サラの後ろでカタリと音がした。

上客が入ったと報せを受けた座長が様子を見に来たのだろう。

座長は奇術の館で働く者達の仕事を事細かに観察する。そして少しでも失敗があったりすると手にした鞭で容赦なくぶつ。

中にはそれを面白がる客がいるのだから困ったものだ。

特に金を持った男たちは、か弱い娘が痛ぶられるのを見るのを喜ぶ。

サラにとっては前門の狼後門の虎。

それでもこれは仕事なのだ。やらなければ鞭打ち。失敗しても鞭打ち。

必死に呼吸を整えながら客の男に向き合った。

「そうだな。まずは今日から向こう三日間の天気、それから昼飯をとるのにいい店、闘牛の勝敗でも占ってもらおうか」

なんだそれは。サラは心の中でそう呟いてから商売道具の小さなナイフを手にとった。

眉間に皺が寄っているのは鏡を見なくても分かる。

軽く唇を噛みしめ、指先にナイフの刃を当てる。

質問は三つ。いや五つ。水盤に指先から赤い血を滴らせる。質問の数だけ血が必要だ。

緊張のあまりナイフが深く指先にくい込む。

思った以上に血が流れた。

それでも焦らず水盤に目を落とす。

目の前の男も水盤を覗き込むように身を乗り出した。高級そうな香の香りがふわりと漂いサラは集中を乱されそうになった。

水盤には天気の移り変わる様がぼんやりと映し出される。男にはただサラの血が水に溶けていく様子が見えているだけだろう。

「昼間は持ちそうですが夜から雨になります。明日も明後日も」

ひとつ目の質問にはさらりとそう答えた。

「お昼は……」

そんなもの好きに選べばいいでしょ、とまた心の中で毒づく。

「サルマンホテルで魚料理を」

水盤にそう出たからには内心とは裏腹に微笑んでそう告げる。

最後は闘牛の勝敗。

そこにはただ赤く揺らめく水が見えるだけだった。

「闘牛の勝敗はどうだ」

なかなか最後の質問に答えないサラに男が重ねて問うてくる。

背後では座長が鞭を強く握る音が聞こえる。

こういった質問は当たり外れが明確に分かる。それだけに下手にごまかすこともできない。

サラはナイフをもう一度指先に当てた。

あまり大きな傷を作りたくない。けれど鞭よりはマシだ。ちらりと男の表情をうかがえば、入ってきた時よりもその目が輝いているように見えた。

サラの占いに期待している。闘牛には金をかける。ここでサラの占いが当たれば男は大儲けをするが、外れれば金を返せと怒鳴り込んでくるかもしれない。

この男はそんなことをしそうには見えないが、今までの客はみなそうだった。

ピシリと鞭が鳴る。

失敗を許さないといわんばかりに無言の圧力をかけてくる座長には辟易する。

サラは一度目を閉じ心を落ち着かせようと努めた。

目を開いた時、サラの目に見えたのは男の苦しげな表情だった。

水盤から目を上げると男は涼しい顔でサラを見ている。

水盤の中の男は苦しげに眉根を寄せ、目をきつく閉じている。

果たしてこれはどういうことだろうか。

「もし、何か他にお悩みがあるのではありませんか」

サラがそう問いかけると、男は驚いたように眉をはね上げた。

「何故そう思うのだ」

「それは、……苦しげなお顔が見えるからです」

男はサラの言葉を聞くと無言で立ち上がった。

何も言わず出口へと足を向ける。

サラのふくらはぎをピシャリと鞭が打ち付けた。

「キャッ」

痛みに思わず声を上げ机に手をついた。水盤が揺れ水がこぼれる。

立ち去りかけていた男が足を止め、サラを振り返った。

助けてなど言えない。むしろさっさと出ていって欲しい。客が見ている間中、座長はサラを鞭打ち続けるのだから。

座長の手がサラの髪を掴んで引っ張る。客に顔がよく見えるようにあえてそうしているのだ。そして机に体を押し付けると汚い言葉を浴びせながら何度も鞭を振り上げる。

サラは目を閉じて痛みをやり過ごそうと歯を食いしばった。けれど二度目の鞭は襲ってこない。

目の前には男の高級そうなシャツと、その形が男の鍛えられた腹筋を浮き彫りにしている様子だけが見えていた。

「女に鞭を振るうな」

「こ、これはお客様お見苦しいところをお見せし申し訳ありません。ですがこれは当店の決まりでして。お客様の御要望にお答えできない占い師には罰を与えるのが私の仕事なのです」

「要望には十分答えてくれた。罰は必要ない」

「ですが闘牛の勝敗が」

「客がいいと言っているんだ」

「それならば……」

座長は残念そうに鞭を持った手を下ろした。男は私を一瞥し、まるで自分が鞭に打たれたかのように痛そうに眉をしかめた。

「他の方法で占いは?」

男がサラに問うた。他の方法、水盤占い以外にも石で占う方法もあるにはある。あまり精度が良くはないがサラは頷いた。

「ならば後でサルマンホテルへ来てくれ。血はもう見たくない」

男はもうサラを見ることなく部屋を出ていった。

「男のクセに血に弱いだって? 呆れた優男だ」

座長の呟きに「あんたより百倍マシだけど」とサラは心の中で叫んだ。

まさか聞こえたわけではないだろうに、二の腕を鞭が走った。

叫びそうなのを堪えて歯を食いしばる。悲鳴を聞くのが好きな変態に聞かせるのはごめんだ。

「客を待たせるなよ」

男が置いていった袋にはぎっしりと銀貨が詰まっていたようで、座長はご機嫌で部屋を出ていった。

サラは大きなため息を吐いて乱れた髪をかきあげた。

さっきの客はかなり好みのタイプだった。いまだに胸がドキドキするほどに。

見下ろした水盤の中では男がやはり苦しげにもがいている。こんなことは初めてだった。闘牛の勝敗を占ったはずなのに、男の未来を占ってしまったのだろうか。