バスタブにお湯を張っている間にメイクを落とし、ドレスから部屋着のワンピースに着替えると、わたしはバッグからスマホを取り出した。
 母から来たメッセージ以降、着信も受信したメールもメッセージもなかった。……彼からも。

「――あ、そうだわ。桐島さんに連絡してみよう」

 わたしから男性に連絡するのは初めてのことだったけれど、彼は唯一父の病院受診をわたしにアドバイスしてくれた人だし、せっかく連絡先も交換したのだから……と、わたしは緊張と闘いながらスマホを操作した。

『――はい、桐島です』

「あ……、絢乃です。さっきはありがとう。――あの、今、大丈夫かしら?」

『はい、大丈夫ですよ。もう自宅ですから』

「……そう」

 わたしはホッと胸を撫でおろした。彼がゆっくり話を聞ける環境にいてくれたから。

「あのね、早速パパに話したの。『一度、病院で検査を受けたら』って。とりあえず貴方の名前は伏せたけど、社員の人が助言してくれたって言って」

『そうですか。別に、僕の名前を出して頂いてもよかったんですけど。多分お父さまは、社員全員の名前と顔を覚えてらっしゃると思いますから』

「えっ、そうなの? 知らなかった」

 わたしは本当に、父の記憶力の高さに舌を巻いた。
 〈篠沢グループ〉の社員の数は、全体で一万人以上。本社だけでも千人はいる。その全員の顔と名前を覚えていたなんて、父の記憶力には恐れ入る。わたしはまだ、その域には達していないから。

『実はそうらしいんです。絢乃さんはご存じなかったんですね』

「ええ……」

 父は仕事の話を、家ではあまりしてくれなかった。
 組織のトップということは、社員一人一人の個人情報も握っているということ。真面目な父は、それを家族に対してとはいえおいそれと話してはいけないと思っていたのだろう。

 わたしには、幼い頃から「経営者っていうのはな……」と、上に立つ者のノウハウを色々と聞かせてくれたのに。

『――で、どうでした?』

 彼自ら、脱線した話を元に戻してくれた。

「あ、うん。早速明日、大学病院でお友達の内科部長さんに診てもらうことになったって。わたしも付き添って行きたかったんだけど、『学校があるでしょ』ってママに止められちゃった」

『そうなんですか……。絢乃さんもお父さまのことご心配でしょうけど、お母さまはあえて心を鬼にして、そうおっしゃったんだと思います。ですから、お母さまのことを恨まないで差し上げて下さいね』

「それは……、わたしだって分かってるけど……」