マチルダに言われたとおり、サラは仕事帰りに銀行に向かった。

「銀行に自分の口座を持つことになるなんて夢にも思っていなかったわ」

サラは真新し通帳を胸に抱いて領主の館を振り返った。

探していた建物にやはり間違いない。明日手鏡を持ってきてマチルダに写真を見せてみよう。サラはそう決意すると、ソマン川の方に向かって歩き出した。

マチルダがソマン川に定期船があることを教えてくれたのだ。ザダの門まで船に乗れば二十分ほどで奇術の館に帰れる。

船で通っている使用人もいるとのことで、朝の時間にも船が出ているとのことだった。

しかも領主の館に勤めている使用人はこの船の利用が無料なのだという。

「領主様って本当に優しい方なんだわ」

サラはまだ顔を知らない領主のことを想像して心の中でお礼を言った。

船着場の手前でふと小さな店が目に入った。

この辺りはチェンバーズ銀行を始め、高級ブティックや家具店などが建ち並ぶ地域だ。どこも大きなガラスで仕切られていて、とてもサラには入る勇気が出ないような店ばかりだった。

看板には「ハイディ雑貨店」とあり、店先に花や陶器の小物が並んでいる。

サラは興味をひかれて店に足を踏み入れた。

その看板の名のとおり、店にはハイディがいた。

「サラ! どうしてここが分かったの? 良いところに来たわ。一緒にお茶でも飲みましょう」

店の中には様々な雑貨が置かれていた。どれも女の子が喜びそうな花や動物の模様が入った小物ばかりだ。

サラが店内を見ていると、ハイディがおすすめの商品を説明しながら奥のテーブルへと案内してくれる。

「このハンカチは今人気なの。こっちのレターセットも可愛いでしょ」

「ハイディがこの店の店主なのね?」

「そうよ。半分趣味でやってるようなものだけどね」

「でもこの辺りってすごく土地代も高いでしょ?」

「ああ、うちのパパはチェンバーズ銀行の頭取なの。私には兄がいるから銀行は兄が継ぐでしょ。私はただ嫁に行くだけ。でもそんなのつまらないでしょ」

チェンバーズ銀行の頭取の娘ならハイディは正真正銘この街一番のお嬢様だ。領主様との結婚を望むのも頷ける。

そもそも占いに頼る必要などないのではないだろうか。

店はひとりでやっているのか、他に人の姿は見えない。ハイディは嬉しそうに茶器を選びお湯を沸かし始める。

「どのお茶がいいかしら。サラは何が好き?」

ハイディの向こうには棚にたくさんの種類の茶葉の缶が並んでいる。

見ているだけでも楽しくなるような可愛いらしいパッケージに、サラも何かひとつ買って帰ろうと考えながら、ふとせっかくハイディに会ったのだから預かっている小箱について話しておかなくてはと思い出した。

「ハイディ、あの箱のことだけど」

「何か分かったの?」

「中に何かいるみたいなの。もし良くないものだとしたら何が起こるか分からないわ。今夜占ってみようとは思ってるのだけど」

「分かった。私も行っていい?」

「もちろん」

サラはハイディの店で紅茶と手帳を買うことにした。チェンバーズ銀行では口座開設の記念品としてペンがもらえた。

仕事の内容や何かをメモするのに手帳も欲しいと思っていたところだったのだ。

「そういえば、サラは何故ここに?」

「あ、実はね……」

サラは領主の館でメイドとして働くことになった経緯をハイディに話した。

「まぁ、なんて素晴らしいの、サラ! おめでとう」

ハイディはサラの手を握りながら喜んだ。

「領主様と結婚したら私の専属メイドになってね!」

ハイディは気取らず明るい性格だ。ハイディのもとで働くならきっと楽しいだろう。

それでも何故かサラはきっとそんな日はこないだろうと予感していた。

これまでも一所に長く留まったことはない。母の行方に関する手掛りが掴めたら、サラはまたこの街を出て行くことになるかもしれない。

サラのバッグにしまわれた通帳も、いくらも貯まらないうちに解約することになるだろう。

それはサラの中に小さな不安を呼び起こす。

無邪気な笑顔で喜ぶハイディから、サラはそっと目を逸らした。


ハイディは早々に店を閉め、二人は定期船に乗って奇術の館に向かった。

サラは占い部屋に戻ると早速占いの準備を始める。念のため床に守りの魔法陣を描いた敷物を広げ、その中央に小箱を置いた。

分厚い布で仕切られた室内は昼でも暗い。

いくつかの蝋燭を灯し、水盤を用意する。その間ハイディはキラキラと目を輝かせながらサラが動くのを見ていた。

「では始めますね」

サラが椅子に座りナイフを手にとる。指の腹に刃先を当て力を込める。軽く引くと水盤の上に血が数滴滴り落ちた。

蝋燭の光を映しこんだ水面にゆらりと赤い模様が広がっていく。

サラは小箱をチラリと見た。

あの箱が開いた時何が起きるのか。

水面に目を戻した瞬間、その奥に何かが動くのが見えた。じっと目を凝らすと、次第にそれが形を現す。

黒い鳥のようなものが見えた。

ぐるぐると箱の中を飛び回っているようだ。

近くには箱の中を除きこんでいる自分の姿ともうひとり男性の姿が見える。

やがて箱の中から黒い鳥が飛び出してきた。今にも水面から飛び出しできそうに見えたが、そこにガラスの板があるように鳥は弾かれて箱の中に戻った。サラの占いでは音は聞こえない。

けれどその時サラの耳には声が聞こえていた。

『助けて! ここから出して』

甲高い子どものような声が必死に叫んでいる。

魔法陣の中に置いてある小箱がカタカタと揺れ、それを見たハイディがキャーと叫んで立ち上がった。

その時入り口の幕が開いて誰かの声がした。

「どうした、大丈夫か?」

外で待っていた客がハイディの悲鳴を聞いて駆け込んできたようだった。

「グレン……?」

サラも思わず立ち上がっていた。そして薄暗い部屋に差した光を背に立つ人物を驚きながら見ていた。

「失礼、悲鳴が聞こえたものだから。怪我は無いようだな」

サラとハイディを見比べ、安全を確認するとグレンはすぐに外に出ていった。

サラはすぐに後を追いかけたかったが、ハイディがいるのでそうもできない。

どうにか心を落ち着かせて椅子に座ると、驚いて立ったままのハイディに座るよう促す。

「ねぇ、今のって……」

ハイディは呆然としてそう呟きながらサラを振り返った。

「私、行かなくちゃ。サラ、ありがとう。またね」

ハイディはそう言うと慌てて出ていってしまった。

まるで嵐が去ったあとのような気分でサラは入り口を見つめていた。



「お待ちください」

ハイディは今の男を追いかけていた。

「何か用か?」

グレンは立ち止まってハイディを振り返った。もちろんチェンバーズ銀行の頭取の娘ハイディであることは知っているが、直接話したことはない。

「あの、領主様、でいらっしゃいますよね?」

ハイディは胸の前で両手を組み合わせグレンを見上げている。

「こんなところでお会いできるなんて……」

「人違いですよ。占いの邪魔をして申し訳なかった」

グレンは素っ気なくそう言って踵を返した。それでもハイディは慌ててグレンの前に回り込み行く手を遮った。

「何かご事情がおありなんですね。分かりました。領主様がここにいたことは内緒にいたします。あの、サラとはお知り合いなんですか」

「君は?」

「私はハイディと言います。サラとはその……。もしかしてサラから私のことを何か聞いていらっしゃいます?」

「いや、何も」

ハイディは落ち着かない様子で占い部屋を振り返った。

そんなハイディの様子を観察しながら、グレンはハイディを追い詰めるように壁に手をつき、ハイディを間近に見下ろした。

狭い通路に占いにやってきた客がふたりを訝しそうに見ながら通り過ぎていく。

グレンは互いの顔を見られないようそうしたまでだったが、ハイディは今にも倒れそうなほど息を詰め緊張している様子だった。

「サラは領主の顔を知らない。余計なことは言わずにおいた方が身のためだ」

グレンはまだサラに自分の正体を知らせるつもりはない。

サラだけでなく、街の住人たちにもお忍びで歩き回っているところを知られるわけにはいかなかった。

ハイディはグレンの端正な顔がすぐそばにあるのを見て、心臓がどうにかなってしまいそうほどドキドキしている。

グレンの態度は紳士的とは言えない。とはいえ、こんな所で互いに身分を隠したままではそれも仕方ないと思えた。

最初の出会いとしては良い出会い方とは言えいけれど、この機会を逃す手はない。

息を吸ってグレンを見上げ、笑みを浮かべる。

「分かりましたわ。ここで会ったのが領主様だということは伏せておきましょう。その変わり」

グレンはハイディの持ち出した交換条件に眉をひそめた。


飛び去るように奇術の館を後にしたハイディは、登りの定期船の中で恥ずかしさに身悶えていた。

「ああ、なんであんなこと言っちゃったのかしら。あれじゃあまるで領主様に宣戦布告したようなものだわ。それもサラを取り合う恋のライバルみたいに」

「誰を取り合うだって?」

誰かに独り言を聞かれていたらしく、ハイディは振り返ってその人物を確認すると大袈裟にため息を吐いた。

「アシュリー、驚かさないでよ」

「いったい誰に何を言ったって?」

「あなたに教えるつもりはありません!」

「サラの名前を聞いたってのに黙っていられるかよ」

「ま、まさかあなたまでサラを狙ってるっていうの?」

「狙ってるって、人聞きの悪い。目をかけてるんだ。売れっ子占い師にな」

「分かった! あなたが領主様のお屋敷の仕事を紹介したのね?」

「そうだ。悪いか?」

「いえ、お手柄よ」

「で、なんて言ったんだ、領主様に」

「サラは私のだから手を出さないでって。だって領主様と結婚したら私の専属メイドになってねって話してたところなのよ。つい先走ってしまっても仕方ないでしょ」

「あ〜、それで恋のライバルね」

アシュリーは肩を震わせて笑いを堪えている。

「それはハイディこそお手柄だ。よく言った」

「どういう意味よ」

「そのままの意味だ」

アシュリーはハイディの頭を撫でてニンマリと笑う。ふたりは幼なじみだ。アシュリーの方が年上で、小さな頃からハイディを妹のように可愛がる一方、散々にからかってきた。

「そういえばアシュリーは領主様のいとこだったわよね。この話を領主様にしたらタダじゃ置かないからね」

腕を振り上げるハイディにアシュリーは両手を上げて体を反らせた。

ひとつ目の船着場に着いたのか船が少し揺れた。バランスを崩したハイディの腕を掴んで支えると、ふとハイディが顔を曇らせた。

「アシュリー、サラの様子を見てきてくれない? 不気味な箱をサラに預けたまま飛び出して来ちゃったの」

「不気味な箱?」

「詳しいことは今度話すわ。ほら行って」

背中を押されアシュリーは船を降ろされた。

「お願いね」

船の上から手を振るハイディに答えてアシュリーは下りの船に乗り換えた。


ハイディが立ち去った後、グレンはそのまま帰るかサラの占い部屋に行くか悩んだ。

二日前に来たときにもサラには会えなかった。会えないとなると余計会いたくなるものだ。

早く帰らないとエドニーに散々小言を言われた挙句に当分外出禁止を言い渡されそうだ。領主の仕事は思った以上に忙しい。

「グレン」

呼びかける声に振り返ったなら、一瞬にして気持ちはサラとの時間に傾いた。

「やぁ、サラ。今日の占いはもう終わりかな?」

「あ、いえ、ちょっと気になることがあって……」

「どこかへ行くのか?」

占い師の格好ではなくシンプルなブラウスとスカート姿のサラを見てグレンはそう尋ねたが、サラは曖昧に笑って左右に首を振った。

「いえ、いいの。それよりあの後ローブの人物は見つかった?」

リリアのオルゴールを持ち去った怪しい人物をグレンとサラは探し続けていた。

そうは言っても目の前で忽然と消えた顔も性別さえも分からない人物を探すのは簡単なことではない。

「何の手掛りもないままだ」

力ない笑みで返すグレンに、サラも肩を落とした。

ハイディがサルマンホテルで会ったベールの女性が何か関係あるのではないか、サラはずっとそのことが気にかかっている。

グレンに話して相談したい気持ちもあるが、占い客から聞いた話をむやみに他人にもらすことはできない。

もしハイディから預かった小箱がリリアのオルゴールだったなら、相談することもできたかもしれないが、似ているだけで別の物だった。

それより今は、小箱の中に閉じ込められている何かをどうするか考えなくてはならない。

ひとまず鍵を手に入れなければ。鍵は領主が持っているという。サラは明日にでもエドニーに聞いてみるつもりだった。

考えこんでいるサラに、グレンは心配そうな眼差しを向けている。

「そう心配はいらないさ。この街には優秀な警官がたくさんいる」

グレンはサラを励ますようにいつもの声の調子でそう言うと、サラの手を取り自分の腕に絡ませた。

「この間リリアたちをここに連れて来たんだが、君は留守だったね。リリアたちがサラと一緒にティータイムを過ごしたがっていたよ」

「ああ、その日は面接があったんです」

「面接? もしかして誰かと専属契約を結んだのか?」

先程ハイディがサラは自分のだと言ったことがグレンの中で引っかかっていた。占い師としてのサラと専属契約をむすんだという話だったなら納得がいく。そう思ったものの、サラはあっさりとそれを否定した。

「専属契約? 違います。仕事を掛け持ちすることにしたんです。あ、そういえば、グレンが領主様に鞭の禁止を進言してくださったんですか?」

「あ、ああ、あれは見るに堪えない。もっと早くそうするべきだった」

「みんな喜んでます。ありがとうございます」

「何だか今日は堅苦しいな」

グレンは居心地悪そうにサラを見下ろす。

「グレンは帰属街に住んでいるんですよね? 領主様ってどんな方ですか?」

見上げてくるサラの眼差しに動揺を見抜かれまいと、グレンはゆっくりと歩き出しながら何故そんなことを聞くのかと問い返した。

「今日船に乗りました。ソマン川を往復する定期船です。あの船を導入されたのも、グレンの進言にこんなにも早く鞭を廃止してくださったのも領主様ですよね」

サラは領主の館で働く以上、おかしな噂が立つことだけは避けたいと思っていた。

占い師というだけでも不審がられることはままある。

ここ最近は貴族の客を相手にすることも多く、様々な噂を耳にするようになった。その中にはメイドと貴族男性のスキャンダルなども含まれている。

サラはせっかく得た新しい仕事を失いたくなかった。そのために言葉使いや占い部屋での言動にも今まで以上に注意を払わなくてはならないと感じていた。

グレンのことにしてもそうだ。グレンは貴族だ。馴れ馴れしく話しかけているところを誰かに見られて噂になったりすれば、他のメイドたちにも迷惑がかかる。

「あそこのお屋敷のメイドは教育がなってないのよ」そんなひとくくりにしてしまう言葉をこれまでに何度も耳にしていた。

「いい面ばかりじゃない。若くして領主の地位についたせいで無能だ、青二才だと言われているし、まだ結婚もしていない」

「それは別に悪いことじゃ……」

「近頃は仕事を放り出して遊び歩いてるって話も聞く」

「領主様のことを良く思っていないんですか?」

「さぁ、まだ分からないな。領主になりたてのひよっこだ。それに、もっと悪い噂もある」

「どんな?」

「領主一族は吸血鬼の末裔だって話」

「えっ」

「ただの噂さ。こんな話はやめよう。美味しいケーキをご馳走するよ」

グレンに腕を引かれて立ち止まりかけていたサラは再び歩き出す。

外には湿った生ぬるい風が吹いていた。


翌日、メイドの仕事に出かけたサラはマチルダに昨日銀行に行ってきたことを話した。

「この紙、直接エドニーさんに持っていってもいいかしら。聞きたいことがあって」

「それならご主人様のお部屋の前で待っていればそのうち出てくるよ」

領主の部屋は二階の端にある。

サラは目立たないよう、使用人通路でエドニーが出てくるのを待った。口座を書いた紙を渡すついでに小箱の鍵について尋ねるつもりだった。

程なく大量の書類を抱えてエドニーが出てきた。足早に通り過ぎていくエドニーを追いかけ声をかける。

「エドニーさん」

サラは手伝いますとエドニーから書類を半分受け取りながら口座を書いた紙を持ってきたことを伝えた。

「あの、聞きたいことがあるんですが」

エドニーは目線だけで先を促し先に立って歩き出した。追い払われなかったことにほっとしながら、サラはその後について行く。

「このお屋敷に何の鍵だか分からない鍵ってありますか?」

「どこの、ではなく何のと聞きましたか」

立ち止まって話を聞く暇はないと言った感じだが、きちんと話は聞いてくれているところがエドニーが見た目ほど冷たい人ではないということを示している。

「はい。小箱の鍵を探しているんです」

「ここにある鍵は私が全て管理しています。何の鍵か分からないような鍵はこの邸にはありません」

「そうですか」

エドニーがそう言うのならそうなのだろう。早速行き詰まってしまった。

「まぁ、おもちゃの類なら分かりませんが」

「おもちゃ……」

「私が管理しているのは部屋、門、金庫などの鍵ですからね」

エドニーはそう言って立ち止まると、サラの手から書類を受け取り肘と背中で器用にドアを開けて書庫へと入っていった。

それ以上追いかけることもできず、サラはドアに向かってお辞儀をすると洗濯室へ戻ろうと踵を返した。

その時、背後で再びドアの開く音がして振り返ると、エドニーが首を出して言った。

「その小箱とやらを後で私の所に持って来てください。鍵を探してみましょう」

「え、でもお忙しいのにそんな」

「鍵は私の管理すべき仕事です。有耶無耶にはできません」

キッパリとそう言うエドニーにサラは思わず笑みがこぼれた。

サラの顔を見てエドニーが顔を赤くしたことには気付かず、サラは残りの仕事を片付けるために洗濯室に向かった。

歩き出してすぐ口座を書いた紙をエドニーに渡しそびれたことに気付いた。