないだろうか。
コーヒーを淹れる工程は、ゆったりとした時間を感じることもできて、心が落ち着くのも好きだった。
ほんのり茶色に染めた髪の毛と、覗く耳には数個のピアス。だらりとしたジーンズを腰履きにして、よく解らないロゴのついたTシャツを着ている。長く伸び始めた前髪の奥に見える黒目がちで二重の瞳。スッとしているけれど、小ぶりの鼻と尖り気味のあご。態度が悪いから敬遠されがちだけれど、よく見れば、なかなか整った顔つきなのだ。
「おっそい」
少しばかり怒ったようにインターホンに向かってこぼし、すぐにエントランスを解除した。程なくして、ドアフォンが鳴った。何時だと思ってんのよ。そう言ってやろうと息巻き確認もせずに勢いよくドアを開けたら「危機管理なしかよ」と先手を打った佑が呆れた顔を向けてきた。
「佑が来る来る言って、こないから――――」
「――――はいはい。すんませんでした。ライブ仲間と話し込んでたら、こんな時間になってた。ほら、引っ越し蕎麦」
面倒くさそうに愚痴を遮り、スニーカーを脱ぎながらコンビニ袋を鼻先に突きつけてくる。
「話し込むって、ファミレス?」
「そう。ドリンクバーで五時間粘った」
掌をパーにして得意気に言われても。
「ていうか、もっといいお蕎麦買ってきてよ」
「俺が金持ってねーの知ってんじゃん。つか、贅沢言うなよ」
お金がないことを強気で言う姿はあまりに佑らしくて、確かに。と思わず苦笑いが零れてしまった。
こんな風に悪ぶってはいるけれど、根はいい子なのだ。大学費用を出してくれている両親に迷惑はかけられないと、それ以外の諸々は何とか自分でやりくりしようとしているのだから。深夜の工事現場で鉄骨を運んだり、道路で誘導棒を振ったり。筋肉を痛めつけるかのようなアルバイトに日々勤しんでいる。
デスクワークの方が楽じゃない? と提案はしたのだけれど、黙って机に噛り付いているのは、大学に行ってる時だけで充分らしい。
佑は、大学に通いながら所謂売れないミュージシャンというやつをやっている。高校の時に事務所に所属はしたものの、未だに鳴かず飛ばずだ。事務所も、ヒット曲を出さないミュージシャンにいい給料など出すはずもなく、まるでその日暮らしのように日々を生きている。それでも音楽をやめる気などなくて、曲を作り路上で歌い、小さなライブハウスで少しずつ御客を増やそうと努力していた。そんな佑だから、食べるものもままならず、しょっちゅうやって来ては食事をせびる。なので、引っ越し蕎麦を買ってきただけ、今日はましな方だろう。
それより。こんな状況で、ちゃんと大学生活を続けられるかの方が心配だ。せめて音楽で成功していたらもう少し違ったのかもしれないが、それは本人が一番わかっていることだから私の口からは言えない。
「雪乃。腹減った。蕎麦喰おうぜ」
引っ越し荷物から出したばかりの使い込んだマグカップをざっと洗い、ティーパックの緑茶を淹れる。
テーブルに着いて、コンビニのお蕎麦を目の前に手を合わせ、互いに「いただきます」をする。これは、小さい頃からの習慣だ。
挨拶だけはきちんとしなさい。
忙しく働く両方の母親からよく言い聞かされてきたせいか、横柄な口ばかりきく佑も、これだけは忘れない。
「隣には、挨拶に行ったのかよ」
さっきも話したけれど、こんな口の利き方をしていても一応の礼儀はわきまえているのだ。ただ、気に入らない人に対しては、一貫して態度が悪いのだけれど。
「お隣さん以外には、渡せたよ。お隣さんだけ、留守だった。あとでもう一度行ってくる」
佑は、コンビニの蕎麦を一瞬で食べ終わると、仕方ねーな。とダルそうにしながら動き出した。ビニール紐を使い、玄関先に散らかっている空いた段ボールを一纏めにし、重い本を棚におさめてくれる。意外と働き者だ。
「髪の毛、伸びたな」
段ボールの中から荷物を取り出す私の横顔に向かって、佑がぼそりと零した。
「……あぁ、うん。そうだね」
鎖骨の辺りで切りそろえた髪の毛は、引っ越し作業に邪魔でさっき無造作に束ねていた。指先で前髪に触れると、髪の毛がサラリと指の間をすり抜ける。
佑がどうしてこんなことを言うのかといえば、それは一年程前に遡る。元カレの影響で、背中ほどまであった髪の毛を、バッサリとショートヘアにしたのだ。
今まであまり短くした経験がないというのに、恋というのはとんだ勇気をくれるものだ。切ってすぐは首筋が寒くて、頭から風邪をひくんじゃないだろうかと思ったくらいだ。けれど、彼はショートヘアにした私を見てとても喜ぶものだから、ちょっといい気分だったりしたのだ。
しかし、バッサリと切って三ヶ月後。呆気なく別れの時は来て、どれほど切ったことを後悔したことか。そして、何度佑に愚痴ったことか。呆れつつも、何度も愚痴に付き合ってくれた佑は、根気強さも兼ね備えているようだ。
「あんなに切ったことを後悔したけど、髪の毛なんてすぐに伸びるのよね」
肩を竦めると、佑が笑っている。
「すっかり吹っ切れたみたいで、よかったじゃん」
顔を見合わせ、お互いに笑ってしまった。
私たちはこんな風に笑いあって、落ち込んでしまう出来事も、悲しくて涙してしまう思いも、すべてを大したことじゃなかったんだと思いあえる仲だ。
音楽事務所がなかなか見つからなくても。作った曲がCDにならなくても。
就職活動に行き詰まりを感じ、この世の終わりみたいに嘆いていても。付き合っていた彼と別れることになっても。
全てを大したことじゃないんだというように笑い話にできる貴重な間柄だ。
「今何時?」
ダイニングテーブルの上に置きっぱなしにしていた私のスマホを佑が覗き見る。
「もう、九時過ぎてるぞ」
「あ……、挨拶。行き忘れちゃった。明日の方がいいかな?」
そう言いながらも、渡し損ねた引っ越し祝いのタオルを持って玄関先へ向かった。隣の様子を窺うようにそっとドアを開けたところで、隣の部屋の前で玄関ドアに鍵を差し込む隣人だろう姿に遭遇する。
まさかのタイミングに、おかしな勢いがついた。
「あっ、あのっ!」
スニーカーを引っ掛けたまま、前のめりで渡り廊下に飛び出し声をかけてしまった。まるでこれを逃したら、一生お隣さんには会えないのではないかというくらいの勢いだ。
すると、お隣さんは徐にこちらへ首を向け、お互いの視線が合った。そして、僅かに間を空けたあと、ふわりと笑みを見せる。
春風が柔らかく頬を撫でて通り過ぎていった気がした。それは、全くの気のせいのような気もするし。実際、マンションの渡り廊下へと入り込んできた風の仕業だったようにも思える。頬を撫でるような柔らかな空気みたいな、そんな春の雰囲気が今目の前にあった。
「こんばんは」
先に向こうからかけられた挨拶は、とても穏やかで優しい。まるで漣のようにするすると耳に届いた。
瞬間的に反応した胸の音に自分でも焦り、とにかく頭を下げ挨拶を返した。
「こんばんは」
スラリとした身長は百八十センチくらいだろうか。温和な表情に浮かべる微笑みは、常日頃からそうしているように、とても自然で優しい。年は、私より上だろう。とても落ち着いた雰囲気だ。背景はすっかり夜の闇だというのに、春色のフレームが見えるくらいに暖かな雰囲気を醸し出している。
「遅くにすみませんっ」
帰ってきたところを偶然捕まえる形になってしまい、恐縮してしまう。
慌てている私とは対照的に、とても落ち着いた態度でお隣さんに微笑みを向けられてしまうと思わず見惚れてしまい、手に持つ引っ越し祝いの存在を数秒間忘れてしまったほどだ。
お隣さんの視線が穏やかなままだからつい視線を逸らせずにいたのだけれど、手に持つタオルにハッと気がつき、パタパタと傍に行った。
「隣に越してきた、星川雪乃です。宜しくお願いします。あ、これ、つまらないものですが」
日本人特有の、つまらないものですが挨拶をし、ペコペコと頭を下げながらタオルを差し出し渡した。
「梶です。梶優斗。宜しくお願いします」
梶優斗さん。素敵な人。
再び見惚れてしまったけれど、我に返り「失礼します」と振り切るように踵を返す。玄関ドアを閉めた後、胸に手を当て鼓動を聴いた。少しだけ、速い気がする。
部屋では、佑が黙々と不要なゴミをまとめてくれていた。やるときはやる、とでもいうところだろうか。なんだかんだ言っても、手伝ってもらえるのはありがたい。
「渡せたのか?」
一纏めに持ちやすいようにした段ボールを玄関先に持ってきた。
「うん。丁度帰ってきて、渡せた。とっても素敵な人だったよ」
弾むように言うと、「惚れやすっ」と笑われた。
「佑だって、見たらカッコイイって思うよ」
「男になんか、興味ねぇし」
「興味あったら、怖いけど。そうなら、早めに言ってね。対応考えるから」
「お気遣いどうもっ」
冗談を言い合っていたら、ドアフォンが鳴った。
佑以外に訊ねてくる人などいないから、首をかしげてインターホンを押して応えると、「梶です。あ、隣の」というさっき聞いたばかりの素敵な声が聞こえてきた。
「今開けますっ」
慌てて応え、玄関先へ急ぐ私を、佑が少しばかり呆れた表情で見ている。
ドアを開けると、梶さんが微笑みを浮かべて紙袋を差し出してきた。
「パン。好きかな?」
「え? あ、はい、好きです」
応えた好きが、まるで梶さん自身に向けたもののようで、自分で言ってからとても気恥ずかしくなった。
「うちの母親がパン作りにはまっていて、たくさん持ってくるんです。一人だと食べきれないので、よかったら」
「ありがとうございます」
「それと、こちらも。見に来るだけでも」
そう言って渡されたのは、素敵な雑貨の載っているチラシで「Uzdrowienie」と書かれていた。
「ウズ……」
「ウズドリャビャニャ。ポーランド語で、癒しっていう名前の店名です。ここ、僕が経営しているポーランド雑貨の店なので、よかったら暇つぶしにでも遊びに来てもらえませんか?」
「雑貨屋さん?」
「はい。見てるだけでも楽しいよ」
楽しいよ。その言い方がとても人懐っこくて、思わず梶さんの顔を見ると、そこには満面の笑みがあった。瞬間的に、顔に熱がいく。
「あ、ありがとうございます。伺います」
じゃあ、また。というように梶さんが踵を返す姿を見送ってから、静かにドアを閉めた。
振り返ると、佑が壁に寄りかかり、腕を組んだ姿勢で不満そうな顔をこちらに向けていた。
「な、何よ……」
文句を言いたそうな顔にぼそりと呟き、貰ったパンとチラシを持ってダイニングのテーブルにそれらを置いてから再び佑を見た。
「初対面のくせに、図々しい奴だ」
どうやら佑は、隣人の梶さんをお気に召さないようだ。その癖、貰ったパンの袋をのぞき込み、「食おうぜ」なんて、浮かれた声を出している。パンに罪はない、というところだろうか。
「コーヒーでいい?」
「おう」
不満気な顔をしていたわりに、手慣れたように食器棚からプレートを取り出すと、テーブルに置いて椅子に座る。佑が袋の中に手を入れて取り出したのはロールパンだった。
「それ、バターロールだよね。美味しそう。何か塗る?」
「いらね」
さっき緑茶を飲むのに使ったマグカップを洗い、フィルターをセットしてコーヒーの粉を入れていると、二人分のお湯が沸き細い口の薬缶が湯気を上げた。フィルターの端に沿って薬缶の湯を丁寧に回し入れると、一瞬で大好きなコーヒーの香りが部屋の中を満たしていった。
日本は、世界の中でもコーヒーを多く飲む人種らしい。どうしてこんなに日本人にコーヒーが浸透したのかわからないけれど。少なくとも、私はこの香りだけで、とても幸せな気持ちになる。きっと、コーヒー好きの人は、まずこの香りにやられているんじゃないだろうか。
コーヒーを淹れる工程は、ゆったりとした時間を感じることもできて、心が落ち着くのも好きだった。