翌朝、幸せな気持ちで眠りについたおかげか、目覚めはよかった。カーテンの隙間から入り込む陽の光が、まだ寝息を立てている佑の顔に当たっている。意外にも繊細なところがある佑を起こしてしまわないよう、そっとベッドから抜け出し、なるべく静かに会社へ行く準備を整えた。
昨夜梶さんから貰ったパンは、クリームパンだった。ふんわりしたパン生地の中に、卵の利いた手作りのカスタードクリームがたっぷり詰まっていて、朝食代わりに食べるととても美味しく満足できた。大量生産で売られているパンとは格段に違うクリームの自然な味わいに、思わず二つも食べてしまう。
佑の分の朝食も用意し、ダイニングのテーブルにメモと合鍵を置いていく。何時までダラダラと寝ているつもりなのかわからないけれど、夜な夜な曲作りに励んで睡眠不足になっているかもしれないし、無理やりたたき起こすなんてことはできない。契約更新がかかっている今は、特にそうだ。
考えてみれば、昨夜だって曲作りに没頭して、食事するのも睡眠をとることも忘れてしまい、突然我に返り空腹に気がついて家へやって来たのかもしれない。梶さんとあっ君との時間が楽しすぎて、佑の大事な時期にそこまで気が回らなかった自分をちょっとばかり反省した。
玄関でヒールに足を入れてから、首を伸ばして奥の部屋で未だ布団の中に潜り込んだままの佑を一瞥した。布団の影になって表情は窺えないが、規則的に上下する布団の動きを確認してから、ドアノブにそっと手をかけて玄関を出た。
少し慣れてきた通勤道。駅までの道のりも、改札を抜けホームのどの辺りで待つかも、ルーティンが少しずつ出来上がっていた。見慣れていくだろうこの街の景色を、電車内のつり革に掴まりながら眺めた。
出社すると、いつも通り美香の方が少しだけ早く来ていて、パソコンを立ち上げ書類に目を通していた。社内はまだ半分ほどの賑わいで、この後次々と社員がやってくることだろう。係長の姿は奥の方に見えるけれど、部長の姿はまだない。
「おはよ」
来る途中で買ってきたコンビニのコーヒーをデスクに置き、パソコンの電源を入れ椅子に腰かける。
バッグをデスクの下にしまい込み、買ったコーヒーを口にしながら立ち上がるパソコン画面を眺めた。届いているメールをチェックし、本日の業務に優先順位をつけてく。
「そういえば、お隣さんの話、聞かなくなったけど。あれからどうなった?」
少しずつ慌ただしくなっていく社内で、仕事の手は止めずに美香が興味津々に訊ねる。
「お隣の梶さんには、とても素敵な恋人がいました」
美香からの質問になんでもないとばかりに応えてはみたものの、言葉にするとなんて悲しい現実なのだろう。一人の夜にこんな言葉を呟いてしまったなら、涙が出てきてしまいそうだ。それでも平気な素振りで明るく返すと、「なんだ、その落ちは」と可笑しそうに顔を歪めた。
「残念過ぎる結末じゃん」
とは言いながらも、楽しそうにしているから、私の沈みそうな心が掬い上げられる。
単に面白がっているだけかもしれないけれど、今の私にはこうやって笑い飛ばしてくれるくらいが丁度いい。
「梶さんのお店の前にね、素敵なカフェがあって。そこのオーナー、櫻子さんが梶さんの恋人でした」
チャンチャン。というオチのメロディーつきで話すと声を上げて笑っている。
「雑貨店のオーナーにカフェのオーナーか。やり手のお二人さんですな」
感心するような、羨ましがるような雰囲気で一つ二つと頷いている姿は、まるで年配のおじ様みたいだ。
「本当に、すごい二人だなって思うよ」
こうやって改めて話してみると、私なんて足元にも及ばない二人だ。
「ゴールデンウィーク中に通い詰めてたら、仲良くしてもらえるようになってね」
「どっちに?」
「両方。Uzdrowienieに顔を出して、雑貨を眺めて幸せな気持ちに浸ってから、途中の図書館で借りた本を持って、櫻子さんのカフェでコーヒーを飲んだり食事をして過ごしてたの。出かける用事もなくいたから、入り浸っちゃった。でも、長居する私に、嫌な顔一つしない櫻子さんて、ホントいい人だよ」
「ふーん」
美香があまり関心のなさそうな返事をした。
「櫻子さんは梶さんと同じ大学の出身で、その頃からの長いお付き合いみたい。梶さんより二つ年上で、今でも高嶺の花なんて表現するの。それだけで、櫻子さんがどれだけ素敵な人なのか解るよね」
「彼女に高嶺の花? 自分の恋人をどんだけリスペクトしてんのよ」
さっきまで反応が薄かった美香も、そこまで話したところで呆れたような顔をした。
「でもさ、そんな気持ちになる相手って、素敵じゃない?」
胸の前で両手を握り合わせたりこそしないけれど、そんな雰囲気を醸し出す。
「雪乃は、夢見る夢子ちゃんか」
夢心地な私に、ズバリと言って笑った。
「夢っていえばね、梶さんの雑貨屋さんはポーランドの商品を扱っていて。この前、ポーランドのお店に連れて行ってもらった時に、たくさん話を聞かせて貰ったの。その話が素敵でね。」
「ん? 待って、待って。お店って、連れて行ってもらったって何? 何人かで? それとも二人で?」
矢継ぎ早に訊ねる瞳は、疑問を浮かべているのと興味津々の瞳で、ついさっきまでとは対照的に輝きだした。
佑に話した時もそうだったけれど、私は間の出来事を端折りすぎるのだろう。梶さんと出かけるまでの経緯も何も言わずにこんな話をしたら、驚くに決まっている。
「一応、二人で。ちょっと用事に付き合って欲しいって言われてついて行ったら、食事をごちそうになって」
話を聞いた美香が、腕を組んで背もたれに寄りかかる。何かを考えるように少しだけ目を閉じると、話の続きを促すように瞼を持ち上げて私を見た。
佑に話した時と同様に、エプロンを貰い食事へ誘われた経緯を説明した。
「食事をしながらね、ポーランドの国のこととか、雑貨のことを話してくれてね。その時の梶さんの表情が、とっても良かったの。好きなことに夢中になっている姿って、素敵だよね」
また夢心地になっている私を現実へ引き戻すように、美香が口を開いた。
「梶さんは、どうして恋人の櫻子さんを誘わなかったの?」
「カフェの終わる時間が遅いからじゃないのかな」
納得がいかないのか、美香が口を結ぶ。会話が止まると何だか気まずい雰囲気になってしまって、別の話題を口にした。
「Uzdrowienieのアルバイトにね、あっ君ていう大学生の男の子がいるんだけど。とっても調子がよくて、明るくて、楽しくて。人懐っこい人なの」
「じゃあ、その年下狙いで」
冗談ながらも、けし掛けるように美香がニヤリと笑う。
「やめてよ~。楽しい子だけど、そういう相手じゃないよ」
あっ君の自由で明るい姿を思い出して、つい笑みが浮かぶ。友達としては楽しいだろうけれど、恋人というのとは違う気がする。あっ君は調子よく雪ちゃんなんて言って擦り寄って来てくれるけれど、実際恋人となったら、年上でこんな面白みも何もない女などつまらないに決まっている。
「やっぱさぁ、雑貨屋のオーナーだよ。その櫻子さんとかいう人から、奪っちゃえば?」
突然とんでもないことを軽々と口にした美香が、真面目な顔を向けてきた。
突拍子もない提案に慌ててしまって、買ってきたコンビニのコーヒーに手を引っ掛けそうになるくらい動揺してしまう。
「だってさ、何て言うか……」
ハキハキとなんでも口にする美香が珍しく口籠った。
「なんて言うか?」
言葉を繰り返して訊ねると、考えるようにして黙り込む。それから何かを思いつき、そうだ。と声に出した。
「今日の帰り、そのカフェに連れて行ってよ」
何を考えているのか、美香がそんなことを言いだした。けれど。
「今日は、定休日でお休みなんだよね」
「なんだ。残念。じゃあ、定休日明けの木曜日にしよう」
約束を取り付けた美香は、満足そうな顔すると、いつものように真面目に仕事へと取り掛かった。
翌日の木曜日。美香は就業時間を目指し後片付けを始めると、時間きっかりにICカードをセンサーにかざす。もちろん、私のことをはやくと急かした。
カフェまでの道のりは、引っ越してきた当初の私と同じで新鮮に感じるのか、美香はあちこちへと視線をやっては質問をしてきたり意見を求めたり、感想を言ったりしていた。
図書館を過ぎ、角の花屋さんの前を過ぎると、少し先にはもうUzdrowienieと櫻子さんのカフェSAKURAが見える。隣を歩く美香も二つのお店に気がついたようで、あれ? と小さく指をさし訊ねた。
「じゃあ、まずは雑貨屋よね。なんて言ったっけ?」
「Uzdrowienie」
「そうそう、そのうずなんとかよ。ていうかさ、発音し辛い名前にして欲しくないんだけど」
文句を言っているわりには、顔が綻んでいて楽しそうだ。
「こんばんは~」
「あっ、雪ちゃんっ。いらっしゃい。今日は、お友達も一緒?」
Uzdrowienieに着き、中へ向かって声をかけると、入り口付近にいたあっ君が目をキラキラさせて反応してくれた。
そばに来ると美香を興味津々な目で見ている。あっ君は相変わらずの人懐っこさで、美香へニコリと笑かけた。
「同僚の、美香」
紹介すると、あっ君の目はさらにニコニコになる。
「美香ちゃん、可愛い名前だね。俺は、淳史。雪ちゃんも言ってくれてるけど、あっ君でいいからね」
あっ君が自己紹介したところで、梶さんがこちらへやって来た。
「こんばんは、雪乃ちゃん」
「梶さん、こんばんは。こちら、同僚で友達の美香です。今日は、櫻子さんのカフェで食事をしようと思って」
「こんばんは、美香です」
美香が軽く頭を下げると、梶さんはこんばんは、と言って微笑みを返した。
「僕の店にも寄ってくれて嬉しいよ。ありがとう。今日も櫻子さんのカフェは盛況だよ」
梶さんは向かい側のカフェを振り返るようにして、再びこちらを向くと笑顔を見せる。
「梶さんは、おいくつですか?」
何の脈絡もなく、美香が突然梶さんへと質問をし始めるから、本人よりも私の方が驚いてしまった。
「僕は、三十歳でおじさんです」
美香の突然の質問に嫌な顔一つせず年齢を応えると、自分の年に若干自虐的に苦笑いを浮かべ照れくさそうにした。
「三十歳なんて、全然おじさんなんかじゃないですよ」
私が慌ててフォローすると、梶さんが笑う。
「俺は大学生だよ、美香ちゃん」
話に混ざってきたあっ君が自分のことをアピールしたけど、美香の反応はいまいちだ。
「雑貨、素敵なものばかりですね」
「ありがとう」
これは、美香の素直な感想だろう。女の子は、基本可愛いものに弱いのだ。
「お店の経営は、大変ですか? お休みは水曜日でしたっけ? 連休は取れたりしますか? 旅行にはいかれますか? 好き嫌いは? 音楽は、どんなものを?」
聞いているこっちが驚くくらい、矢継ぎ早に質問攻撃を始めたものだから慌てて止めた。
「ちょっと、美香。梶さん、すみません。美香は何でも知りたがりで」
美香から突然の質問攻めにあっても、梶さんは微笑みを崩さない。よくできた人だ。
「美香ちゃん、俺のことも聞いてよ」
あっ君がまた間に入ってくるけど、うん。今度ね。とあっさりとあしらわれてしまった。あっ君は、拍子抜けというか、ちょっと落ち込み気味だ。
「すみません、梶さん。また来ますね。あ、昨日のパン、クリームも手作りでとても美味しかったです」
「どういたしまして。また貰ってね」
「はい。ぜひ」
美香の手を引き、逃げ出すようにUzdrowienieをあとにした。
お店を出ると、美香がまたパン貰ったの? と、さっきまでの質問攻めなどなかったかのように、ケロリと訊いてくるのに応えながら、道を渡りSAKURAへと向かった。
昨夜梶さんから貰ったパンは、クリームパンだった。ふんわりしたパン生地の中に、卵の利いた手作りのカスタードクリームがたっぷり詰まっていて、朝食代わりに食べるととても美味しく満足できた。大量生産で売られているパンとは格段に違うクリームの自然な味わいに、思わず二つも食べてしまう。
佑の分の朝食も用意し、ダイニングのテーブルにメモと合鍵を置いていく。何時までダラダラと寝ているつもりなのかわからないけれど、夜な夜な曲作りに励んで睡眠不足になっているかもしれないし、無理やりたたき起こすなんてことはできない。契約更新がかかっている今は、特にそうだ。
考えてみれば、昨夜だって曲作りに没頭して、食事するのも睡眠をとることも忘れてしまい、突然我に返り空腹に気がついて家へやって来たのかもしれない。梶さんとあっ君との時間が楽しすぎて、佑の大事な時期にそこまで気が回らなかった自分をちょっとばかり反省した。
玄関でヒールに足を入れてから、首を伸ばして奥の部屋で未だ布団の中に潜り込んだままの佑を一瞥した。布団の影になって表情は窺えないが、規則的に上下する布団の動きを確認してから、ドアノブにそっと手をかけて玄関を出た。
少し慣れてきた通勤道。駅までの道のりも、改札を抜けホームのどの辺りで待つかも、ルーティンが少しずつ出来上がっていた。見慣れていくだろうこの街の景色を、電車内のつり革に掴まりながら眺めた。
出社すると、いつも通り美香の方が少しだけ早く来ていて、パソコンを立ち上げ書類に目を通していた。社内はまだ半分ほどの賑わいで、この後次々と社員がやってくることだろう。係長の姿は奥の方に見えるけれど、部長の姿はまだない。
「おはよ」
来る途中で買ってきたコンビニのコーヒーをデスクに置き、パソコンの電源を入れ椅子に腰かける。
バッグをデスクの下にしまい込み、買ったコーヒーを口にしながら立ち上がるパソコン画面を眺めた。届いているメールをチェックし、本日の業務に優先順位をつけてく。
「そういえば、お隣さんの話、聞かなくなったけど。あれからどうなった?」
少しずつ慌ただしくなっていく社内で、仕事の手は止めずに美香が興味津々に訊ねる。
「お隣の梶さんには、とても素敵な恋人がいました」
美香からの質問になんでもないとばかりに応えてはみたものの、言葉にするとなんて悲しい現実なのだろう。一人の夜にこんな言葉を呟いてしまったなら、涙が出てきてしまいそうだ。それでも平気な素振りで明るく返すと、「なんだ、その落ちは」と可笑しそうに顔を歪めた。
「残念過ぎる結末じゃん」
とは言いながらも、楽しそうにしているから、私の沈みそうな心が掬い上げられる。
単に面白がっているだけかもしれないけれど、今の私にはこうやって笑い飛ばしてくれるくらいが丁度いい。
「梶さんのお店の前にね、素敵なカフェがあって。そこのオーナー、櫻子さんが梶さんの恋人でした」
チャンチャン。というオチのメロディーつきで話すと声を上げて笑っている。
「雑貨店のオーナーにカフェのオーナーか。やり手のお二人さんですな」
感心するような、羨ましがるような雰囲気で一つ二つと頷いている姿は、まるで年配のおじ様みたいだ。
「本当に、すごい二人だなって思うよ」
こうやって改めて話してみると、私なんて足元にも及ばない二人だ。
「ゴールデンウィーク中に通い詰めてたら、仲良くしてもらえるようになってね」
「どっちに?」
「両方。Uzdrowienieに顔を出して、雑貨を眺めて幸せな気持ちに浸ってから、途中の図書館で借りた本を持って、櫻子さんのカフェでコーヒーを飲んだり食事をして過ごしてたの。出かける用事もなくいたから、入り浸っちゃった。でも、長居する私に、嫌な顔一つしない櫻子さんて、ホントいい人だよ」
「ふーん」
美香があまり関心のなさそうな返事をした。
「櫻子さんは梶さんと同じ大学の出身で、その頃からの長いお付き合いみたい。梶さんより二つ年上で、今でも高嶺の花なんて表現するの。それだけで、櫻子さんがどれだけ素敵な人なのか解るよね」
「彼女に高嶺の花? 自分の恋人をどんだけリスペクトしてんのよ」
さっきまで反応が薄かった美香も、そこまで話したところで呆れたような顔をした。
「でもさ、そんな気持ちになる相手って、素敵じゃない?」
胸の前で両手を握り合わせたりこそしないけれど、そんな雰囲気を醸し出す。
「雪乃は、夢見る夢子ちゃんか」
夢心地な私に、ズバリと言って笑った。
「夢っていえばね、梶さんの雑貨屋さんはポーランドの商品を扱っていて。この前、ポーランドのお店に連れて行ってもらった時に、たくさん話を聞かせて貰ったの。その話が素敵でね。」
「ん? 待って、待って。お店って、連れて行ってもらったって何? 何人かで? それとも二人で?」
矢継ぎ早に訊ねる瞳は、疑問を浮かべているのと興味津々の瞳で、ついさっきまでとは対照的に輝きだした。
佑に話した時もそうだったけれど、私は間の出来事を端折りすぎるのだろう。梶さんと出かけるまでの経緯も何も言わずにこんな話をしたら、驚くに決まっている。
「一応、二人で。ちょっと用事に付き合って欲しいって言われてついて行ったら、食事をごちそうになって」
話を聞いた美香が、腕を組んで背もたれに寄りかかる。何かを考えるように少しだけ目を閉じると、話の続きを促すように瞼を持ち上げて私を見た。
佑に話した時と同様に、エプロンを貰い食事へ誘われた経緯を説明した。
「食事をしながらね、ポーランドの国のこととか、雑貨のことを話してくれてね。その時の梶さんの表情が、とっても良かったの。好きなことに夢中になっている姿って、素敵だよね」
また夢心地になっている私を現実へ引き戻すように、美香が口を開いた。
「梶さんは、どうして恋人の櫻子さんを誘わなかったの?」
「カフェの終わる時間が遅いからじゃないのかな」
納得がいかないのか、美香が口を結ぶ。会話が止まると何だか気まずい雰囲気になってしまって、別の話題を口にした。
「Uzdrowienieのアルバイトにね、あっ君ていう大学生の男の子がいるんだけど。とっても調子がよくて、明るくて、楽しくて。人懐っこい人なの」
「じゃあ、その年下狙いで」
冗談ながらも、けし掛けるように美香がニヤリと笑う。
「やめてよ~。楽しい子だけど、そういう相手じゃないよ」
あっ君の自由で明るい姿を思い出して、つい笑みが浮かぶ。友達としては楽しいだろうけれど、恋人というのとは違う気がする。あっ君は調子よく雪ちゃんなんて言って擦り寄って来てくれるけれど、実際恋人となったら、年上でこんな面白みも何もない女などつまらないに決まっている。
「やっぱさぁ、雑貨屋のオーナーだよ。その櫻子さんとかいう人から、奪っちゃえば?」
突然とんでもないことを軽々と口にした美香が、真面目な顔を向けてきた。
突拍子もない提案に慌ててしまって、買ってきたコンビニのコーヒーに手を引っ掛けそうになるくらい動揺してしまう。
「だってさ、何て言うか……」
ハキハキとなんでも口にする美香が珍しく口籠った。
「なんて言うか?」
言葉を繰り返して訊ねると、考えるようにして黙り込む。それから何かを思いつき、そうだ。と声に出した。
「今日の帰り、そのカフェに連れて行ってよ」
何を考えているのか、美香がそんなことを言いだした。けれど。
「今日は、定休日でお休みなんだよね」
「なんだ。残念。じゃあ、定休日明けの木曜日にしよう」
約束を取り付けた美香は、満足そうな顔すると、いつものように真面目に仕事へと取り掛かった。
翌日の木曜日。美香は就業時間を目指し後片付けを始めると、時間きっかりにICカードをセンサーにかざす。もちろん、私のことをはやくと急かした。
カフェまでの道のりは、引っ越してきた当初の私と同じで新鮮に感じるのか、美香はあちこちへと視線をやっては質問をしてきたり意見を求めたり、感想を言ったりしていた。
図書館を過ぎ、角の花屋さんの前を過ぎると、少し先にはもうUzdrowienieと櫻子さんのカフェSAKURAが見える。隣を歩く美香も二つのお店に気がついたようで、あれ? と小さく指をさし訊ねた。
「じゃあ、まずは雑貨屋よね。なんて言ったっけ?」
「Uzdrowienie」
「そうそう、そのうずなんとかよ。ていうかさ、発音し辛い名前にして欲しくないんだけど」
文句を言っているわりには、顔が綻んでいて楽しそうだ。
「こんばんは~」
「あっ、雪ちゃんっ。いらっしゃい。今日は、お友達も一緒?」
Uzdrowienieに着き、中へ向かって声をかけると、入り口付近にいたあっ君が目をキラキラさせて反応してくれた。
そばに来ると美香を興味津々な目で見ている。あっ君は相変わらずの人懐っこさで、美香へニコリと笑かけた。
「同僚の、美香」
紹介すると、あっ君の目はさらにニコニコになる。
「美香ちゃん、可愛い名前だね。俺は、淳史。雪ちゃんも言ってくれてるけど、あっ君でいいからね」
あっ君が自己紹介したところで、梶さんがこちらへやって来た。
「こんばんは、雪乃ちゃん」
「梶さん、こんばんは。こちら、同僚で友達の美香です。今日は、櫻子さんのカフェで食事をしようと思って」
「こんばんは、美香です」
美香が軽く頭を下げると、梶さんはこんばんは、と言って微笑みを返した。
「僕の店にも寄ってくれて嬉しいよ。ありがとう。今日も櫻子さんのカフェは盛況だよ」
梶さんは向かい側のカフェを振り返るようにして、再びこちらを向くと笑顔を見せる。
「梶さんは、おいくつですか?」
何の脈絡もなく、美香が突然梶さんへと質問をし始めるから、本人よりも私の方が驚いてしまった。
「僕は、三十歳でおじさんです」
美香の突然の質問に嫌な顔一つせず年齢を応えると、自分の年に若干自虐的に苦笑いを浮かべ照れくさそうにした。
「三十歳なんて、全然おじさんなんかじゃないですよ」
私が慌ててフォローすると、梶さんが笑う。
「俺は大学生だよ、美香ちゃん」
話に混ざってきたあっ君が自分のことをアピールしたけど、美香の反応はいまいちだ。
「雑貨、素敵なものばかりですね」
「ありがとう」
これは、美香の素直な感想だろう。女の子は、基本可愛いものに弱いのだ。
「お店の経営は、大変ですか? お休みは水曜日でしたっけ? 連休は取れたりしますか? 旅行にはいかれますか? 好き嫌いは? 音楽は、どんなものを?」
聞いているこっちが驚くくらい、矢継ぎ早に質問攻撃を始めたものだから慌てて止めた。
「ちょっと、美香。梶さん、すみません。美香は何でも知りたがりで」
美香から突然の質問攻めにあっても、梶さんは微笑みを崩さない。よくできた人だ。
「美香ちゃん、俺のことも聞いてよ」
あっ君がまた間に入ってくるけど、うん。今度ね。とあっさりとあしらわれてしまった。あっ君は、拍子抜けというか、ちょっと落ち込み気味だ。
「すみません、梶さん。また来ますね。あ、昨日のパン、クリームも手作りでとても美味しかったです」
「どういたしまして。また貰ってね」
「はい。ぜひ」
美香の手を引き、逃げ出すようにUzdrowienieをあとにした。
お店を出ると、美香がまたパン貰ったの? と、さっきまでの質問攻めなどなかったかのように、ケロリと訊いてくるのに応えながら、道を渡りSAKURAへと向かった。