疲れた足を引きずるようにして歩いていると、ぽつりと街灯に明かりが灯った。

あっと思った時には雨の雫がサラの頬や腕に落ちてきていた。

急ぎ足で奇術の館まで戻ってきた時には全身がぐっしょりと濡れ、寒さに震えが止まらなくなっていた。

肌に張り付いたドレスを破かないように脱ぐのに手間取った。熱い湯に浸かりたいと思ったけれど、風呂屋に行く元気は残っていなかった。

今日一日で足の裏の皮がめくれてしまうほど歩いた。

お昼はあんなにお腹がいっぱいだったのに、もうすっかりなくなってしまったのかお腹の虫も鳴いている。

それでも夕食を作る気にはなれない

アレンはどうしているだろうか、無茶だけはしないで欲しいとサラは心の中で祈り続けていた。


サラはグレンが訪ねて来ると言っていたのを思い出し、三階の共同部屋へは行かず、占い部屋の中で待っていた。

占い部屋は元々一階のステージを見るための客席の一部を垂布で仕切っただけの場所だ。ステージを見下ろせる側は通路になっていて、座長はそこを行き来する。

客は反対側からやってくる。そのどちらにも分厚い布が幾重にも垂れ下がっている。

机を片隅に寄せ、部屋の中央に丸い敷物を広げた。サラが数ヶ月かけて刺繍を施した敷物は魔法陣になっている。

魔法陣とは言っても少し集中力を高める程度のものだ。気力と体力の回復にも役立つため、疲れた時はその上に横になって瞑想をする。

サラは薄いゆったりとした飾り気のないワンピースを纏い、幾つかの蝋燭の灯りだけの薄暗い部屋で横になった。

今日一日の出来事を順に思い出していくと、グレンの柔らかな目元が一番に脳裏に浮かんだ。

――素敵な人。

年頃の少女なら一度は憧れを抱くだろう。サラもそのうちの一人だ。決して本気になどなってはいけない相手だ。そう自分に言い聞かせながら、水盤に映ったグレンの苦しげな表情を思い出してサラもまた顔を曇らせていた。

いつの間にかうとうとしていたのか、物音で目を覚ますとそこにグレンがいた。

「あ、……ごめんなさい。気が付かなくて」

「いや、こちらこそ起こしてしまってすまない」

慌てて体を起こそうとすると、グレンはその様子を見ながらサラの前に胡座をかいて座った。

「椅子を」

「いや、このままでいい」

グレンは部屋の中を見回し「暗いな」と呟いた。

そう言われても蝋燭の灯りしかないのでどうしようもない。

むしろ化粧を落としたサラには多少暗い方が好都合だった。

「一緒に夜食を食べながら話そう」

グレンはそう言うと紙袋を差し出した。中にはサンドイッチが入っていた。

「サルマンホテルのシェフに頼んで作ってもらったんだ。これなら幸せな気分のまま眠れるだろ?」

サラが言った事をグレンが覚えていたことに、サラは驚くとともに困惑した。

「何故こんなによくしてくださるんですか?」

薄暗がりにグレンの表情ははっきりとは見えない。それでもサラが困惑しているように、グレンも困惑しているようだった。

「それは、……占いの力を頼りにしているからな。それに確かめたいこともあった」

「確かめたいこと?」

「今朝この部屋で今までに感じたことのない何かを感じたんだ。その正体を知りたい」

「何かって……」

「分からない。自分を抑えがたくなるような、酒に酔ったような感じがした」

サラはお酒は飲めない。この部屋に酒類は置いていない。

「私には何の事だか分かりません」

「もう一度水盤で占いをしてみてくれないか。話の後でいい」

「それは構いませんけど」

「ありがとう。じゃあまずはオルゴールの件について食べながら話そう」

サラは小さなポットにお湯を沸かし二人分の紅茶を入れた。

「グレンさんは人外のものをどう思われますか?」

それはアレンの話をするに当たって確かめておかなければならないことだった。

「人外?」

「狼男とか、吸血鬼とか、魔女とか……」

「君が魔女だって言うのを信じろってこと?」

「私は魔女だなんて言ってません。そういものに対してどういう意見をお持ちかを聞きたいんです」

「俺は世の中には二種類の生き物がいると思っている」

「それはどんな?」

「俺が戦うべき相手と、そうでない相手」

「人外は戦うべき相手ですか?」

「いや、そういう括りにはしないってことさ」

「誤魔化してます?」

「誤魔化してなんかいないさ。たとえその相手が人外だろうと俺が守るべきものならそうするし、戦うべき相手なら戦う。それだけだ」

グレンの目はまっすぐにサラを見ていた。グレンにとって難しい線引きなどはないのかもしれない。

それならサラもグレンに対して正直に話すべきだと考えた。