彼は怒っているみたいだったけれど、わたしはその場の和気あいあいとした雰囲気がけっこう好きだった。
 彼がひどいパワハラに遭っていたことを知り、何とかしなければという思いもあったけれど、せめて悠さんと三人でいる間だけは、空気抜きをしていてもいいのではないかと。

「……あ、そうだ。絢乃ちゃん、名刺もらっといていい? あと、キミ個人の連絡先も教えてもらえると助かるんだけど」

「ああ、そういえばまだお渡ししてませんでしたね。ちょっとお待ち下さいね」

 わたしは一旦席を立つと、自分のデスクの抽斗に入っている名刺ケースを持って、再び応接スペースに戻った。
 その中の一枚を取り出し、裏側に携帯番号とメールアドレスを書き込んでから、悠さんに差し出した。

「――お待たせしました! どうぞ」

「ありがとねー。コイツに何か変わったことあったら、連絡するよ。……あ、じゃあオレの連絡先も教えとこうかな」

 悠さんはお礼を言ってわたしの名刺を受け取られると、今度はご自分のリュックからメモ帳を取り出して、その場で携帯番号とメールアドレスを書いて下さった。

「絢乃ちゃん、会社とかでコイツのこと持て余すようなことがあったら、いつでもオレに連絡してね」

「オイ、兄貴っ! 勝手に俺をダシに使うなよ!」

「ありがとうございます。そうさせて頂きますね」

「かっ、会長ぉ!?」

 ニッコリ笑ってメモを差し出す悠さんと、それを笑顔で受け取るわたし。その間に挟まれた彼は、ひとりで吠えたりうろたえたりと忙しかった。

「――んじゃ、オレはそろそろ帰るわ。絢乃ちゃん、今日はありがとね」

 コーヒーカップを空にした悠さんは、四時半ごろに腰を上げた。滞在時間はざっと一時間弱、といったところだろうか。

「いえいえ。こちらこそ、ありがとうございました」

「うん。あと貢、コーヒーごちそうさん。美味かった。――お前も、たまには実家に顔出せよ? 近所に住んでんだからさぁ」

「分かってるよ。今度の週末、ちゃんと顔出すから。父さんと母さんによろしく」

「おう、伝えとく。――んじゃ、おジャマ虫はとっとと退散するとすっかな。見送りはここでいいから」

「うん……。っていうか、〝おジャマ虫〟って?」

 お兄さまの姿が見えなくなった後、彼はしきりに首を傾げていた。
 でも、わたしにはその言動の意味が分かっていた。「二人きりにしてあげるから、この機会にお互いの気持ちをキチンと確かめ合いなよ」という意味なのだと。
 悠さんは見た目こそ軽そうだけれど、彼に負けず劣らずの世話焼きらしい。そういうところはやっぱり兄弟だなぁと、わたしは思った。