トップシークレット☆ ~お嬢さま会長は新米秘書に初恋をささげる~


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 ――その後、わたしたちは充実したひと時を過ごした。

 里歩が差し入れてくれたフライドチキンやホットビスケットも食卓に並び、それらの料理を堪能(たんのう)した後は、わたし特製のクリスマスケーキ(白いホイップクリームとイチゴでデコレーションした)を切り分けてみんなで味わいながら、ゲームをしたり、クリスマスソングを歌ったりした。
 ケーキの評判は上々で、里歩も父も、そして甘いもの好きの彼もすごく喜んでくれた。

「――ねえ、あたしの気のせいかもしんないけど。このケーキってリキュール入ってる?」

「うん、香り付けにちょっとだけね。パパ、甘いものがあんまり得意じゃないから」

 父にも食べてもらうので、ケーキの生地に少しだけお酒を入れていた。とはいえ、焼いた時にアルコールは飛んでいたはず……なのだけれど。
 わたしはとっさに、彼が下戸であることを思い出した。

「ねえ、桐島さん。……リキュールの香り、気にならない? 酔っ払ったりしない?」

「大丈夫ですよ、コレくらいなら。美味しいです」

「ホント? よかった……」 

 父もすっかり楽しんでおり、死期が迫っている人にはとても見えないほど元気だった。

 余談だけれど、フライドチキンはみんな豪快にかぶりついていた。こういうものを食べるのに、お上品さなんて求めていられないのだ。

「絢乃さん、意外とワイルドなんですね……」

 油でベトベトになった口元をわたしが紙ナプキンで拭っていると、桐島さんがそんな感想を漏らしていた。

「だって、この食べ方が一番美味しいんだもん。お行儀悪くてもいいの」

「そうですか。なんか意外だったんで、ちょっとビックリしちゃって。でも、絢乃さんも普通の女の子なんですね。安心しました」

 彼はわたしの庶民的な一面を見て驚いてはいたものの、それで引いたという様子はなかった。
 思わぬところで彼の笑顔を目にして、わたしの胸はキュンとなった。父の命の()がもうすぐ消えそうだという時だったのに、わたしはなんて不謹慎な娘だったのだろう。

「――絢乃、外見て。雪降ってきたよ」

「えっ? ……あ、ホントだ。桐島さんもこっち来て来て!」

 里歩と一緒に窓の側で雪を眺めていたわたしは、彼を手招きした。

「このお家の中は暖房が効いてて暖かいですけど、外は寒そうですね……。スゴいな。東京でホワイトクリスマスなんて珍しい」

 雪はまだチラチラと粉雪が舞っているだけだったけれど、彼はそれを眺めながらそんなことを言っていた。

「――あの、ご挨拶遅れましたけど。あたし、絢乃の同級生で親友の中川里歩っていいます」

「ああ、絢乃さんのお友達ですか。初めまして。桐島貢と申します。絢乃さんがいつもお世話になってます」
 そういえばこの日が初対面だった二人が、今更のように自己紹介し合っていた。

「あー、いえいえ! それより、あたしには敬語なんていいですよ。あたしなんか、もうホントに普通のJKですから!」

「いえ。僕にとっては、絢乃さんの大事なお友達ですから。これからも絢乃さんのこと、よろしくお願いしますね、中川さん」

 わたしに対してだけでなく、わたしの友達である里歩にまで、彼は低姿勢だった。やっぱり、彼の謙虚さや腰の低さは生まれ持ったものなのだなとわたしは思った。

「はい、もちろんです! 桐島さんも、絢乃とお父さんのこと気かけて下さってるそうで……。このコの親友として、あたしからもお礼言わせて下さい。ありがとうございます」

 里歩に頭を下げられた彼は、「いえ」と言いながら自分も頭を軽く下げた。

「――この雪は、神様がパパに下さった最高のクリスマスプレゼントかもしれないわね……」

「うん、あたしもそう思うなぁ」

「ですねぇ」

 雪はいつの間にか本降りになっていて、薄っすら積もり始めていた。
 父が過ごす生涯最後のクリスマスに、何の因果か東京ではめったに降らない雪が降った。わたしがこの雪を「神様からの贈り物だ」と思ったのも自然なことだったのではないだろうか。

 もっとも、わたしの家族はみんなクリスチャンではなかったのだけれど――。 

「――絢乃。お父さんはちょっと疲れたから、先に部屋で休ませてもらうよ」

「はーい! パパ、ひとりで大丈夫? 部屋までついてってあげようか?」

「いいのよ絢乃。私がついて行くから、あなたはここでお客さまのお相手してて」

 わたしが父の方へ戻ろうとすると、母がそれを制止した。〝お客さま〟とはいっても、親友の里歩と彼だけだったのだけれど。

「うん、分かった。パパ、おやすみなさい」

「里歩ちゃん、桐島くん、悪いねぇ。私はこれで失礼するが、君たちはゆっくりしていきなさい」

「は~い! おじさま、お大事に」

「会長、ありがとうございます。お大事になさって下さい」

 父は母に付き添われて、少々力のない足取りで二階の寝室へ向かっていった。

****

「――わぁ、外真っ白だ! 絢乃、あたしそろそろ帰るねー」

 夜の八時半を過ぎ、クリスマスパーティーはお開きとなった。
 里歩は電車で新宿へ帰るため、わたしは彼女を駅まで送っていこうと思っていたけれど。

「ああ。いいよ。あたしひとりでも大丈夫だから! 絢乃はお父さんについててあげな」

「そう? ありがと。……じゃあ気をつけて帰ってね。また連絡するわ」

「うん。じゃあね、バイバイ絢乃。おやすみ~! ――う~~、寒っ!」

 ウェスタンブーツで積もった雪を踏みしめながら歩く彼女は、コートを着ていても寒そうだった。
 もしかして、彼女はわたしを彼と二人きりにしたかったのだろうか? 父についていてあげて、というのは建前で? ――と、その時のわたしはふと思った。

 そんな彼も、わたしがリビングに戻った時はすでに帰り支度を始めていた。

「――絢乃さん、おジャマしました。今日は楽しかったです。ありがとうございました。僕もそろそろ失礼します」

「えっ? 貴方も帰っちゃうの?」

 せっかく二人になれたのに……と、わたしが切ない気持ちになると、真面目な彼らしい気遣いで答えてくれた。

「はい。だいぶ長居してしまいましたし、会長もお疲れのようですし。僕は車なので、雪がひどくなる前に引き上げた方がいいかな……と」

「……そう」

 あのまま引き留めても、わたしのワガママで彼を困らせるだけだと思ったので、わたしはそこで引き下がった。

「――あ、そうだ」

 彼は玄関へ向かう廊下を歩いている途中で、見送るために後ろを歩いていたわたしを振り返り、ニコッと笑った。

「僕、あの後本当に車を買い替えたんですよ。今日もその新車で来たんです。絢乃さんもご覧になりますか?」

「えっ、いいの? ……待ってて! 部屋からコート取って来るから!」

「はい、ここでお待ちしてます。ゆっくりでいいですからね? 慌ててたら転びますから」

 彼の言葉の半分も聞かないうちに、わたしは急いで階段を駆け上がり、ウォークインクローゼットから普段使いのダッフルコートを引っぱり出して羽織ると、これまた大急ぎで階段を駆け下りた。

「き……、桐島さん……! お待たせ……っ!」

 息を切らし、ゼイゼイと肩で息をしたわたしを見て、彼は呆れたように笑った。

「ゆっくりでいいって言ったのに……。幸い、転んではいないみたいですけど」

「あ…………」

 こんなみっともない姿を好きな人に見られ、しかも笑われて、わたしはあまりの恥ずかしさに穴があったら入りたくなった。
 その時はわたしの顔は真っ赤で、(うつむ)いたまま顔を上げられないでいた。

「ああ、スミマセン。バカにしてるわけじゃないですよ? 絢乃さんの必死さがちょっと可愛いっていうか、微笑ましいっていうか」

「え……?」

 ……初めて聞いた。彼がわたしのことを「可愛い」と言ったのを。
 わたしは彼がどの女性に対しても、社交辞令であんなことを言うような男性(ひと)ではないと知っていた。心にもないことを言うような人ではないということも。
 でも、その時はまだ、彼がわたしに対して本当に好意を持っているのか分からなかったし、自分から確かめる勇気もなかった。 
「……すみません。今のは忘れて下さい。――行きましょうか」

 でも、彼は照れ臭かったのか、そう言ってはぐらかした。

「うん……。史子さん、わたし、彼を見送りに行ってくるわ。ママたちにもそう伝えて?」

「かしこまりました」

 ――わたしは、彼と並んで車庫へ向かって歩き出した。
 彼の方が明らかに脚が長いので、歩くスピードも当然彼の方が早いはずなのに、彼はわたしの歩幅に合わせて歩いてくれていた。
 そんな彼の気遣いや優しさに、わたしの胸はまた高鳴った。

「――これが、僕の新しい車です」

 大きなリムジンが五,六台は停められる広さの車庫の一画に停められていたのは、シルバーのセダン。彼の話によれば、車種は国産車の〈マーク(エックス)〉だという。ちなみに、これは今でも彼の愛車である。

「へえー……、スゴいわね! ホントに買ったんだ……。この車、いくらかかったの?」

 わたしはちょっと下世話かな……と思ったけれど、気になる金額について彼に訊ねてみた。

「えっと……、内装をカスタムした時にかかった分も含めて、ざっと四百万ですかね」

「四百万……。もちろんローンを組んで、よね?」

 わたしや母にとって、四百万円というのは大した金額ではないけれど(決してイヤミではなく、事実である)。彼はごく普通の会社員なので、この金額を現金(キャッシュ)でポンは考えにくかった。だから、これだけの大きな買い物ならローンを組んだと考えるのが自然である。

「はい。月々の支払い額は増えちゃいましたけど、絢乃さんに乗ってもらうためなら……と思えば全然苦になりませんよ。そのために、ちょっと給料のいい部署に転属することになってますし」

「……ねえ、その転属先の部署って、まだわたしには教えてもらえないの?」

「そうですね……、今はまだ。話せる時が来たら、ちゃんとお話しします。本当は……、来ない方がいいのかもしれませんけど」

「…………」

 悲しそうな表情で彼が答えるのを見て、わたしには何となくだけれど、彼の言ったことの意味が分かった。
 彼がわたしにその話をするのは、父がこの世を去ってからなのだと。

「――じゃあ、僕もそろそろ失礼します。絢乃さんも風邪をひかないように、早くお家の中に戻った方がいいですよ。お父さまのこと、よろしくお願いしますね」

 雪はさらに激しく降りしきっていた。これ以上積もったら、タイヤチェーンが必要になるくらいだった。

「うん、おやすみなさい。また……、連絡くれますか?」

「はい、もちろんです」

 彼はわたしに微笑みかけた後、運転席に乗り込んで、雪の中車をスタートさせたのだった。

****

 ――二人を見送った後、わたしは父が休んでいる両親の寝室へ足を運んだ。

「パパ、具合はどう?」

「絢乃か。里歩ちゃんと桐島くんは?」

「さっき帰ったわ。ちゃんとお見送りしてきたから」

「そうか」と言って、父はゆっくり体を起こした。わたしは室内のソファーからクッションを持ってきて、父の腰にあてがった。

「ありがとう」

「ううん。――ゴメンね、パパ。せっかくのクリスマスなのに、こんな時だから何もプレゼント用意してなくて……。どこか痛いところがあったら、さすってあげようか?」

 わたしにできる親孝行なんて、こんなことしかないけれど……。そう思うと何だか切なかった。

「ああ、いいのかい? じゃあ……、背中を頼む」

「分かった」

 わたしはゆっくりと、父の背中をさすってあげた。父はゲッソリ痩せてしまっていて、背骨のゴツゴツした感触がわたしの(てのひら)にダイレクトに伝わってきた。
 これが死期の迫った人の背中なのかと思うと、わたしの胸がギュッと締め付けられた。

「パパ、痩せたね……。ゴメンね、わたしが代わってあげられなくて……」

 泣きそうな声でわたしがそう呟いたのが、父にも聞こえていたらしい。

「絢乃、泣かないでくれ。お父さんは、お前のその気持ちだけで十分嬉しいよ。プレゼントなんかなくたって、お前がそうしてお父さんのことを思いやってくれてるだけで幸せだ」

「……うん」

 わたしは鼻をすすりながら頷いた。

「そうだ。お父さんから絢乃に、とっておきのプレゼントがあるんだ」

「うん? なぁに? プレゼントって」

「……お前の手に、グループの経営に関する全ての権限を(ゆだ)ねる」

「え……? それって」

「つまり、だな。――お前に、お父さんの跡を継いで、〈篠沢グループ〉の会長になってもらいたい。お父さんに残された時間はあとわずかだ。絢乃、後のことはお前に任せた」

「…………えっ!?」

 あまりのことに、わたしは言葉を失った。こんなの、あまりにも早すぎる。そう思った。

「これは、お父さんの遺言だと思って聞いてほしい。お母さんも承知してくれてるから、お前は何の心配もしなくていい」

「ママも……承知してるの? ……えっ? でも他の親戚の人たちは……」

 母方の親戚――つまり篠沢家の一族の中には、グループ企業の役員を務めている人たちも少なからずいる。
 彼らは祖父が引退した時に母ではなく、父が会長に就任したことを快く思ってはいなかったらしい。とすれば、彼らの(ほこ)先がわたしに向けられるだろうことも、父には予想できたはずだった。
「それも心配ない。お母さんはこの一族の当主だ。お前が言えないことも、お母さんならガツンと言ってくれる。お母さんが守ってくれるから、安心していい」

「うん……」

 母は経営者でこそないものの、この篠沢家本家の当主である。その権力は絶大だし、他の親族をも黙らせられるだけの発言権と決定権を持っているのが強みだ。

「絢乃、サイドテーブルの抽斗(ひきだし)を開けてごらん」

「はい。――これって……」

 わたしは抽斗から取り出した封筒を凝視(ぎょうし)した。父が書いたと思われる、遺言状だった。

「それは、弁護士立ち合いのもとで作成した公正証書遺言だ。もちろん、法的に有効なもので、お父さんと弁護士の先生とで同じものを一通ずつ持ってる。それを見せれば、反対勢力も何も言えんさ」

「パパ……」

 彼らだって、いくらわたしの会長就任に反対でも法律まで敵に回したりしないだろう。そう父は言って笑った。

「そこに書いてある内容は、さっきお前に話したこととほぼ同じだ。グループの経営に関することは、一切(いっさい)を絢乃に一任する。グループ企業の土地や建物、株式はすべてお前に譲渡する。あと、お父さん個人の貯金などの財産は、お母さんと半分ずつ相続させる……とかな」

「ママは……、経営には関わらないってこと? お金だけ相続して?」

「お母さんは、それでいいって言ってるよ。この家や土地は元々お母さんの持ちものだし、お母さんがお前のお祖父(じい)さんから相続した財産もあるから、って。お父さんの財産だって、半分だけでも何億もあるからな」

「そう……」

 父の遺言は、わたしの想像を遥かに超える内容だった。そして、〝財閥会長の後継者〟というわたしの立場を改めて強調する内容でもあった。十代の女の子が託されるには重すぎる重責を、わたしは託されたのだ。

「お前には責任が重すぎるかもしれないが、お前はひとりじゃない。ちゃんと助けてくれる人がいる。……どうだ? できそうか?」

 父はわたしの目をまっすぐ見つめて問いかけた。
 本当は自信なんてなかったし、わたしには荷が重すぎると思った。けれど、父の跡を継げるのはわたししかいないということも、また事実だった。

「……うん、自信はないけど。わたし、精一杯やってみる」

「そうか! よかった。それを聞けて、お父さんは安心したよ。これで心置きなく旅立てる」

「…………」

 わたしの返事を聞いて、満足そうに顔を綻ばせた父。それまでこらえていた涙が、わたしの両目からポロッと(こぼ)れ落ちた。

「絢乃。……お父さん、ちょっと疲れたな。もう寝るよ。おやすみ」 

「……うん。パパ、おやすみ……」

 泣きじゃくりながら挨拶を返し、わたしは両親の寝室を出た。もしかしたら、父はこのまま目覚めないのではないかと、本気で覚悟した。
 母と史子さんにも「おやすみ」を言うため、わたしは慌てて涙を拭い、階下に下りた。
 それでも、涙は次から次と頬を伝い落ちた。リビングに着いた頃には、もう二人に「おやすみ」すら言えないくらい泣いていた。

「――絢乃!? どうしたの一体! そんなに泣いて……」

 わたしの泣き顔を目の当たりにした母は、血相を変えてリビングの入り口にいたわたしのところへ飛んできた。
 史子さんも何が起きているのか理解できずにオロオロしていた。

「お……っ、お嬢さま!? どうなさったんです!?」

「ぱ……パパが……、ゆいご……遺言じょ……っ! わた、わたしに遺言状書いたって……っ! わたしに……、後のことは任せたって……」

 わたしはしゃくりあげながら、父との間に起こったことを一生懸命母に伝えた。

「パパ、もう寝るって言ってたけど……。もう二度と目覚めないかも……。もうダメなのかも……。だから、わたしにあんなこと……!」

 そのままわたしは母の胸に飛び込み、(せき)を切ったようにわぁっと泣き出してしまった。

「ちょっと落ち着いて、絢乃! パパは大丈夫! 大丈夫だから……」

 母はそんなわたしの背中をあやすようにさすりながら、「大丈夫、大丈夫」と何度もわたしに言い聞かせてくれた。

「絢乃……、今日までよくガマンしたわね、偉い偉い! つらかったわね。もうガマンしなくていいから、思いっきり泣きなさい」

 母は分かってくれていたのだ。わたしがそれまでずっと泣くのをガマンして、努めて明るく振舞っていたことを。その裏に、抱えきれないくらいの悲しみが潜んでいたことも。

「――もう、落ち着いた?」

 数分後、目を真っ赤に泣き腫らしたわたしに、母が訊いた。

「うん……。ゴメンねママ、もう覚悟はできてたはずなのに。いざ現実を突きつけられたらもう、緊張の糸がプツンと切れちゃって……」

「ええ、分かるわ。ショックよね。『遺言状』なんてリアルな話を聞かされたら」

「ママもホントに知ってるの? 遺言状の内容」

「もちろん知ってるわよ。私とも相談したうえで、あの遺言状は作成されたんだもの」

 父の言っていたことは本当だった。母もあの内容に納得していたのだ。

「だから大丈夫よ、絢乃。ママはあなたの味方だから。里歩ちゃんも、桐島くんもね」

「桐島さんも?」

 なぜそこで彼の名前が出てくるのか、わたしは首を捻るばかりだった。
 けれど、わたしには心強い味方が三人もついているのだと思うと、何だか気が楽になった。
 だからこそその時、本気で覚悟を決めようと思えたのかもしれない。
 ――父が息を引き取ったのは、新年を迎えてすぐのことだった。

 クリスマスイブのあの夜から容態は一度持ち直したけれど、年の瀬も押し迫った十二月二十九日あたりからまた悪化し、最期は家のベッドに横たわったままで眠るように旅立っていった。

「――加奈子さん、絢乃ちゃん。この度はご愁傷さまでした。私もショックですよ。まさか井上(いのうえ)が、こんなに早く逝ってしまうなんてね……」

 父を婿入り前の旧姓で呼んだ主治医の後藤先生も、ショックを隠し切れない様子だった。

「私の力不足でこんなことになってしまって、お二人にはどうお詫びしていいのか……。本当に申し訳ありません」

「後藤先生、頭を上げて下さい! 夫が亡くなったのは誰のせいでもないんですから」

 憔悴(しょうすい)しきってわたしたちに頭を下げた彼を見かねたらしい母は、慌てて彼を慰めた。

「そうですよ、先生。父は幸せだったと思います。だって、お友達の後藤先生や、わたしたち家族にちゃんと最期を看取ってもらえたんだもん。きっと……、これでよかったんです」

 わたしも、涙声になってそう言った。もしかしたら、「これでよかったんだ」と自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。
 悲しくなかったわけじゃない。でも、悲しんでいたって父はもう戻ってはこないのだ。だからたとえカラ元気でも、前に進むしかないのだと。

「……そうですね。もしあなた方に恨まれたらどうしようかと心配で。でも、絢乃ちゃんの言葉で僕は救われました。ありがとう」

「……はい」

 後藤先生は、わたしにしきりに感謝していた。でも、彼に感謝していたのはむしろわたしたちの方だった。恨むなんてとんでもないと思っていた。

「――パパ、今まで楽しい思い出をいっぱいありがとう。もう疲れたよね……。後のことはわたしやママに任せて、天国でゆっくり休んでね……」

 わたしは永遠の眠りについた父に、泣きながらそう語りかけた。「さよなら」なんて悲しすぎるので、それだけは決して言わなかった。

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 父の葬儀は、都内の斎場(さいじょう)の一番大きな一室でしめやかに営まれた。〈篠沢グループ〉には結婚式場はあるけれど、葬儀社だけはないのだ。

 葬儀は一応〝社葬〟という形を取っていたけれど、会社の関係者ではない――むしろわたし個人の関係者である里歩も参列してくれた。

「絢乃……、大変だったね」

 ダークグレーの大人っぽいワンピースが、黒のボブカットで長身の彼女によく似合っていた。

「里歩、来てくれてありがと。パパもきっと喜んでくれてると思う」

 黒のフォーマルワンピースで彼女を出迎えたわたしの目に、もう涙はなかった。もう()れてしまっていたし、泣いている暇なんてなかったから。
 そんなわたしの様子に気づいていた彼女は、親友らしい気遣いを見せてくれた。

「アンタさぁ、またムリに突っぱってるでしょ」

「……えっ? そんなことないわよ」

「お父さんのことは何て言うか、ホントに残念だったと思う。アンタ一昨日(おととい)、お父さんが亡くなった後に大泣きで電話してきたじゃん。肉親失った悲しみっていうか心の穴って、一日二日で埋められるものじゃないでしょ? だったらそんな悟り開いたような顔してないでさ、もっと泣いたらいいんだよ。まだ子供なんだし」

 彼女の言ったことはもっともだった。わたしはまだ十代の子供で、父親を亡くしたばかり。もっと周りに甘えて、泣いてもよかったのだと思う。
 でも、わたしはそれと同時に、〝財閥の後継者〟――つまりは大きな組織のトップに立つ人間でもあった。一番上がこんなに不安定だと、下の人たち(という言い方はあまり好きじゃないのだけれど)も不安になるから、せめてわたしだけはドッシリ構えていなければ、という気持ちもあったのだ。

「うん、ありがと里歩。気持ちは嬉しいんだけど、ゴメン。わたしがいつまでも泣いてるワケにはいかないの。この先わたしについて来てくれる人たちを、不安にさせたくないから」

 わたしが組織のトップとしての覚悟を語ると、里歩も「そっか、そうだよね」と、分からないなりに納得してくれた。

「でも、あんまりムリしちゃダメだよ? あと、気落とさないでね」

「うん、分かった。ありがとね」

「――しっかしまぁ、仰々しいお葬式だぁね。参列者の顔ぶれだけでスゴいんじゃないの?」

 彼女は式場の中をぐるりと見回して、目を丸くした。

「……ね、スゴいでしょ? だから、わたしも泣いてるヒマないのよ」

 わたしは彼女に肩をすくめて見せた。

 〝社葬〟というだけあって、当然ながら〈篠沢商事〉を始めとするグループ企業の社員や役員の人たちは大勢参列していた。その中には彼――桐島貢の姿もあった。

 そして、母方の親族である篠沢財閥の人間も来ていた。正確にいえば、母も祖父の一人娘だったので、祖父の弟たちの子供や孫やといった分家の人たちで、この人たちの中にも全国にあるグループ企業や支部の役員を務めている人たちが何人かいるのだ。

 ただ、父方の親族である井上家の親戚はアメリカに移住していたため、残念ながらひとりも参列できなかった。
 わたしとしては、父のお兄さんである伯父(おじ)だけでも来てほしかったのだけれど……。
 彼は父の死をメールで知らせると、「本当にショックだ。帰国できなくてすまない。加奈子さんにもよろしく伝えてほしい」とすぐ返事をくれた。