ある日、斎は七殿五舎のひとつ麗景殿(れいけいでん)へ向かっていた。漆の盆の上に、琵琶をひとまわり大きくしたような珍しい果物をいくつも乗せて運んでいる。後宮に住まう女御達に果物を下賜したい、と帝から遣いを頼まれたのだ。

「ごめんください。麗景殿の女御さまに、帝より下され物でございます」
「まあ、枸橘(からたち)の君だわ」
「ようこそいらっしゃいました。さあさあ、近くにお寄りになって」
「はい。失礼します」

 女房達に大歓迎されて、御簾を巻き上げて内へ招かれる。斎はその下をくぐり、麗景殿の部屋の中へ半身ほど入った。
 これは本来ならあり得ないことだ。女御自身はさすがに几帳(きちょう)の奥であるものの、帝の妃がいっぱしの武官と同じ空間にいるなどと。
 しかし斎は童殿上の頃から後宮に出入りしており、女房達にかわいがられていたのだ。その上斎が女であろうことは誰から見ても明らかだったので――この特別待遇が許されていた。

「こちらはいつ訪れても良い香りがしますね」
「ふふ、これは女御さまが特別に作らせた薫物(たきもの)なのですよ」

 女房が香炉の前を扇いで香りを送ってやると、斎はくんくんとうれしそうにそれを嗅ぐ。

「わぁ……。美しい薔薇(そうび)がまさに今(ほころ)んだみたいな、みずみずしい匂いがいたします」

 本来ならばここは一首詠んで表現するのがたしなみとされているが、女房達は斎の飾らない言葉を好ましいと思っていた。すると几帳の奥の女御が、女房のひとりに耳打ちする。

「枸橘の君にもこの薫物を分けてさしあげましょうか?」

 女御からの提案を、斎はあわてて固辞した。

「い、いえ! 私は男の身ですので……。あの、このような華やかな香りは不似合いかと……」
 
 あくまで男だと取り繕う様子が可愛らしくも滑稽(こっけい)で、女房達はくすくすと扇の下で笑った。麗景殿の女御はその様子を几帳の隙間から覗き見て、小さなため息をつく。

(あの殿上童の頃から可愛がっていた斎――枸橘の君が、実は女で。帝からの寵愛も深く、いずれ女御である自分の立場を脅かす存在になるかもしれないなんてこと、当時は想像もしなかったわ)