「――絢乃会長、お疲れになったでしょう。とりあえず、お座りになってはいかがですか?」

「うん、そうね。ありがとう」

 わたしが彼の勧めに従って会長の席に着くと、彼はドアの側にある秘書席に着くことなく、わたしのところへやって来た。

 どうでもいいけれど、秘書になった途端、彼は急に他人行儀というか(かしこ)まった態度を取るようになったので、わたしはちょっと淋しかった。
 そんな心境が、顔にも顕れていたらしい。彼が少し態度を和らげてこんな提案をしてくれた。

「……あの、よかったらお父さまの葬儀の日のお約束、今日果たしましょうか?」

「えっ? 約束……って」

「絢乃会長、おっしゃってたでしょう? 僕が淹れたコーヒー、一度飲んでみたいって。今日頑張られたごほうびにといってはなんですけど、今からお淹れします。――えーっと、お味の好みは……」

 〝ごほうび〟という言い方が上から目線みたいだと思ったらしい彼は、気を遣いつつ言い直した。
 彼の方が年上なので、そんなことで気を遣う必要なんてないのに。彼は〝秘書〟という自分の職務に忠実でいたいらしかった。そういう不器用な真面目さが、わたしの胸をほんのり温かくしてくれた。

「ありがとう! じゃあお願いするわ。味は……、お砂糖とミルクを入れて甘めにしてもらえたら嬉しいな」

 火葬場の待合ロビーで、わたしがカフェオレを飲んでいたことを覚えていてくれた彼は、すぐに理解してくれた。

「ああ、なるほど……、了解です。では、少し――そうだな、十分くらいですかね。お時間下さい」

「分かったわ。楽しみに待ってるね」

 彼はそのまま会長室を離れ、給湯室へ行った。

「――パパ、さっきのスピーチ聞いてくれてた? わたし、ちゃんと株主のみなさんに会長だって認めてもらえたみたい。だから安心して見守っててね」

 ひとりになったわたしは、父が温めていた席に着いたまま、心の中で父に話しかけていた。
 父はもういないのに、不思議とこの室内には父の気配が感じられた。まだこの会長室内で仕事をしながら、わたしに笑いかけてくれているような気さえした。
 わたしが不安がっていたから、「お前なら大丈夫だ」とそっと背中を押してくれたのだろうか? ――父は今でも、わたしが何かに悩んでいたり、困っていたりすると、時々気配を感じさせることがある。

 ――コンコン。

 十分ほど経った頃、ノックの音が聞こえた。ちょうど、彼が言っていた時間ピッタリだった。

「はい! ドア開けるから、ちょっと待ってて」

 彼はトレーを持っているはず。そう思ったわたしはノックに大きな声で応答して、ドアの側へ駆け寄った。この部屋のドアは、外からはIDカードをスキャンしなければ開かないけれど、中からは普通に開けることができるのだ。

「――お待たせしました、会長。開けて頂いてありがとうございます」