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 ――家の玄関を上がると、スリッパに履き替えるのさえもどかしかったけれど、どうにか気持ちを落ち着かせて靴を履き替え、リビングへ飛び込んだ。

「ただいま! ――パパ、具合は……」

「おかえり、絢乃。お父さんは今のところ、何ともない。それより、お前の方が顔色がよくないぞ」

 父は明らかに強がっていた。そして自分の体調よりも、娘であるわたしの精神面を気遣ってくれていた。

「お母さんから聞いたんだろう? お父さんが末期ガンで、もう長くないと」

「うん……。パパも、告知されたの? 余命宣告も?」

 ガンを(わずら)った患者本人に、医師が直接病名や余命を告知することはあまりないらしい。治療に専念してもらうためなのだとか。
 なので、本人に席を外してもらうか、別室へ家族を呼んで病名や余命を伝え、家族から患者本人に伝えてもらうのが一般的らしいのだけれど。

「ああ。後藤はお父さんの性格を知り尽くしてるからな。下手に隠しごとはできないと思ったらしい」

「そうなの……。でも、ショックじゃなかった? 自分の死期がすぐ近くまで迫ってるなんて」

 わたしなら、到底受け入れられないだろう。いくらその医師が友人であっても、その言葉を信じられなかったと思う。
 でも、父はそれを受け入れた。それは友人である後藤先生との信頼関係からなのか、それとも潔い父の元からの性格からだったのかは、今となっては分からない。

「……そうだな。ショックじゃなかったといえばウソになるが。それでも隠されているよりは、正直に話してもらった方が、お父さんはむしろホッとしたな」

「どうして?」

 自分がもうすぐ死ぬと分かったのに、父はどうしてホッとしたのだろう? わたしは首を傾げた。

「それなりに覚悟ができるから、かな。死期が近いと分かったら、その分一日一日を大事に生きようと思えるし、お前とお母さんに遺言を遺すこともできるから」

「遺言、って……」

 その言葉はあまりにも重くて、わたしの胸はギュッと締め付けられた。
 そして、病を宣告された本人である父の落ち着きと、自分のことのように取り乱している自分自身との落差で、わたしの頭の中は混乱していた。

「……ママ、ごめんなさい。わたし、部屋にいるから。勉強しなきゃいけないし、一人になって頭を冷やさないと」

 父と母の前では泣けない。誰よりもその事態にショックを受けていたであろう両親の前で、当事者でもないわたしが泣くわけにはいかなかった。
 泣くなら自分の部屋で、一人になって思いっきり泣きたかった。