佑に指摘され、梶さんがエプロンをプレゼントとしてくれたことや、二人だけの食事に舞い上がり浮かれていた考えを改めた。櫻子さんの存在を常に意識していたはずなのに、結局自分の気持ちばかりが先に立っていて、どうしようもなく痛い女ではないか。佑が言ってくれなかったら、その痛さに気づくことなく浮かれ続けていただろう。時々佑がくれる、スパイスの利いた言葉には感謝しかない。
平日の仕事終わり。Uzdrowienieが閉店する前に訪ねることにした。
角の花屋さんはまだ明かりを灯していて、売り切れなかった花束の中からまだ元気のあるものを見繕い、小さなブーケに作り直し安く販売していた。
開いてしまったチューリップ。首が垂れ始めたマーガレットにガーベラ・カーネーション。組み合わせられたカラフルな色合いは、この夜の中で異質でいて眩しく、そして愛らしい。帰りに買っていこうかと逡巡していた時に、Uzdrowienieの店内から人が出てくるのが見えて、そのまま花屋を行き過ぎた。
「こんばんは」
「あ、雪ちゃん。いらっしゃい」
外にある商品を店内にしまい込む作業をしていたあっ君へ声をかけると、いつもの明るい笑顔で迎えられた。少しだけ首を伸ばして中をのぞき込むと、店内にお客さんの姿はないようだ。
「梶さんいる?」
年下のせいか、そのキャラのせいか。人懐っこくしてくれるあっ君に気軽な口調で訊ねると、彼は一つ頷いてから店の奥へと視線を向ける。
「ちょっと待ってね。かじさーーん。愛しの雪ちゃんが来たよ~」
恥ずかしげもなくそんな言葉を大きな声でいうものだから、慌ててしまった。櫻子さんに聞かれでもしてしまったらと、冷や汗交じりにSAKURAへ視線を向けたけれど姿は見えなかった。
あっ君には、本当に驚かされてしまう。
「櫻子さんに聞こえちゃうでしょ」
あっ君を窘めると、にんまりとした笑みを向けられた。いたずらっ子みたいな顔は、まるで佑みたいだ。
「前から思ってたんだけど、雪ちゃんてさ、梶さんと櫻子さ――――」
「――――いらっしゃい。雪乃ちゃん」
あっ君の言葉を遮るように、奥から出てきた梶さんに声をかけられた。あっ君は、遮られた言葉の続きを無理強いすることもなく作業の続きを始めるから、続きを訊くようなタイミングもない。
「お店片付け始めちゃったけど、中見る?」
雑貨を見に来たと勘違いした梶さんが、気遣うように中へと促してくれた。いつでも相手のことを一番に考えられるのは、お店を持つ人なら当然のことなのかもしれないけれど、気を遣ってもらえるとつい特別に感じてしまって素直に嬉しくなるものだ。おかげで、ちょっと申し訳ない気持ちにもなるのだけれど。
「あ、いえ。今日は、エプロンの代金を支払おうと思いまして」
「え、どうして?」
驚いた顔のあとに、梶さんは不思議そうな表情をする。
「あんな素敵なお店に連れて行っていただいて、食事までご馳走になったのに、頂くわけには……」
尻すぼみで言葉を紡いでいると、そばにいたあっ君が、「えっ、ご飯?」と疑問を口にして、私を見た後に梶さんを見る。梶さんは、照れくさそうにちょっとだけ口元を歪めた。
「梶さん。雪ちゃんと飯に行ったの?」
疑問を投げかけるあっ君に「淳史は片付け」と、話に加わるあっ君を遠ざけた。少しばかり不満そうな顔をしたものの、ニヤッとした顔を梶さんに向けたあっ君は、私にはニコリと笑みを向けて仕事の続きをし始めた。
「僕は、自分の趣味みたいな食事に付き合ってもらって感謝してるんだけどな」
店の外に向かって歩きだした梶さんは、道路わきへと移動する。私もそのあとをついて行った。お店のすぐ横は細い路地になっていて、角で立ち止まる。奥は街灯も少なく、仄暗い。SAKURAのある向かい側も同じような細い路地になっていて裏口が見えた。従業員用の出入り口なのだろう。
「雪乃ちゃんが僕の趣味に一緒に付き合ってくれたことに、本当に感謝してるんだよ」
梶さんはとても穏やかな口調で、気にすることなどないのにといった様子だ。
街灯と微かに雲間から覗く月に照らされた梶さんの姿は、ちょっとばかり幻想的で恋心を煽ってくる。緩やかなスピードだけれど熱を持って反応する心を落ち着かせようと、気づかれないようゆっくりと息を大きく吸って吐き出した。
物で釣られるなと佑は言った。梶さんがそんな人ではないと思っても、佑の言い分もわかる。元カレとは違って、本気のいい人だとしたって、食事をご馳走してもらった上に、エプロンを頂くと言うのは図々しすぎるし。いくら急激に仲良くなった間柄だとしても甘え過ぎだ。
「けど、やっぱり払います」
肩に掛けていたバッグの中から財布を取り出すと、「意外と、頑固だね。雪乃ちゃん」と可笑しそうに笑った。口角を上げほんのり見える白い歯は、梶さんの心みたいに真っ白だ。
その後、エプロンの代金を受け取ってもらった。
「そうだ。このあと、用事ある?」
路地を出てお店に足を向けながら訊ねられ、いえ、と言って首を振りながらまた後ろをついて行った。お店の前では、あっ君がゴミをまとめていた。
「あ、飯ですか? 俺もなんか食わせて」
まとめたゴミの入る袋をそっちのけにして、あっ君がまた耳ざとく話に加わってきた。子犬みたいに屈託なく擦り寄り甘えてくるあっ君の素直さに、梶さんが笑っている。私もつられて笑みが漏れた。
「そう淳史が言ってるんだけど。雪乃ちゃん、このあとみんなで一緒に食事でもどうかな?」
仕事終わりの食事会は、ライブ後の打ち上げに似ている気がして、無関係の私が仲間に加わってもいいのだろうかと躊躇った。
「私が一緒でもいいんですか?」
戸惑い気味に訊ねると、もちろんだよ、雪ちゃん。となぜかあっ君が応えるから笑ってしまった。
「俺、雪ちゃんと飯いきたいなー。行こう~よ、飯~」
ゴミ袋を両手にぶら下げたあっ君が私を誘う姿は、なんともチグハグでやっぱり可笑しい。クスクスと笑っていると、あっ君は益々調子に乗ったようで、行こうよ、行こうよ。と連呼する。
「いいから、淳史は片付け」
可笑しさを堪えながら窘める梶さんに、あっ君は、は~い、と間延びした返事をした。
「雪ちゃんと、ごはん~、ごはん~」
楽し気に歌いながら、あっ君はゴミを捨てに店の裏へと行った。
櫻子さんは、どうするのだろう。恋人だから、一緒に行くよね?
けど、カフェの明かりはまだ煌々と灯っていて、外看板の下の方に書かれている営業時間を確認すれば、まだまだ終わりそうにない。
「SAKURAは、まだ営業が続くみたいで残念ですね」
一緒にご飯を食べられたらいいのに。
「櫻子さんは、とても忙しい人だからね。お店がなかったとして、来ないかもしれないよ」
梶さんが苦笑いを浮かべている。
恋人のお誘いなのに、来ないの?
ちょっとした衝撃を受けてしまった。私の中では、彼氏からの誘いを断るなんて選択肢は、ほぼないからだ。
そんなんだから、男にいいようにされるんだよ。という佑の声が聞こえてきそう。
それにしても、彼女の櫻子さんが来ないのに、私なんかが加わるのはやっぱり気が引ける。
「あと少しだから、待っててくれる?」
とは言え、断る理由も思いつかず、店内に入っていく梶さんを見送り、お店が終わるのを外に立ちながら待っていた。時間潰しにスマホを取り出し、佑にどうでもいいラインを送りつけようとしていたところで、SAKURAからカウベルの音が聴こえてきた。
「梶君のこと、待ってるの?」
カウベルの音と共に、カフェのドアを開けた櫻子さんが顔を出して訊ねる。その言葉にドクリと心臓が鳴った。
あっ君も一緒の食事なのだから、疚しいことなどない。けれど、先日のポーランド料理のお店に二人で行ったこともあるし、疚しさを拭いきれない。直ぐに言葉が出て来なくて、曖昧な表情を浮かべてしまう。こういう時、咄嗟に平気な顔をできない自分が恨めしい。
「中で待ってなよ。雪ちゃんなら、何も頼まなくったっていいんだから」
あまりに気の利いた気遣いに、梶さんじゃなくても惚れてしまいそうだ。
「さ、入って」
躊躇いを見せる私を笑顔で促す。
本当に素敵な人だ。こういう女性になれるよう努力しよう。
櫻子さんの好意に甘え、いつもの定位置。窓辺のカウンター席に腰かけた。席に着いてすぐ、後片付け中のあっ君がこっちに向かって手を振っている姿が目に入り、こちらからも笑顔で小さく手を振り返した。その後ろでは、梶さんが微笑みを浮かべている。
本当に素敵な人。スラリとした身長に、常に穏やかな表情と態度。目が悪いのか、時々眼鏡をかけていることがあって、その瞬間を目にすることができると私のテンションは上がる。レアな梶さんを見た気になって、得したななんて思っちゃうんだ。
声はソフトで、電話なんてしていたら聞き惚れてしまって、目を瞑って梶さんの話し声を子守歌みたいにずっと聞いていたくなるだろう。
梶さんを見つめながら、どんどん加速していく自分の感情に気がつきはっとした。
ダメダメ。櫻子さんがいるんだからね。
そんな櫻子さんのカフェは、少し遅めの夕食タイムで賑わっていた。その光景を目にすると、やはり何も頼まずここに座っているのは気が引けた。コーヒーでも頼もうかと思っていたら、櫻子さんがやって来た。
「さっき、豆を挽き過ぎたの。よかったら、飲んでいって」
コトリと芳しい香りを放つコーヒーカップが目の前に置かれ、ふんわりとした笑みをくれる。
「え。でも……」
驚く私に、そっと唇の前に人差し指を置き、サービス。と小さな声で囁いた。
もー。櫻子さん、素敵すぎます。大好きです。
「雪ちゃんて、本当に可愛らしい」
目を見て言われると、女の私でも惚れてしまいそうで、ときめいてしまう。おかげで、つい。
「櫻子さんは、とても素敵な女性ですっ」
なんて、力いっぱいに言ってしまった。まるで愛の告白でもしたみたいになり、顔が一瞬で熱くなる。そんな私を見て、また櫻子さんが笑顔になった。
「雪ちゃんに言われると、嬉しいな。ありがとう。あ、そういえば。最近の梶君ね、とても明るいのよ」
私の告白をさらりと、でも嫌味なく受け取ってくれた櫻子さんが、Uzdrowienieに視線を向けた。
「そうなんですか? 何かいいことでもあったんでしょうか?」
店内の奥にいるのか、今は梶さんの姿を確認できないのだけれど、私もUzdrowienieに視線をやり、首を傾げた。すると、櫻子さんの表情がほんの少しだけ曇った。
「雪ちゃんて、純粋すぎて眩しい……」
Uzdrowienieに向けていた視線をすぐそばに立つ櫻子さんへ戻すと、彼女は梶さんの姿を探すようにわずかに視線を彷徨わせたあと、踵を返して仕事へ戻っていった。
平日の仕事終わり。Uzdrowienieが閉店する前に訪ねることにした。
角の花屋さんはまだ明かりを灯していて、売り切れなかった花束の中からまだ元気のあるものを見繕い、小さなブーケに作り直し安く販売していた。
開いてしまったチューリップ。首が垂れ始めたマーガレットにガーベラ・カーネーション。組み合わせられたカラフルな色合いは、この夜の中で異質でいて眩しく、そして愛らしい。帰りに買っていこうかと逡巡していた時に、Uzdrowienieの店内から人が出てくるのが見えて、そのまま花屋を行き過ぎた。
「こんばんは」
「あ、雪ちゃん。いらっしゃい」
外にある商品を店内にしまい込む作業をしていたあっ君へ声をかけると、いつもの明るい笑顔で迎えられた。少しだけ首を伸ばして中をのぞき込むと、店内にお客さんの姿はないようだ。
「梶さんいる?」
年下のせいか、そのキャラのせいか。人懐っこくしてくれるあっ君に気軽な口調で訊ねると、彼は一つ頷いてから店の奥へと視線を向ける。
「ちょっと待ってね。かじさーーん。愛しの雪ちゃんが来たよ~」
恥ずかしげもなくそんな言葉を大きな声でいうものだから、慌ててしまった。櫻子さんに聞かれでもしてしまったらと、冷や汗交じりにSAKURAへ視線を向けたけれど姿は見えなかった。
あっ君には、本当に驚かされてしまう。
「櫻子さんに聞こえちゃうでしょ」
あっ君を窘めると、にんまりとした笑みを向けられた。いたずらっ子みたいな顔は、まるで佑みたいだ。
「前から思ってたんだけど、雪ちゃんてさ、梶さんと櫻子さ――――」
「――――いらっしゃい。雪乃ちゃん」
あっ君の言葉を遮るように、奥から出てきた梶さんに声をかけられた。あっ君は、遮られた言葉の続きを無理強いすることもなく作業の続きを始めるから、続きを訊くようなタイミングもない。
「お店片付け始めちゃったけど、中見る?」
雑貨を見に来たと勘違いした梶さんが、気遣うように中へと促してくれた。いつでも相手のことを一番に考えられるのは、お店を持つ人なら当然のことなのかもしれないけれど、気を遣ってもらえるとつい特別に感じてしまって素直に嬉しくなるものだ。おかげで、ちょっと申し訳ない気持ちにもなるのだけれど。
「あ、いえ。今日は、エプロンの代金を支払おうと思いまして」
「え、どうして?」
驚いた顔のあとに、梶さんは不思議そうな表情をする。
「あんな素敵なお店に連れて行っていただいて、食事までご馳走になったのに、頂くわけには……」
尻すぼみで言葉を紡いでいると、そばにいたあっ君が、「えっ、ご飯?」と疑問を口にして、私を見た後に梶さんを見る。梶さんは、照れくさそうにちょっとだけ口元を歪めた。
「梶さん。雪ちゃんと飯に行ったの?」
疑問を投げかけるあっ君に「淳史は片付け」と、話に加わるあっ君を遠ざけた。少しばかり不満そうな顔をしたものの、ニヤッとした顔を梶さんに向けたあっ君は、私にはニコリと笑みを向けて仕事の続きをし始めた。
「僕は、自分の趣味みたいな食事に付き合ってもらって感謝してるんだけどな」
店の外に向かって歩きだした梶さんは、道路わきへと移動する。私もそのあとをついて行った。お店のすぐ横は細い路地になっていて、角で立ち止まる。奥は街灯も少なく、仄暗い。SAKURAのある向かい側も同じような細い路地になっていて裏口が見えた。従業員用の出入り口なのだろう。
「雪乃ちゃんが僕の趣味に一緒に付き合ってくれたことに、本当に感謝してるんだよ」
梶さんはとても穏やかな口調で、気にすることなどないのにといった様子だ。
街灯と微かに雲間から覗く月に照らされた梶さんの姿は、ちょっとばかり幻想的で恋心を煽ってくる。緩やかなスピードだけれど熱を持って反応する心を落ち着かせようと、気づかれないようゆっくりと息を大きく吸って吐き出した。
物で釣られるなと佑は言った。梶さんがそんな人ではないと思っても、佑の言い分もわかる。元カレとは違って、本気のいい人だとしたって、食事をご馳走してもらった上に、エプロンを頂くと言うのは図々しすぎるし。いくら急激に仲良くなった間柄だとしても甘え過ぎだ。
「けど、やっぱり払います」
肩に掛けていたバッグの中から財布を取り出すと、「意外と、頑固だね。雪乃ちゃん」と可笑しそうに笑った。口角を上げほんのり見える白い歯は、梶さんの心みたいに真っ白だ。
その後、エプロンの代金を受け取ってもらった。
「そうだ。このあと、用事ある?」
路地を出てお店に足を向けながら訊ねられ、いえ、と言って首を振りながらまた後ろをついて行った。お店の前では、あっ君がゴミをまとめていた。
「あ、飯ですか? 俺もなんか食わせて」
まとめたゴミの入る袋をそっちのけにして、あっ君がまた耳ざとく話に加わってきた。子犬みたいに屈託なく擦り寄り甘えてくるあっ君の素直さに、梶さんが笑っている。私もつられて笑みが漏れた。
「そう淳史が言ってるんだけど。雪乃ちゃん、このあとみんなで一緒に食事でもどうかな?」
仕事終わりの食事会は、ライブ後の打ち上げに似ている気がして、無関係の私が仲間に加わってもいいのだろうかと躊躇った。
「私が一緒でもいいんですか?」
戸惑い気味に訊ねると、もちろんだよ、雪ちゃん。となぜかあっ君が応えるから笑ってしまった。
「俺、雪ちゃんと飯いきたいなー。行こう~よ、飯~」
ゴミ袋を両手にぶら下げたあっ君が私を誘う姿は、なんともチグハグでやっぱり可笑しい。クスクスと笑っていると、あっ君は益々調子に乗ったようで、行こうよ、行こうよ。と連呼する。
「いいから、淳史は片付け」
可笑しさを堪えながら窘める梶さんに、あっ君は、は~い、と間延びした返事をした。
「雪ちゃんと、ごはん~、ごはん~」
楽し気に歌いながら、あっ君はゴミを捨てに店の裏へと行った。
櫻子さんは、どうするのだろう。恋人だから、一緒に行くよね?
けど、カフェの明かりはまだ煌々と灯っていて、外看板の下の方に書かれている営業時間を確認すれば、まだまだ終わりそうにない。
「SAKURAは、まだ営業が続くみたいで残念ですね」
一緒にご飯を食べられたらいいのに。
「櫻子さんは、とても忙しい人だからね。お店がなかったとして、来ないかもしれないよ」
梶さんが苦笑いを浮かべている。
恋人のお誘いなのに、来ないの?
ちょっとした衝撃を受けてしまった。私の中では、彼氏からの誘いを断るなんて選択肢は、ほぼないからだ。
そんなんだから、男にいいようにされるんだよ。という佑の声が聞こえてきそう。
それにしても、彼女の櫻子さんが来ないのに、私なんかが加わるのはやっぱり気が引ける。
「あと少しだから、待っててくれる?」
とは言え、断る理由も思いつかず、店内に入っていく梶さんを見送り、お店が終わるのを外に立ちながら待っていた。時間潰しにスマホを取り出し、佑にどうでもいいラインを送りつけようとしていたところで、SAKURAからカウベルの音が聴こえてきた。
「梶君のこと、待ってるの?」
カウベルの音と共に、カフェのドアを開けた櫻子さんが顔を出して訊ねる。その言葉にドクリと心臓が鳴った。
あっ君も一緒の食事なのだから、疚しいことなどない。けれど、先日のポーランド料理のお店に二人で行ったこともあるし、疚しさを拭いきれない。直ぐに言葉が出て来なくて、曖昧な表情を浮かべてしまう。こういう時、咄嗟に平気な顔をできない自分が恨めしい。
「中で待ってなよ。雪ちゃんなら、何も頼まなくったっていいんだから」
あまりに気の利いた気遣いに、梶さんじゃなくても惚れてしまいそうだ。
「さ、入って」
躊躇いを見せる私を笑顔で促す。
本当に素敵な人だ。こういう女性になれるよう努力しよう。
櫻子さんの好意に甘え、いつもの定位置。窓辺のカウンター席に腰かけた。席に着いてすぐ、後片付け中のあっ君がこっちに向かって手を振っている姿が目に入り、こちらからも笑顔で小さく手を振り返した。その後ろでは、梶さんが微笑みを浮かべている。
本当に素敵な人。スラリとした身長に、常に穏やかな表情と態度。目が悪いのか、時々眼鏡をかけていることがあって、その瞬間を目にすることができると私のテンションは上がる。レアな梶さんを見た気になって、得したななんて思っちゃうんだ。
声はソフトで、電話なんてしていたら聞き惚れてしまって、目を瞑って梶さんの話し声を子守歌みたいにずっと聞いていたくなるだろう。
梶さんを見つめながら、どんどん加速していく自分の感情に気がつきはっとした。
ダメダメ。櫻子さんがいるんだからね。
そんな櫻子さんのカフェは、少し遅めの夕食タイムで賑わっていた。その光景を目にすると、やはり何も頼まずここに座っているのは気が引けた。コーヒーでも頼もうかと思っていたら、櫻子さんがやって来た。
「さっき、豆を挽き過ぎたの。よかったら、飲んでいって」
コトリと芳しい香りを放つコーヒーカップが目の前に置かれ、ふんわりとした笑みをくれる。
「え。でも……」
驚く私に、そっと唇の前に人差し指を置き、サービス。と小さな声で囁いた。
もー。櫻子さん、素敵すぎます。大好きです。
「雪ちゃんて、本当に可愛らしい」
目を見て言われると、女の私でも惚れてしまいそうで、ときめいてしまう。おかげで、つい。
「櫻子さんは、とても素敵な女性ですっ」
なんて、力いっぱいに言ってしまった。まるで愛の告白でもしたみたいになり、顔が一瞬で熱くなる。そんな私を見て、また櫻子さんが笑顔になった。
「雪ちゃんに言われると、嬉しいな。ありがとう。あ、そういえば。最近の梶君ね、とても明るいのよ」
私の告白をさらりと、でも嫌味なく受け取ってくれた櫻子さんが、Uzdrowienieに視線を向けた。
「そうなんですか? 何かいいことでもあったんでしょうか?」
店内の奥にいるのか、今は梶さんの姿を確認できないのだけれど、私もUzdrowienieに視線をやり、首を傾げた。すると、櫻子さんの表情がほんの少しだけ曇った。
「雪ちゃんて、純粋すぎて眩しい……」
Uzdrowienieに向けていた視線をすぐそばに立つ櫻子さんへ戻すと、彼女は梶さんの姿を探すようにわずかに視線を彷徨わせたあと、踵を返して仕事へ戻っていった。