昨夜のライブでサクラを頑張った私は、翌日のゴールデンウイーク初日の朝はのんびりとしていた。普段よりもゆっくりと起きだし、朝食の準備をし、淹れたコーヒーを飲む。限りある時間をあくせくすることもなく使えるというのは、何よりの贅沢だと思う。
この連休は、のんびりとした贅沢な時間を満喫しようと決めていた。図書館に通い沢山の本を読み、梶さんのお店の雑貨に癒される。そして、あのカフェにもまた行ってみたい。梶さんと櫻子さんの二人が揃う姿を目にするのは、心がチクリとするけれど。どう見積もって二人の間に私の入るスペースなんて一ミリもないわけだし。こうなったら、開き直ってしまおうと決めたのだ。
絵になる二人の姿を、絵画を鑑賞するくらいの気持ちで眺めてしまおうじゃないか。うっとりするくらい、素敵な二人なのだから。
まずは図書館だ。借りていた文庫の返却と、新たに借りる本をゆっくりと吟味する。この連休で何冊読めるだろうか。これだけたくさんの本があるのに、生きていく中で読める数など限られているというのは、本当に悔しくてならない。速読でも習おうかなと本気で悩んでしまう。
借りた数冊の本を手に花屋の角を曲がれば、今日も魅力的な雑貨の収まる大きな籠が、ここからでも窺えた。
お店に入ると、すぐのところに梶さんがいた。
「星川さん。いらっしゃい」
さわやかな笑顔が、この朝にとてもよく似合う。店内には女性客が二人ほどいて、雑貨を手にしていた。そのうちの一人が、こちらをチラチラと見ている。いや、こちらというよりも、梶さんのことを見ていると言った方が正しいかな。
Uzdrowienieでは、雑貨だけじゃなく、きっと梶さん本人も人気があるのだろう。
櫻子さんは、こんなモテモテの梶さんに、焼きもちを焼いたりするのだろうか。それとも、どっしりと構えて、あの清楚で穏やかな眼差しで落ち着いた雰囲気を崩したりしないのだろうか。櫻子さん自身もとても素敵な人だから、お互いにモテちゃって、そんなことなど気にも留めないのかもしれないな。
モテることが日常茶飯事って、どんな風なんだろう。経験しようにも、こればかりはどうにもならない。
入り口傍に立ち、お向かいのカフェに視線をやると、カウンターの窓ガラス越しに櫻子さんが見えた。今日も素敵な笑顔で接客をしている。私も清楚で素敵な女性になりたかったな。
Uzdrowienieの店内をゆっくりと巡り、雑貨を見て回ると、鳴りを潜めていた雑貨熱が沸々とまた込み上げてきた。あれもこれも欲しいものだらけ。けれど、全部は買えないから、次のお給料が入ったら、これとこれを買おうと計画を練る。
梶さんは仕事の手を休めず、時折こちらへと微笑みを向ける。その視線に気づいて目が合うたびに、心臓は否応なく反応した。
ダメダメ、勘違いしちゃだめだよ。新しい玩具でも目にしてワクワクとしている子供くらいにしか思われていないのだから。
視線を梶さんから雑貨へ戻し、トクトクと鳴る音を振り切るようにしていると、バックヤードから商品を持った男性が現れ笑顔で声をかけてきた。
「いらっしゃい。雪ちゃん」
以前来た時には会釈程度だった相手から、突然雪ちゃんと呼ばれて驚いた。相手の態度はあまりにフランクで、嫌悪感を抱くよりも思わず笑顔が零れてしまった。
えっ、と、名前は何だっけ?
この前「SAKURA」のカフェカウンターで梶さんから聞いたはずなのに、咄嗟に名前が出てこない。
「淳史」
名前を思い出せず買い物かごを握りしめたまま固まっていると、梶さんがやって来て苦笑いを浮かべた。淳史。そうだ、あっ君だ。みんなからそう呼ばれていると言っていた。
「梶さんから雪ちゃんの話は、よーく聞いてるよ。俺のことは、あっ君でいいよ」
正解。気さくでとても人懐っこい人。
あっ君は、満面の笑顔を浮かべている。
それにしても、私のことをよく聞いているって、どんなことを話されているのだろう。梶さんのクッキーまで貰ってしまう食いしん坊、なんて話されていたらどうしよう。恥ずかしいな。
Uzdrowienieでひとしきり雑貨を眺め、今日はエコバッグを買った。スーパーへ行くときに持参しよう。その後は、カフェ「SAKURA」に向かった。
カフェの前で一旦立ち止まり一呼吸。店内を動き回る櫻子さんの素敵な立ち居振る舞いを僅かに眺めてから、一段高くなっている甲板を上がりドアに手をかけた。今日もカウベルと櫻子さんが優しく迎えてくれる。
「いらっしゃい。また来てくれて嬉しいな」
前回同様、窓辺のカウンター席に腰かけると、櫻子さんが穏やかな笑みと一緒にレモン水を持ってきてくれた。
「あっ君に会った?」
メニューをテーブルに置きながら、Uzdrowienieに視線を向けると、あっ君がお客さんとにこやかに会話をしている姿が窺えた。
「あっ君、可愛いでしょ。すぐに擦り寄ってきて、なんだかワンちゃんみたいよね」
櫻子さんが楽しそうに話すと、そうですねってつられて笑顔になる。
確かに何の躊躇いもなく擦り寄ってくる雰囲気は、ワンちゃんみたいだよね。
お客さんと会話を続けている姿を眺めていたら、こちらの視線に気づいたあっ君が笑顔で手を振って来たから、今度はそちらに釣られて手を振り返した。
「そうだ。私も〝雪ちゃん〟て、呼んでもいい?」
呼んでもいい? なんて、どうやらあっ君は、櫻子さんの前でも私のことを“雪ちゃん”と呼び、話をしているようだ。窺うように訊ねられたけれど、親し気に接してもらえることが寧ろ嬉しく思えた。
私の知らないところで、私の話が広がっていることは何だかくすぐったいけれど、親しみのあるような興味心に嫌な気はしない。でも、どんな話をしているのか、ちょっとだけ気になるな。
「雪ちゃんて、可愛らしいよね」なんて言ってくれるから、「とんでもないです」と慌てて返したら声が裏返ってしまった。落ち着きのない自分が恥ずかしすぎる。
その日も前回と同じように、ソーサーにはクッキーが乗っていた。内緒のサービスとカップを置くときに櫻子さんが耳元で囁いた。まるで、恋人にでも話しかけるような吐息と共にかけられた声に、思わずキュンとしてしまった。
やだ、私、櫻子さんに惚れちゃいそう。
カウンター席で図書館から借りてきた本をひとしきり読み、カプチーノを飲みながらクッキーを頬張った。櫻子さんの流れるような仕事姿に惚れ惚れし。目の前のUzdrowienieに視線を向けては、あっ君の元気な姿に笑みを洩らし、梶さんの穏やかな対応に心が安らいだ。
そんなゆったりとした一日を「SAKURA」で過ごしてから家路につく。もちろん、レジ横にあったクッキーを購入して。
翌日の日曜日も、翌々日の月曜日も。まるでルーティンのように図書館に行き、Uzdrowienieに寄り、SAKURAへ来ていた。
Uzdrowienieで可愛らしい雑貨を手に取り眺めていると、品出しをしていたあっ君がやって来た。
「雪ちゃん。今日もSAKURA?」
まるで、昔からの知り合いのように接してくれるあっ君に、肩の力を抜いて接した。私は人見知りのところがあるから、こうやって相手から話しかけてもらえるとコミュニケーションが取りやすい。
あっ君は、ふわふわの毛がついたお掃除用具で埃を取りながら、品物を並べなおし始めた。
「UzdrowienieとSAKURA。二つともお気に入りになっちゃった」
「じゃあさ。今度、俺とデートしない?」
「え!? デート?」
お気に入りの話から、どうしてかデートのお誘いになって驚いていたら、にっこりと満面の笑顔が返された。佑といいあっ君といい。どうにも年下には、からかわれる性質らしい。
「雪ちゃんは、どんな所にデートに行きたい?」
調子にのって訊ねるあっ君を、少し離れた場所にいた梶さんが笑いながら咎めた。
「そのくらいにしておけよ、淳史」
「ほーい」
少しも反省などしていない返事をしたあっ君は、生粋のナンパ師なのか、さり気なくウインクをしてみせる。困った人です。
梶さんに注意をされたあっ君は、再びふわふわのお掃除道具で棚をきれいにし、整理していく。お掃除のお邪魔にならないように雑貨を眺め、時折、梶さんの方へ視線をやった。
レジに立ち、ペンを握りながら書類に目を通す梶さんの横顔は、とてもセクシーだ。スッとした顎のライン。真剣な眼差し。ペンを持つ手の筋。時折頬を緩めてこちらに視線をくれると、心臓は素直な反応を示し思わず見惚れてしまう。
「梶さん、いい男でしょ」
ぼんやりと梶さんを見ていたら、不意にあっ君が耳元に囁きかけるから驚いてしまった。今考えていたことを悟られたんじゃないかと心臓が跳ねあがった。
「そんなこと言ってると、櫻子さんに叱られちゃうよ」
慌てている自分の気持ちを隠し、少し早口になってしまう。
言われたあっ君は、きょとんしたあと、ふっと表情を崩して笑った。
ん? 今の反応は、何?
にこりとした笑みを残したあっ君は、またお掃除の続きを始めてしまった。今の反応について訊ねるような雰囲気にもならなくて、その後少しだけ雑貨を見たあとUzdrowienieを出ようと梶さんに声をかけた。
「お邪魔しました。明日もまた来ます」
笑顔で伝えると、梶さんがレジから出てそばに来た。
「星川さん、僕もあとからカフェに行くから」
「え、あ、はい」
昨日もそうだったのだけれど。私がSAKURAでランチをしていると、梶さんがやって来て隣に座り、食事とお茶をしていった。素敵な梶さんが隣に座るのは、恥ずかしいながらもとても嬉しいのだけれど。同時に、櫻子さんの視線が私の背中に刺さっているような気がして、ちょっと落ち着かなくて緊張するような感覚も味わっていた。実際に櫻子さんが私のことを見ているかどうかなんて、確認したわけではいのだけれど、それでもやっぱり落ち着かないのだ。
お昼前のSAKURAは、既に混み始めていた。外が見渡せるカウンター席には、リザーブの札が置かれている。最近やって来た新参者の私だというのに、櫻子さんはこの席を私の指定席にしてくれていた。申し訳なくて一度お断りしたのだけれど、梶君からも言われているからと微笑みを返されてしまった。
どうして梶さんがそこまでしてくれるのかわからないけれど、二人からの気遣いに恐縮しながらも、お気に入りになったこの席に座ると正直気分は上がる。窓の外に広がる青空と、目の前には素敵な雑貨で溢れるUzdrowienie。時折あっ君が外に出てこちらに向かって手を振ってくれて、梶さんが視線と微笑みをくれる姿を目にできるのはとても幸福だった。Uzdrowienieは、眺めているだけでも幸せな気持ちになるお店だし、通り行く人をぼんやりと眺めているのも好きだ。
SAKURAはコーヒーやお茶も美味しいけれど、食事もとても美味しい。今日は、ドライカレーの温泉玉子のせにした。カレーの辛さを玉子がまろやかにしてくれている。スパイスがいくつも使われているのか味も凝っていた。食後には、手作りのプリンを食べた。とろりとしたカスタードが甘くておいしいから、紅茶も頼んじゃった。あれ、考えてみたら玉子ばかりだ。
「幸せそうな顔だね」
プリンを味わい口角を上げている顔を、いつの間にか休憩でやって来ていた梶さんにのぞき込まれていて驚いた。
カウベル鳴った?
鳴らないはずはないカウベルの音にも気づかず、子供みたいにプリンに笑みをこぼしていたなんて、恥ずかしすぎる。それに梶さんの顔があまりに至近距離にあり、心臓がバクついて慌ただしい。感情が一気に盛り上がり、羞恥に顔が火照った。
「星川さんがあんまり美味しそうに食べているのを見ると、僕も食べたくなってくるな」
そう言いながら、躊躇いもなく右隣の席に腰かけた。もうずっと何年も前からそうしているみたいに、あまりに自然に隣に座る行動は、ゼリーみたいに心にツルンと滑りこんできて、抑えつけていた感情をいたずらに刺激する。
櫻子さんは今、どんな顔をしているだろう。
背中に目がついているわけでもないのに、櫻子さんの視線や感情がひしひしと伝わってくるようで、ピーンと神経が張り詰めた。
「そんなこと言って。梶君は、食べないでしょ」
櫻子さんを意識した瞬間に本人の声がすぐそばでして、体がビクリと反応してしまった。
「あ、ごめんね。急に声をかけたから、驚いちゃったよね」
背中越しに謝る櫻子さんを苦笑いのまま振り返り、いえいえそんな、なんてコテコテのリアクションを取ってしまった。それを見ていた梶さんは、可笑しそうに笑みを浮かべている。
櫻子さんが、梶さんの前にレモン水の入ったグラスを置く。櫻子さんは、ニコリと私に笑みをくれてから、再び梶さんを見た。
「梶君は、甘いもの得意じゃないのよ」
へぇ~。梶さんて、甘いの苦手なんだ。あれ? じゃあ、どうしてこの前は梶さんのソーサーにチョコチップクッキーが乗っていたのだろう。私へ宣伝するため?
私の表情から何を考えているのかお見通しの櫻子さんが、チロリと可愛らしく舌を出した。
「あ、雪ちゃんにクッキーの宣伝したこと、バレちゃったみたい」
クスクスと可憐に楽しげに笑う櫻子さんを、梶さんも微笑みながら見ている。
「雪ちゃんに色々食べて欲しくて、つい梶君のところにもクッキーを置いちゃった。ごめんね」
私の購買意欲を引き出した、二人のコンビネーションに恐れ入る。
謝る櫻子さんの姿は可愛らしくて、二人のやり取りは微笑ましくもあって、やっぱりとてもお似合いだなって思うんだ。櫻子さんは、本当に魅力的な女性だ。こんな素敵な女性だから、梶さんのような素敵な男性がそばにいるのだろう。
梶さんからの注文を聞いた櫻子さんは、イタズラな顔をしてから私に耳打ちした。
「雪ちゃん、すっかり梶君のお気に入りになったね」
囁かれた声が可愛らしい。
お気に入りといっても、ペット的な感覚だと思います。という自虐的なセリフは何とか飲み込んだ。せめて、人として気に入られたと思いたい。
櫻子さんが下がったのを機に、梶さんへと話しかけた。
「みんながお休み中も営業って、大変ですね」
Uzdrowienieは、ゴールデンウイークも関係なく営業を続けている。同じように、SAKURAもだ。おかげで、予定のない私にしてみれば、居る場所を提供してもらえて大助かりだ。
「時期をずらして、休みはとる予定だよ。うちは遠方からもお客さんが来てくれるから、土日祭日は休まないようにしているんだ」
話を聞くと、ポーランドから仕入れている商品は、ほとんどがここでしか手に入らず、ネットでも手に入らない物ばかりなのだという。
「仕入れでたまにポーランドへ行くこともあるんだ。叔母が向こうから家具やインテリアを仕入れていてね。それで、僕の方の雑貨にも手を貸してくれているんだ。とても助かるよ」
ポーランド雑貨は随分と日本にも浸透しているけれど、まだまだ数は少ないらしい。有名なアルティスティッチナ社やザクワデ社のポーリッシュポタリーは、探せば日本でもいくつか手に入れることはできるけれど。現地でしか手に入れられない職人の作品を、直接買い付けに行っているらしい。
Uzdrowienieに置かれている雑貨の数々は、貴重なものばかりなんだと改めて思った。
「叔母様のセンス、とても素敵ですね」
「叔母に伝えておくね。きっとすごく喜ぶよ」
梶さんがふわりと笑う。梶さんの笑顔は癒し系だ。ほんわかとした雰囲気が、この穏やかなカフェによく似合う。櫻子さんとの雰囲気もとてもよくて、二つのお店と二人がとてもマッチしている。形がピタリと吸い付くように合っている。
梶さんの前に、鶏の甘辛チキンプレートが置かれた。野菜たっぷりのサラダにスープもついていて、とても美味しそう。
甘酸っぱいチキンの香りを横に、通り行く人たちを眺めた。Uzdrowienieで足を止める人は、みんないい笑顔だ。店先に置かれた籠の中の雑貨を見て、店内に首を伸ばし中へと入っていく。しばらくして、出てきたお客さんの手に握られているショッピングバッグを目にすると、何故か私がありがとうございます。って思っちゃう。
「楽しそうだね」
食事を終えた梶さんが、柔らかな視線で私の方を見ながら僅かに首をかしげていた。
「梶さんのお店の商品が売れたのを見ると、なんだか嬉しくて」
正直な気持ちを伝えると、柔らかな眼差しのまま私を見続けるから、急に照れ臭くなって目を伏せてしまった。
あんまり見つめられてしまったら、勘違いしてしまいそうだ。櫻子さんに悪いよ。
伏せた視線のまま、カップへ手を伸ばす。プリンと一緒に頼んだ紅茶はすっかり冷めていたけれど、カップの底で陽の光を受け琥珀色をキラキラさせていた。
眩しいな。紅茶の水面が眩しいのかな。ううん。きっと、隣に座る梶さんの眼差しが眩しいんだな。困ったな。気持ち、ちゃんと抑えないと。
冷たくなった紅茶のキラキラに目を奪われていたら、櫻子さんがやって来て梶さんに声をかけた。
「梶君。そろそろ時間だよ」
休憩時間の終わりを知らせに来たんだ。至れり尽くせりだね。梶さんには、櫻子さんがいる。二人の形はぴったりで、隙間なんてどこにもない。私の入る隙間なんて、一ミリだって、ない。
この連休は、のんびりとした贅沢な時間を満喫しようと決めていた。図書館に通い沢山の本を読み、梶さんのお店の雑貨に癒される。そして、あのカフェにもまた行ってみたい。梶さんと櫻子さんの二人が揃う姿を目にするのは、心がチクリとするけれど。どう見積もって二人の間に私の入るスペースなんて一ミリもないわけだし。こうなったら、開き直ってしまおうと決めたのだ。
絵になる二人の姿を、絵画を鑑賞するくらいの気持ちで眺めてしまおうじゃないか。うっとりするくらい、素敵な二人なのだから。
まずは図書館だ。借りていた文庫の返却と、新たに借りる本をゆっくりと吟味する。この連休で何冊読めるだろうか。これだけたくさんの本があるのに、生きていく中で読める数など限られているというのは、本当に悔しくてならない。速読でも習おうかなと本気で悩んでしまう。
借りた数冊の本を手に花屋の角を曲がれば、今日も魅力的な雑貨の収まる大きな籠が、ここからでも窺えた。
お店に入ると、すぐのところに梶さんがいた。
「星川さん。いらっしゃい」
さわやかな笑顔が、この朝にとてもよく似合う。店内には女性客が二人ほどいて、雑貨を手にしていた。そのうちの一人が、こちらをチラチラと見ている。いや、こちらというよりも、梶さんのことを見ていると言った方が正しいかな。
Uzdrowienieでは、雑貨だけじゃなく、きっと梶さん本人も人気があるのだろう。
櫻子さんは、こんなモテモテの梶さんに、焼きもちを焼いたりするのだろうか。それとも、どっしりと構えて、あの清楚で穏やかな眼差しで落ち着いた雰囲気を崩したりしないのだろうか。櫻子さん自身もとても素敵な人だから、お互いにモテちゃって、そんなことなど気にも留めないのかもしれないな。
モテることが日常茶飯事って、どんな風なんだろう。経験しようにも、こればかりはどうにもならない。
入り口傍に立ち、お向かいのカフェに視線をやると、カウンターの窓ガラス越しに櫻子さんが見えた。今日も素敵な笑顔で接客をしている。私も清楚で素敵な女性になりたかったな。
Uzdrowienieの店内をゆっくりと巡り、雑貨を見て回ると、鳴りを潜めていた雑貨熱が沸々とまた込み上げてきた。あれもこれも欲しいものだらけ。けれど、全部は買えないから、次のお給料が入ったら、これとこれを買おうと計画を練る。
梶さんは仕事の手を休めず、時折こちらへと微笑みを向ける。その視線に気づいて目が合うたびに、心臓は否応なく反応した。
ダメダメ、勘違いしちゃだめだよ。新しい玩具でも目にしてワクワクとしている子供くらいにしか思われていないのだから。
視線を梶さんから雑貨へ戻し、トクトクと鳴る音を振り切るようにしていると、バックヤードから商品を持った男性が現れ笑顔で声をかけてきた。
「いらっしゃい。雪ちゃん」
以前来た時には会釈程度だった相手から、突然雪ちゃんと呼ばれて驚いた。相手の態度はあまりにフランクで、嫌悪感を抱くよりも思わず笑顔が零れてしまった。
えっ、と、名前は何だっけ?
この前「SAKURA」のカフェカウンターで梶さんから聞いたはずなのに、咄嗟に名前が出てこない。
「淳史」
名前を思い出せず買い物かごを握りしめたまま固まっていると、梶さんがやって来て苦笑いを浮かべた。淳史。そうだ、あっ君だ。みんなからそう呼ばれていると言っていた。
「梶さんから雪ちゃんの話は、よーく聞いてるよ。俺のことは、あっ君でいいよ」
正解。気さくでとても人懐っこい人。
あっ君は、満面の笑顔を浮かべている。
それにしても、私のことをよく聞いているって、どんなことを話されているのだろう。梶さんのクッキーまで貰ってしまう食いしん坊、なんて話されていたらどうしよう。恥ずかしいな。
Uzdrowienieでひとしきり雑貨を眺め、今日はエコバッグを買った。スーパーへ行くときに持参しよう。その後は、カフェ「SAKURA」に向かった。
カフェの前で一旦立ち止まり一呼吸。店内を動き回る櫻子さんの素敵な立ち居振る舞いを僅かに眺めてから、一段高くなっている甲板を上がりドアに手をかけた。今日もカウベルと櫻子さんが優しく迎えてくれる。
「いらっしゃい。また来てくれて嬉しいな」
前回同様、窓辺のカウンター席に腰かけると、櫻子さんが穏やかな笑みと一緒にレモン水を持ってきてくれた。
「あっ君に会った?」
メニューをテーブルに置きながら、Uzdrowienieに視線を向けると、あっ君がお客さんとにこやかに会話をしている姿が窺えた。
「あっ君、可愛いでしょ。すぐに擦り寄ってきて、なんだかワンちゃんみたいよね」
櫻子さんが楽しそうに話すと、そうですねってつられて笑顔になる。
確かに何の躊躇いもなく擦り寄ってくる雰囲気は、ワンちゃんみたいだよね。
お客さんと会話を続けている姿を眺めていたら、こちらの視線に気づいたあっ君が笑顔で手を振って来たから、今度はそちらに釣られて手を振り返した。
「そうだ。私も〝雪ちゃん〟て、呼んでもいい?」
呼んでもいい? なんて、どうやらあっ君は、櫻子さんの前でも私のことを“雪ちゃん”と呼び、話をしているようだ。窺うように訊ねられたけれど、親し気に接してもらえることが寧ろ嬉しく思えた。
私の知らないところで、私の話が広がっていることは何だかくすぐったいけれど、親しみのあるような興味心に嫌な気はしない。でも、どんな話をしているのか、ちょっとだけ気になるな。
「雪ちゃんて、可愛らしいよね」なんて言ってくれるから、「とんでもないです」と慌てて返したら声が裏返ってしまった。落ち着きのない自分が恥ずかしすぎる。
その日も前回と同じように、ソーサーにはクッキーが乗っていた。内緒のサービスとカップを置くときに櫻子さんが耳元で囁いた。まるで、恋人にでも話しかけるような吐息と共にかけられた声に、思わずキュンとしてしまった。
やだ、私、櫻子さんに惚れちゃいそう。
カウンター席で図書館から借りてきた本をひとしきり読み、カプチーノを飲みながらクッキーを頬張った。櫻子さんの流れるような仕事姿に惚れ惚れし。目の前のUzdrowienieに視線を向けては、あっ君の元気な姿に笑みを洩らし、梶さんの穏やかな対応に心が安らいだ。
そんなゆったりとした一日を「SAKURA」で過ごしてから家路につく。もちろん、レジ横にあったクッキーを購入して。
翌日の日曜日も、翌々日の月曜日も。まるでルーティンのように図書館に行き、Uzdrowienieに寄り、SAKURAへ来ていた。
Uzdrowienieで可愛らしい雑貨を手に取り眺めていると、品出しをしていたあっ君がやって来た。
「雪ちゃん。今日もSAKURA?」
まるで、昔からの知り合いのように接してくれるあっ君に、肩の力を抜いて接した。私は人見知りのところがあるから、こうやって相手から話しかけてもらえるとコミュニケーションが取りやすい。
あっ君は、ふわふわの毛がついたお掃除用具で埃を取りながら、品物を並べなおし始めた。
「UzdrowienieとSAKURA。二つともお気に入りになっちゃった」
「じゃあさ。今度、俺とデートしない?」
「え!? デート?」
お気に入りの話から、どうしてかデートのお誘いになって驚いていたら、にっこりと満面の笑顔が返された。佑といいあっ君といい。どうにも年下には、からかわれる性質らしい。
「雪ちゃんは、どんな所にデートに行きたい?」
調子にのって訊ねるあっ君を、少し離れた場所にいた梶さんが笑いながら咎めた。
「そのくらいにしておけよ、淳史」
「ほーい」
少しも反省などしていない返事をしたあっ君は、生粋のナンパ師なのか、さり気なくウインクをしてみせる。困った人です。
梶さんに注意をされたあっ君は、再びふわふわのお掃除道具で棚をきれいにし、整理していく。お掃除のお邪魔にならないように雑貨を眺め、時折、梶さんの方へ視線をやった。
レジに立ち、ペンを握りながら書類に目を通す梶さんの横顔は、とてもセクシーだ。スッとした顎のライン。真剣な眼差し。ペンを持つ手の筋。時折頬を緩めてこちらに視線をくれると、心臓は素直な反応を示し思わず見惚れてしまう。
「梶さん、いい男でしょ」
ぼんやりと梶さんを見ていたら、不意にあっ君が耳元に囁きかけるから驚いてしまった。今考えていたことを悟られたんじゃないかと心臓が跳ねあがった。
「そんなこと言ってると、櫻子さんに叱られちゃうよ」
慌てている自分の気持ちを隠し、少し早口になってしまう。
言われたあっ君は、きょとんしたあと、ふっと表情を崩して笑った。
ん? 今の反応は、何?
にこりとした笑みを残したあっ君は、またお掃除の続きを始めてしまった。今の反応について訊ねるような雰囲気にもならなくて、その後少しだけ雑貨を見たあとUzdrowienieを出ようと梶さんに声をかけた。
「お邪魔しました。明日もまた来ます」
笑顔で伝えると、梶さんがレジから出てそばに来た。
「星川さん、僕もあとからカフェに行くから」
「え、あ、はい」
昨日もそうだったのだけれど。私がSAKURAでランチをしていると、梶さんがやって来て隣に座り、食事とお茶をしていった。素敵な梶さんが隣に座るのは、恥ずかしいながらもとても嬉しいのだけれど。同時に、櫻子さんの視線が私の背中に刺さっているような気がして、ちょっと落ち着かなくて緊張するような感覚も味わっていた。実際に櫻子さんが私のことを見ているかどうかなんて、確認したわけではいのだけれど、それでもやっぱり落ち着かないのだ。
お昼前のSAKURAは、既に混み始めていた。外が見渡せるカウンター席には、リザーブの札が置かれている。最近やって来た新参者の私だというのに、櫻子さんはこの席を私の指定席にしてくれていた。申し訳なくて一度お断りしたのだけれど、梶君からも言われているからと微笑みを返されてしまった。
どうして梶さんがそこまでしてくれるのかわからないけれど、二人からの気遣いに恐縮しながらも、お気に入りになったこの席に座ると正直気分は上がる。窓の外に広がる青空と、目の前には素敵な雑貨で溢れるUzdrowienie。時折あっ君が外に出てこちらに向かって手を振ってくれて、梶さんが視線と微笑みをくれる姿を目にできるのはとても幸福だった。Uzdrowienieは、眺めているだけでも幸せな気持ちになるお店だし、通り行く人をぼんやりと眺めているのも好きだ。
SAKURAはコーヒーやお茶も美味しいけれど、食事もとても美味しい。今日は、ドライカレーの温泉玉子のせにした。カレーの辛さを玉子がまろやかにしてくれている。スパイスがいくつも使われているのか味も凝っていた。食後には、手作りのプリンを食べた。とろりとしたカスタードが甘くておいしいから、紅茶も頼んじゃった。あれ、考えてみたら玉子ばかりだ。
「幸せそうな顔だね」
プリンを味わい口角を上げている顔を、いつの間にか休憩でやって来ていた梶さんにのぞき込まれていて驚いた。
カウベル鳴った?
鳴らないはずはないカウベルの音にも気づかず、子供みたいにプリンに笑みをこぼしていたなんて、恥ずかしすぎる。それに梶さんの顔があまりに至近距離にあり、心臓がバクついて慌ただしい。感情が一気に盛り上がり、羞恥に顔が火照った。
「星川さんがあんまり美味しそうに食べているのを見ると、僕も食べたくなってくるな」
そう言いながら、躊躇いもなく右隣の席に腰かけた。もうずっと何年も前からそうしているみたいに、あまりに自然に隣に座る行動は、ゼリーみたいに心にツルンと滑りこんできて、抑えつけていた感情をいたずらに刺激する。
櫻子さんは今、どんな顔をしているだろう。
背中に目がついているわけでもないのに、櫻子さんの視線や感情がひしひしと伝わってくるようで、ピーンと神経が張り詰めた。
「そんなこと言って。梶君は、食べないでしょ」
櫻子さんを意識した瞬間に本人の声がすぐそばでして、体がビクリと反応してしまった。
「あ、ごめんね。急に声をかけたから、驚いちゃったよね」
背中越しに謝る櫻子さんを苦笑いのまま振り返り、いえいえそんな、なんてコテコテのリアクションを取ってしまった。それを見ていた梶さんは、可笑しそうに笑みを浮かべている。
櫻子さんが、梶さんの前にレモン水の入ったグラスを置く。櫻子さんは、ニコリと私に笑みをくれてから、再び梶さんを見た。
「梶君は、甘いもの得意じゃないのよ」
へぇ~。梶さんて、甘いの苦手なんだ。あれ? じゃあ、どうしてこの前は梶さんのソーサーにチョコチップクッキーが乗っていたのだろう。私へ宣伝するため?
私の表情から何を考えているのかお見通しの櫻子さんが、チロリと可愛らしく舌を出した。
「あ、雪ちゃんにクッキーの宣伝したこと、バレちゃったみたい」
クスクスと可憐に楽しげに笑う櫻子さんを、梶さんも微笑みながら見ている。
「雪ちゃんに色々食べて欲しくて、つい梶君のところにもクッキーを置いちゃった。ごめんね」
私の購買意欲を引き出した、二人のコンビネーションに恐れ入る。
謝る櫻子さんの姿は可愛らしくて、二人のやり取りは微笑ましくもあって、やっぱりとてもお似合いだなって思うんだ。櫻子さんは、本当に魅力的な女性だ。こんな素敵な女性だから、梶さんのような素敵な男性がそばにいるのだろう。
梶さんからの注文を聞いた櫻子さんは、イタズラな顔をしてから私に耳打ちした。
「雪ちゃん、すっかり梶君のお気に入りになったね」
囁かれた声が可愛らしい。
お気に入りといっても、ペット的な感覚だと思います。という自虐的なセリフは何とか飲み込んだ。せめて、人として気に入られたと思いたい。
櫻子さんが下がったのを機に、梶さんへと話しかけた。
「みんながお休み中も営業って、大変ですね」
Uzdrowienieは、ゴールデンウイークも関係なく営業を続けている。同じように、SAKURAもだ。おかげで、予定のない私にしてみれば、居る場所を提供してもらえて大助かりだ。
「時期をずらして、休みはとる予定だよ。うちは遠方からもお客さんが来てくれるから、土日祭日は休まないようにしているんだ」
話を聞くと、ポーランドから仕入れている商品は、ほとんどがここでしか手に入らず、ネットでも手に入らない物ばかりなのだという。
「仕入れでたまにポーランドへ行くこともあるんだ。叔母が向こうから家具やインテリアを仕入れていてね。それで、僕の方の雑貨にも手を貸してくれているんだ。とても助かるよ」
ポーランド雑貨は随分と日本にも浸透しているけれど、まだまだ数は少ないらしい。有名なアルティスティッチナ社やザクワデ社のポーリッシュポタリーは、探せば日本でもいくつか手に入れることはできるけれど。現地でしか手に入れられない職人の作品を、直接買い付けに行っているらしい。
Uzdrowienieに置かれている雑貨の数々は、貴重なものばかりなんだと改めて思った。
「叔母様のセンス、とても素敵ですね」
「叔母に伝えておくね。きっとすごく喜ぶよ」
梶さんがふわりと笑う。梶さんの笑顔は癒し系だ。ほんわかとした雰囲気が、この穏やかなカフェによく似合う。櫻子さんとの雰囲気もとてもよくて、二つのお店と二人がとてもマッチしている。形がピタリと吸い付くように合っている。
梶さんの前に、鶏の甘辛チキンプレートが置かれた。野菜たっぷりのサラダにスープもついていて、とても美味しそう。
甘酸っぱいチキンの香りを横に、通り行く人たちを眺めた。Uzdrowienieで足を止める人は、みんないい笑顔だ。店先に置かれた籠の中の雑貨を見て、店内に首を伸ばし中へと入っていく。しばらくして、出てきたお客さんの手に握られているショッピングバッグを目にすると、何故か私がありがとうございます。って思っちゃう。
「楽しそうだね」
食事を終えた梶さんが、柔らかな視線で私の方を見ながら僅かに首をかしげていた。
「梶さんのお店の商品が売れたのを見ると、なんだか嬉しくて」
正直な気持ちを伝えると、柔らかな眼差しのまま私を見続けるから、急に照れ臭くなって目を伏せてしまった。
あんまり見つめられてしまったら、勘違いしてしまいそうだ。櫻子さんに悪いよ。
伏せた視線のまま、カップへ手を伸ばす。プリンと一緒に頼んだ紅茶はすっかり冷めていたけれど、カップの底で陽の光を受け琥珀色をキラキラさせていた。
眩しいな。紅茶の水面が眩しいのかな。ううん。きっと、隣に座る梶さんの眼差しが眩しいんだな。困ったな。気持ち、ちゃんと抑えないと。
冷たくなった紅茶のキラキラに目を奪われていたら、櫻子さんがやって来て梶さんに声をかけた。
「梶君。そろそろ時間だよ」
休憩時間の終わりを知らせに来たんだ。至れり尽くせりだね。梶さんには、櫻子さんがいる。二人の形はぴったりで、隙間なんてどこにもない。私の入る隙間なんて、一ミリだって、ない。