「駄目だわ。このままじゃアレンが殺されてしまう」
思った以上に悪い未来にサラは苦しい息を吐き出した。それ以上の占いは不可能だった。
水盤から目を上げてグレンを見たサラは、グレンの様子がおかしいことに気付いた。
何かを我慢しているようにきつく寄せられた眉、噛み締めた唇。
右手は胸の前を交差するように左肩を強く掴んでいる。
「どうかされましたか、グレンさん」
サラがグレンの方へ無意識に伸ばした手の先から赤い血が一滴滴り落ちた。
「……近、寄るな」
「えっ」
サラは慌てて手を引いたけれど、何故急にそんなことを言われるのかが分からない。
その時ふっと蝋燭の火がひとつ消えた。
グレンが動いたのだ。
サラはグレンの両手に肩を押さえられ、床に倒れた。
熱い息を吐くグレンの顔がすぐ目の前にあった。
「グレンさん!」
グレンの目が蝋燭の火を映しているせいか金色に輝いていた。
うっすらと開いた唇から白い犬歯がのぞき、サラの肩にグレンの爪が食い込む。
明らかに様子がおかしい。酒に酔ったように理性を失いかけているように見えた。
「グレンさん、しっかりしてください」
サラは動かずに声だけでグレンに訴える。動きたくても動けはしなかったが、逃げようとすれば余計にグレンを刺激しそうに思えた。
グレンの顔が徐々に近付いてくる。
サラはその顔から目が離せなかった。
顔の半分は影になってよく見えない。その両目は狂おしいほどの渇きを訴えているようだった。
サラは背筋が震え、目の端から涙がこぼれ落ちた。
グレンの唇がサラの首筋に触れた瞬間、サラは思い切り顔を背けていた。
グレンの目にはサラの白い首筋が顕になる。
グレンがぐっと息を詰める苦しげな声がサラのすぐ耳元で聞こえたかと思うと、サラに覆い被さるように押さえつけていた手が離れた。
グレンがどさりと仰向けになってサラの横に倒れた。
サラは安堵の息を吐き出し、グレンをうかがった。
まるで何か薬に当てられたかのようだった。グレンはそれを必死に押さえ込もうとしているように見えた。
サラが床に両手をついてグレンを覗き込むと、グレンの手がサラの手首を再び強い力で握りしめた。
グレンは半身を起こしサラの手首を引き寄せ、その指先に唇を当てた。
サラの指先から流れる血を熱い舌で舐めとると、サラの体を抱き寄せた。
指先が熱い。心臓が引き絞られるような気がしてサラはぎゅっと目を閉じた。
恐ろしい。恐ろしくてたまらないのに、サラは心のどこかでその先を望んでいた。グレンに抱きしめられ、理性を失うほど求められていると思えば、何年もの孤独が癒されるような気がした。
「君の、……君の血が欲しい」
呻くようなグレンの声に、サラははっとして必死にその体を引き剥がそうと腕を突っ張った。
「駄目です!」
すると今度はグレンの目が捨てられた仔犬のような悲しげな表情を浮かべた。
サラの両手を包み込むように握り唇を押し当てる。
「駄目!」
サラが大声でそう叫ぶと、グレンは床に落ちていたナイフを手にとり、サラが止める間もなくそれを自らの太腿に突き刺した。
「……は、なれて、くれ」
グレンは呻きながらそう言ってサラを遠ざけた。
サラは震える足にどうにか力を入れて立ち上がり、部屋の隅に逃れた。
「もしかして、あなた吸血鬼?」
サラが問いかけると、グレンははっと短く笑って言った。
「まさか! 君こそ紅茶に何か入れたんじゃ……」
「そんなことするわけないでしょ!」
「悪いけど、何か止血するものを貸してくれないか。君の傷の手当の後でいいから」
グレンの方が余程深い傷のくせにそんなことを言う。サラは呆れながら戸棚の中からベルトとスカーフを取り出した。
「近付いても大丈夫?」
「いや、そこから投げてくれ」
「お願いだから変身しないで」
「変身て……」
サラは傷用のテープを素早く切り取って自分の指に巻く。それからグレンに歩み寄り慎重に手を伸ばした。
ベルトで傷口の上を縛る。
「自分で抜ける?」
痛そうなのを見るのは好きじゃない。目を逸らしながら尋ねれば、グレンは難なくナイフを引き抜いた。
血が溢れ出す。素早くその上にスカーフを巻ききつく結んだ。
「ありがとう」
「まったく、あなたって無茶な人ね」
サラは気が抜けてその場にペたりと座り込んだ。
「すまない。本当にすまなかった。二度とこんなことはしない」
グレンの額にはびっしりと汗が浮かんでいる。
「その足で帰れるの?」
「外に車を待たせてある」
「なら外まで送るわ」
グレンを支えて立たせ外まで連れ出すと、サラは車に乗り込むグレンを見送った。
「サンドイッチありがとう」
「いや、こちらこそ。しばらくサルマンホテルにいる。何かあったら知らせてくれるとありがたい」
「分かったわ」
長い一日が終わった。サラは部屋に戻ると何も考えずに眠れるように母から教わった呪文を唱えた。
あとは朝日が昇るまで夢も見ずに眠った。
ただひとつ、母の遺した言葉を思い出していた。
――吸血鬼には気をつけて。
目が覚めると外の雨音に包まれていた。
ぐっすり眠って頭はすっきりとしている。指先の傷口も、足の裏の傷も、鞭で打たれた痕もすべてなかったことのように消えていた。
普通では有り得ないほどの回復力も母から受け継いだものだ。
サラは時折自分が本当に魔女なのではないかと思う。けれど、魔女はとっくの昔にいなくなったと言われている。人狼や吸血鬼はまだひっそりと生き残っているが、魔法の類いは失われ、少しの不思議な力といくつかの知恵が受け継がれているだけだった。
サラの遠い先祖は魔女だったのだろう。ただ、それだけだと思う。
グレンの昨夜の様子を思い返すと、グレンが吸血鬼だというより、魔法陣の上で占いをしたことでサラの血がグレンに何らかの影響を与えてしまったように思えた。
昨日のことでグレンを責める気持ちは起きない。けれど、あんな風に男性に抱きしめられたのは初めてのことで、思い出せば思い出すほど落ち着かない気持ちになった。意識するまいと思ってみても、グレンの唇が触れた指先につい意識が向いてしまう。
サラは身支度のためにベッドから出ると顔を洗って考えた。外は雨だ。それでももう一度あの林に行ってアレンに会わなければいけない。
なるべく動きやすい服装をと考えて思い当たったのは、奇術ショーでナイフ投げをやっているハシリだった。
ハシリはサラよりひとつ年下で、サラと背丈が近い。サラのことを慕っており、服を借りるくらいは造作もないことだろう。
早朝からハシリはナイフ投げの練習に励んでいた。
手元でクルクルと回るナイフにサラはいつも見とれてしまう。ハシリの投げたナイフは小さな的に円を描くように綺麗に刺さっている。
「おはよう、ハシリ」
「サラ! 昨夜は遅くまでお客さんだったみたいだけど、大丈夫?」
サラが声をかけるとハシリは仔犬のように駆け寄ってきてサラにしがみつかんばかりだ。
「大丈夫よ。ちょっとお願いがあるんだけど」
「なんでも言ってよ。サラの為なら何だってするよ僕!」
ハシリの色の薄い髪や目が勢いのいい喋り方と相まって、まるで飛び回る妖精のようだとサラは思う。
「服を貸して欲しいの」
ハシリは目を丸くしながらもサラに服と雨具まで貸してくれた。
「僕も一緒に行くよ。雨の中そんな遠くまで行くなんて、ひとりじゃ危険だよ」
「心配しないで。昨日通ったところを歩くだけだから」
ハシリには昨日落し物をしたので探しに行くと言ってサラは奇術の館を出た。
座長には昨日の上客に今日も呼ばれていると言えば、すんなりと外出を許可してくれた。
館を出ると道の向かいに男が立っていた。グレンだ。
「ここで何をしているんです?」
思わず駆け寄ったサラに、グレンは傘を傾け爽やかな笑みを見せた。
「昨日の侘びがしたくて。それにしても見る度に雰囲気が変わるな」
「えっ……」
ハシリに借りた男物の服に長い髪は帽子に押し込めてある。変に思われたかと今更恥ずかしくなってサラは顔を背けた。
「今日は動きやすい格好をしてるだけです」
「どこかに行くのか?」
「アレンを探しに」
グレンは後ろに停めてあった車のドアを開け、サラに乗るように示した。
「一緒に行こう」
雨も降っている。車に乗せてもらえるのは助かる。それにグレンの足の傷も心配だった。
「昨夜は、……あれから何ともありませんでしたか?」
後部シートに並んで座ると、運転手は黙って車を走らせた。
「ああ。君は、よく眠れたか?」
「はい」
「そうか」
会話が途切れた。何か言わなくてはと思うものの何も浮かばない。
「脚は大丈夫ですか?」
「君の方こそ」
グレンはサラの手に目を落とした。
サラは思わず膝の上に置いていた手を握りしめていた。一晩で傷が塞がるなど到底普通の人間とは思えない。グレンにそれを知られたくなかった。
「私のは浅い傷ですから。でもグレンさんは……」
「グレンでいい。俺は鍛えているからこのくらい何でもない。昨夜のことはすまなかった。だが君の血には不思議な力があるようだ」
「私も昨夜のことは私に原因があると思っています。でも、忘れてもらえませんか? 昨夜のこと」
「忘れる?」
「はい。あの時床に魔法陣を敷いていたんです。グレンさん、グレンが昨夜あんな風になったのは多分そのせいです。噂になってお客さんが来なくなると困るし……」
グレンはしばらく黙りこんでいたが、やがて「分かった。そうしよう」と言ったきり口を噤んでしまった。
車が林の入り口にたどり着くと、グレンはサラに傘を差しかけながら歩いた。
「雨具を着ているから平気ですよ」
サラがそう言っても、グレンは自分の肩が濡れるのも構わずサラに傘を傾けていた。
しばらく歩くと岩山が見えてきた。
洞窟の入り口が見える辺りで二人は立ち止まり辺りをうかがった。
「誰もいないな」
「アレンはオルゴールをリリアに返すつもりです。でもホテルに行かせては駄目だわ。リリアにこっそり会わせてあげることはできないかしら」
「俺たちで連れて行くのが一番だろう」
グレンの言葉にサラはうなずいた。
サラの占いでは、アレンがリリアの前に現れた時、後ろに見えていた時計は九時を過ぎたところだった。
アレンがここに現れるならもうそろそろだ。
洞窟の前に現れた灰色の髪の少年をサラが呼び止めた。
「アレン」
サラの隣に立っているグレンに警戒してか、アレンは後ずさる。
「一緒にリリアのところに行かない?」
「どうして?」
「あなたが危険な目に会いそうで心配なの」
「オルゴールは返すよ。だから放っておいてよ」
「放っておけないからここまで来たの。私たちと一緒に行きましょう」
サラが一歩前に出ると、アレンは一歩後ずさる。
今にも踵を返して逃げ出してしまいそうだ。アレンが狼の姿になって走ればサラたちにはとても捕まえられない。
サラがアレンを説得している間、グレンは洞窟に目を向けていた。
サラの占いではその中にアレンを唆した人物がいるはずだった。
降りしきる雨のせいで物音を聞き分けるのは難しい上に視界も悪い。
それでもグレンはそこに誰かが潜んでいるのを確信していた。
「隠れていないで出てきたらどうだ」
グレンが洞窟に向かって声をあげる。
数秒の後、黒いローブを纏った人物が入り口に姿を現した。
「何の目的で子どもを誑かす?」
フードを目深に被っており、顔は見えない。グレンの問いかけにも何も答えずただそこに立っているだけだった。
「何者だ、顔を見せろ」
グレンがサラに傘を押し付けるように渡し、洞窟に向かって歩き出す。
するとローブを纏った人物の手が天を指さすようにゆっくりと上に上がり、グレンに向かって振り下ろされた。
サラは咄嗟に飛び出していた。
洞窟から飛び出してきた黒い鳥たちがグレン目掛けて飛びかかってくる。
護りの呪文を口の中で唱える間も、尖い嘴がサラの背中や腕を突き刺した。
グレンを庇うように抱きしめていたはずだった。いつの間にか反対に庇われていることに気付いた時には、辺りに羽根を舞い散らせて鳥たちが飛び去るところだった。
一瞬のことだった。
アレンの手にあったオルゴールはローブの人物に奪われ、洞窟の中に駆け込む背中を追いかけるアレンがたたらを踏む。
洞窟があったはずの場所は裂け目が消え岩壁になっていた。
後には降りしきる雨が三人を静かに濡らしていた。
思った以上に悪い未来にサラは苦しい息を吐き出した。それ以上の占いは不可能だった。
水盤から目を上げてグレンを見たサラは、グレンの様子がおかしいことに気付いた。
何かを我慢しているようにきつく寄せられた眉、噛み締めた唇。
右手は胸の前を交差するように左肩を強く掴んでいる。
「どうかされましたか、グレンさん」
サラがグレンの方へ無意識に伸ばした手の先から赤い血が一滴滴り落ちた。
「……近、寄るな」
「えっ」
サラは慌てて手を引いたけれど、何故急にそんなことを言われるのかが分からない。
その時ふっと蝋燭の火がひとつ消えた。
グレンが動いたのだ。
サラはグレンの両手に肩を押さえられ、床に倒れた。
熱い息を吐くグレンの顔がすぐ目の前にあった。
「グレンさん!」
グレンの目が蝋燭の火を映しているせいか金色に輝いていた。
うっすらと開いた唇から白い犬歯がのぞき、サラの肩にグレンの爪が食い込む。
明らかに様子がおかしい。酒に酔ったように理性を失いかけているように見えた。
「グレンさん、しっかりしてください」
サラは動かずに声だけでグレンに訴える。動きたくても動けはしなかったが、逃げようとすれば余計にグレンを刺激しそうに思えた。
グレンの顔が徐々に近付いてくる。
サラはその顔から目が離せなかった。
顔の半分は影になってよく見えない。その両目は狂おしいほどの渇きを訴えているようだった。
サラは背筋が震え、目の端から涙がこぼれ落ちた。
グレンの唇がサラの首筋に触れた瞬間、サラは思い切り顔を背けていた。
グレンの目にはサラの白い首筋が顕になる。
グレンがぐっと息を詰める苦しげな声がサラのすぐ耳元で聞こえたかと思うと、サラに覆い被さるように押さえつけていた手が離れた。
グレンがどさりと仰向けになってサラの横に倒れた。
サラは安堵の息を吐き出し、グレンをうかがった。
まるで何か薬に当てられたかのようだった。グレンはそれを必死に押さえ込もうとしているように見えた。
サラが床に両手をついてグレンを覗き込むと、グレンの手がサラの手首を再び強い力で握りしめた。
グレンは半身を起こしサラの手首を引き寄せ、その指先に唇を当てた。
サラの指先から流れる血を熱い舌で舐めとると、サラの体を抱き寄せた。
指先が熱い。心臓が引き絞られるような気がしてサラはぎゅっと目を閉じた。
恐ろしい。恐ろしくてたまらないのに、サラは心のどこかでその先を望んでいた。グレンに抱きしめられ、理性を失うほど求められていると思えば、何年もの孤独が癒されるような気がした。
「君の、……君の血が欲しい」
呻くようなグレンの声に、サラははっとして必死にその体を引き剥がそうと腕を突っ張った。
「駄目です!」
すると今度はグレンの目が捨てられた仔犬のような悲しげな表情を浮かべた。
サラの両手を包み込むように握り唇を押し当てる。
「駄目!」
サラが大声でそう叫ぶと、グレンは床に落ちていたナイフを手にとり、サラが止める間もなくそれを自らの太腿に突き刺した。
「……は、なれて、くれ」
グレンは呻きながらそう言ってサラを遠ざけた。
サラは震える足にどうにか力を入れて立ち上がり、部屋の隅に逃れた。
「もしかして、あなた吸血鬼?」
サラが問いかけると、グレンははっと短く笑って言った。
「まさか! 君こそ紅茶に何か入れたんじゃ……」
「そんなことするわけないでしょ!」
「悪いけど、何か止血するものを貸してくれないか。君の傷の手当の後でいいから」
グレンの方が余程深い傷のくせにそんなことを言う。サラは呆れながら戸棚の中からベルトとスカーフを取り出した。
「近付いても大丈夫?」
「いや、そこから投げてくれ」
「お願いだから変身しないで」
「変身て……」
サラは傷用のテープを素早く切り取って自分の指に巻く。それからグレンに歩み寄り慎重に手を伸ばした。
ベルトで傷口の上を縛る。
「自分で抜ける?」
痛そうなのを見るのは好きじゃない。目を逸らしながら尋ねれば、グレンは難なくナイフを引き抜いた。
血が溢れ出す。素早くその上にスカーフを巻ききつく結んだ。
「ありがとう」
「まったく、あなたって無茶な人ね」
サラは気が抜けてその場にペたりと座り込んだ。
「すまない。本当にすまなかった。二度とこんなことはしない」
グレンの額にはびっしりと汗が浮かんでいる。
「その足で帰れるの?」
「外に車を待たせてある」
「なら外まで送るわ」
グレンを支えて立たせ外まで連れ出すと、サラは車に乗り込むグレンを見送った。
「サンドイッチありがとう」
「いや、こちらこそ。しばらくサルマンホテルにいる。何かあったら知らせてくれるとありがたい」
「分かったわ」
長い一日が終わった。サラは部屋に戻ると何も考えずに眠れるように母から教わった呪文を唱えた。
あとは朝日が昇るまで夢も見ずに眠った。
ただひとつ、母の遺した言葉を思い出していた。
――吸血鬼には気をつけて。
目が覚めると外の雨音に包まれていた。
ぐっすり眠って頭はすっきりとしている。指先の傷口も、足の裏の傷も、鞭で打たれた痕もすべてなかったことのように消えていた。
普通では有り得ないほどの回復力も母から受け継いだものだ。
サラは時折自分が本当に魔女なのではないかと思う。けれど、魔女はとっくの昔にいなくなったと言われている。人狼や吸血鬼はまだひっそりと生き残っているが、魔法の類いは失われ、少しの不思議な力といくつかの知恵が受け継がれているだけだった。
サラの遠い先祖は魔女だったのだろう。ただ、それだけだと思う。
グレンの昨夜の様子を思い返すと、グレンが吸血鬼だというより、魔法陣の上で占いをしたことでサラの血がグレンに何らかの影響を与えてしまったように思えた。
昨日のことでグレンを責める気持ちは起きない。けれど、あんな風に男性に抱きしめられたのは初めてのことで、思い出せば思い出すほど落ち着かない気持ちになった。意識するまいと思ってみても、グレンの唇が触れた指先につい意識が向いてしまう。
サラは身支度のためにベッドから出ると顔を洗って考えた。外は雨だ。それでももう一度あの林に行ってアレンに会わなければいけない。
なるべく動きやすい服装をと考えて思い当たったのは、奇術ショーでナイフ投げをやっているハシリだった。
ハシリはサラよりひとつ年下で、サラと背丈が近い。サラのことを慕っており、服を借りるくらいは造作もないことだろう。
早朝からハシリはナイフ投げの練習に励んでいた。
手元でクルクルと回るナイフにサラはいつも見とれてしまう。ハシリの投げたナイフは小さな的に円を描くように綺麗に刺さっている。
「おはよう、ハシリ」
「サラ! 昨夜は遅くまでお客さんだったみたいだけど、大丈夫?」
サラが声をかけるとハシリは仔犬のように駆け寄ってきてサラにしがみつかんばかりだ。
「大丈夫よ。ちょっとお願いがあるんだけど」
「なんでも言ってよ。サラの為なら何だってするよ僕!」
ハシリの色の薄い髪や目が勢いのいい喋り方と相まって、まるで飛び回る妖精のようだとサラは思う。
「服を貸して欲しいの」
ハシリは目を丸くしながらもサラに服と雨具まで貸してくれた。
「僕も一緒に行くよ。雨の中そんな遠くまで行くなんて、ひとりじゃ危険だよ」
「心配しないで。昨日通ったところを歩くだけだから」
ハシリには昨日落し物をしたので探しに行くと言ってサラは奇術の館を出た。
座長には昨日の上客に今日も呼ばれていると言えば、すんなりと外出を許可してくれた。
館を出ると道の向かいに男が立っていた。グレンだ。
「ここで何をしているんです?」
思わず駆け寄ったサラに、グレンは傘を傾け爽やかな笑みを見せた。
「昨日の侘びがしたくて。それにしても見る度に雰囲気が変わるな」
「えっ……」
ハシリに借りた男物の服に長い髪は帽子に押し込めてある。変に思われたかと今更恥ずかしくなってサラは顔を背けた。
「今日は動きやすい格好をしてるだけです」
「どこかに行くのか?」
「アレンを探しに」
グレンは後ろに停めてあった車のドアを開け、サラに乗るように示した。
「一緒に行こう」
雨も降っている。車に乗せてもらえるのは助かる。それにグレンの足の傷も心配だった。
「昨夜は、……あれから何ともありませんでしたか?」
後部シートに並んで座ると、運転手は黙って車を走らせた。
「ああ。君は、よく眠れたか?」
「はい」
「そうか」
会話が途切れた。何か言わなくてはと思うものの何も浮かばない。
「脚は大丈夫ですか?」
「君の方こそ」
グレンはサラの手に目を落とした。
サラは思わず膝の上に置いていた手を握りしめていた。一晩で傷が塞がるなど到底普通の人間とは思えない。グレンにそれを知られたくなかった。
「私のは浅い傷ですから。でもグレンさんは……」
「グレンでいい。俺は鍛えているからこのくらい何でもない。昨夜のことはすまなかった。だが君の血には不思議な力があるようだ」
「私も昨夜のことは私に原因があると思っています。でも、忘れてもらえませんか? 昨夜のこと」
「忘れる?」
「はい。あの時床に魔法陣を敷いていたんです。グレンさん、グレンが昨夜あんな風になったのは多分そのせいです。噂になってお客さんが来なくなると困るし……」
グレンはしばらく黙りこんでいたが、やがて「分かった。そうしよう」と言ったきり口を噤んでしまった。
車が林の入り口にたどり着くと、グレンはサラに傘を差しかけながら歩いた。
「雨具を着ているから平気ですよ」
サラがそう言っても、グレンは自分の肩が濡れるのも構わずサラに傘を傾けていた。
しばらく歩くと岩山が見えてきた。
洞窟の入り口が見える辺りで二人は立ち止まり辺りをうかがった。
「誰もいないな」
「アレンはオルゴールをリリアに返すつもりです。でもホテルに行かせては駄目だわ。リリアにこっそり会わせてあげることはできないかしら」
「俺たちで連れて行くのが一番だろう」
グレンの言葉にサラはうなずいた。
サラの占いでは、アレンがリリアの前に現れた時、後ろに見えていた時計は九時を過ぎたところだった。
アレンがここに現れるならもうそろそろだ。
洞窟の前に現れた灰色の髪の少年をサラが呼び止めた。
「アレン」
サラの隣に立っているグレンに警戒してか、アレンは後ずさる。
「一緒にリリアのところに行かない?」
「どうして?」
「あなたが危険な目に会いそうで心配なの」
「オルゴールは返すよ。だから放っておいてよ」
「放っておけないからここまで来たの。私たちと一緒に行きましょう」
サラが一歩前に出ると、アレンは一歩後ずさる。
今にも踵を返して逃げ出してしまいそうだ。アレンが狼の姿になって走ればサラたちにはとても捕まえられない。
サラがアレンを説得している間、グレンは洞窟に目を向けていた。
サラの占いではその中にアレンを唆した人物がいるはずだった。
降りしきる雨のせいで物音を聞き分けるのは難しい上に視界も悪い。
それでもグレンはそこに誰かが潜んでいるのを確信していた。
「隠れていないで出てきたらどうだ」
グレンが洞窟に向かって声をあげる。
数秒の後、黒いローブを纏った人物が入り口に姿を現した。
「何の目的で子どもを誑かす?」
フードを目深に被っており、顔は見えない。グレンの問いかけにも何も答えずただそこに立っているだけだった。
「何者だ、顔を見せろ」
グレンがサラに傘を押し付けるように渡し、洞窟に向かって歩き出す。
するとローブを纏った人物の手が天を指さすようにゆっくりと上に上がり、グレンに向かって振り下ろされた。
サラは咄嗟に飛び出していた。
洞窟から飛び出してきた黒い鳥たちがグレン目掛けて飛びかかってくる。
護りの呪文を口の中で唱える間も、尖い嘴がサラの背中や腕を突き刺した。
グレンを庇うように抱きしめていたはずだった。いつの間にか反対に庇われていることに気付いた時には、辺りに羽根を舞い散らせて鳥たちが飛び去るところだった。
一瞬のことだった。
アレンの手にあったオルゴールはローブの人物に奪われ、洞窟の中に駆け込む背中を追いかけるアレンがたたらを踏む。
洞窟があったはずの場所は裂け目が消え岩壁になっていた。
後には降りしきる雨が三人を静かに濡らしていた。