先帝が流行り病でお隠れになり、次代の花琉帝(かりゅうてい)の御世となってから五年。京全体で猛威を振るっていた病は終息を迎え、帝の善政により世はふたたび平穏と繁栄を取り戻していた。

「主上ーーーー!」

 帝のおわしどころである清涼殿に、鈴のような声が響いた。
 声の主はひとりの年若い蔵人(くろうど)(※天皇の秘書的役割を担う職)。深緋(こきあけ)の束帯に金鞘の太刀を()いた武官であるが、張り上げた声は凜と澄んで、顔だちは少女のように愛らしい。

「蔵人から報告の時刻にございます! 御座所にお戻りくださいませ!」

 帝を呼びつけるなど不埒千万(ふらちせんばん)であるが、この若者にはそれが許されていた。
 呼ばれるまま奥の御帳台から帷子(からびら)をめくってひょっこり現れたのは、二藍の御引直衣(おひきのうし)の紫が鮮やかな花琉帝である。光り輝くような美貌と言われているが、御簾(みす)が半ばまで下がっており臣下から顔は見えない。帝は優雅に紗の袖を返すと(しとね)へ腰を下ろす。

「やあ、(いつき)。ご苦労だね」

 いつき、と呼ばれた先程の蔵人が顔を上げる。「報告を聞こうか」と帝に促されると満面の笑みを見せた。

「はい! 本日は蔵人所(くろうどどころ)から鷹が逃げました!」

 開口一番、屈託のない調子で報告される不祥事。斎の遠慮も忖度(そんたく)もない口ぶりに、後ろに控えていた他の蔵人二名はのっけから心臓が止まりそうになった。

「へえ。それで私の鷹はどうなったんだい?」

 内裏で飼われている鷹は帝の持ち物である。御簾の下から覗く帝の口元から一瞬笑みが消えたので、後ろの蔵人達は恐れおののいた。しかし当の斎は萎縮するどころかドーンと胸を張る。

「ご安心召されませ。この(いつき)が! 左近の桜によじ登って無事捕まえましてございます!」

 内裏の正殿である紫宸殿(ししんでん)、その正面に植えられている左近の桜。これを折ったり傷つけることは大罪とされている。ましてやよじ登るなど――。
 しかし帝は愉快そうに声を上げて笑うだけだった。

「そうか、それは偉いね。では働き者の斎に褒美を取らせよう。――ほら、お前の好きな梅枝(ばいし)だよ。こちらへ来なさい」

 高坏(たかつき)に盛られていた唐菓子をひとつつまむと、手招きして御座へ呼び寄せる。斎は「ははーっ!」とおおげさに平伏してから膝行でにじり寄った。そして帝の手から直接、ぱくりとひとつ梅の枝を模した揚げ菓子を頬張る。

「左近の桜から見た景色はどうだった?」
「はっ、ちょうど葉桜が盛り……でございましたので、視界すべてが……もぐもぐ。青々として、むぐ。それはそれは良き心地にございました」
「そうか」
「はい! 主上にも、青葉の合間から日が差し込んできらきらと輝くところをお見せしたかったです」

 帝は梅枝をもうひとつつまんで、斎の小さな口に押し込む。

「お前は昔から木登りが得意だったね。だが身体が羽根のように軽いから、そのうちいずこかへ吹き飛んで消えてしまうのではないかと心配になるよ」
「まさかそのような! いつでも誰よりも主上のお側におりますのが、この斎めにございますれば!」

 次から次へと手づから菓子を与える様はまるで餌付けだ。斎がぽりぽりと栗鼠(りす)のごとく口に放り込んでゆく様を飽きもせず眺めている帝だったが、ややあってからようやく、あっけにとられている残りの蔵人達に声をかけた。

「他に報告がないのなら、お前達は下がって良いよ。――あ、鷹を逃がした鷹飼は始末書を出すように」