俺の喉と同じようにカラカラに乾燥した冬の空の下で、
 ザァザァぶりの雨にただ打たれているような気持ちで、
 その言葉を聞いた。

智司(さとし)、私、鈴原(すずはら)君に告白されたんだけど、どうしよう」

 覚悟してたのに、ハンマーで殴られたようだった。

◇◇◇

 梨穂子(りほこ)が好き。多分幼馴染だ。
 いつからかはわからないけど、ずっと好きだった。
 家は実はそんなに近くない。多分物心付く頃からお互いの家の中間地点にある公園で会っていた。
 俺と梨穂子は表面上はそんなに仲がいいわけじゃなかった。梨穂子はいつも同じ幼稚園の子と遊んでいたし。俺はその頃一緒に遊ぶ友達もいなくて、だいたいが1人でブランコに座っていた。
 公園には1本の大きな楓の木があって、公園の端にあるブランコからだけ、その木の裏で泣いていた女の子が見えたんだ。
 俺は梨穂子に『大丈夫?』って声をかけた。梨穂子は見られてるとは思っていなかったんだろう。一瞬驚いて、涙を拭って、難しい顔で俺に『これは秘密』って言って、色々文句を言った。

 小さい頃の梨穂子はとても偉そうで、でもすぐ他の男子に凹まされていた。
 気の強い梨穂子は我慢ができなくて、こっそり俺のところに逃げてきて俺の隣でブランコに後ろ向きに座って、ちょっとだけ泣いてひとしきり文句を言って、全部わすれてニコッと笑って、それでまた友達のところにかけて戻っていった。
 梨穂子は怒ったり泣いたりする姿を他の友達には見せなかった。だから他の子には生意気な女子と思われていた。

 梨穂子は困っていることを自分自身で解決していた。俺もただ梨穂子の話を隣で聞いているだけで、だから俺がなにかの解決に役に立っているわけじゃ全然なかった。でも怒ったり泣いたりする梨穂子を知っているのは俺だけで、そう思うと梨穂子は何か特別な存在だった。
 梨穂子のほうはそう思っていたわけではないと思う。俺は他に喋るような友達もいなかったし、丁度よかったんだろう。

 俺と梨穂子は小中学校の学区が同じだった。そのうち半分くらい同じクラスだったけど、学校にいる間に梨穂子と話すことはほとんどなかった。性別も違うし揶揄われる。でも放課後はたまに会った。

 会って何をするというわけでもなくて。
 俺はずっと帰宅部で、授業が終わってしばらくしたらだいたい同じルートで寄り道しながら、梨穂子と会えないかなって少しだけ期待してゆっくり家に帰った。梨穂子が俺に用がある時はそのどこかで俺を捕まえたから。あの公園で文句を聞いたり買い食いをしたり、そのままどこかに遊びに行くこともあった。

 でもそれだけ。頻度もそんなに多くなかった。ごくたまに。でもそれだけで、俺は梨穂子が好きだった。
 一緒に行ったところはだいたい覚えている。
 雪の降り初めの白い公園に足跡をつける梨穂子。
 すっかり日が落ちるのが早くなってオレンジ色の中に浮かぶ影法師みたいに分かれ道で手を振る梨穂子。
 熱い夏にかき氷を食べに行こうと遠出して結局帰りも汗だくになったことに不満を漏らす梨穂子。

 梨穂子。好きだ。
 でも、これでいい。このままで。
 たまに話して、たまにどこかに一緒にいって。『幼馴染』という名前のついた、どうとでも言い訳ができて、だからこそ気軽な、そんな微妙な関係性。それ以上でもそれ以下でもなく。
 でも、それでいい。梨穂子の人生にちょっとだけ引っかかっていれば、それで満足。
 そもそも梨穂子が俺を好きになるとは思えない。俺はただいるだけで何の役にもたっていない。思い返せばアドバイスの1つもしていない。俺から何かのアクションを起こすことでこの関係が壊れるのが怖かった。そう思うと俺は何もできなくなる。

 高校になって梨穂子はますますかわいくなった。だから梨穂子がそのうち誰かを好きになって、その誰かと付き合うようになるんだろうなと思って、でも仕方がないと思ってた。
 それでも将来何かあったときに、もし俺を思い出してくれて、俺に文句を言いに来て、それでまた去っていってくれればいい。俺の存在が梨穂子の中で意味がなければないほど、きっと意味なく話しかけてくれそうな、そんなことを期待してた。玄関においた写真をたまにふと見るような。『幼馴染』っていう微妙な関係が梨穂子の記憶に小さく引っかかっていればそれで。
 そう思ってた。

◇◇◇

 智司は多分私の幼馴染だ。多分というのは、よくわからないから。
 智司は幼稚園のとき近所の公園にいた。だいたいブランコのところに。私は困ったことがあれば智司に文句を言いにいった。なんで智司に文句を言いにいっていたのかはよくわからない。関係ないのにね。

 初めて会った頃の智司は私より小さくてなんだか頼りなかったけど、私の話を聞いてくれたから好き勝手言っちゃったんだと思う。いつも私の隣でブランコで揺られながら。
 何故だろう。むしろウザいよね。それに私は智司と一緒に遊ぶこともなかったし。智司に文句を言うだけ言って、その後他の友達と遊んだ。何か嫌なことがあれば智司にぶつけていた。それだけ。今思うと結構ひどい。

 何かおかしいなと思ったのは小学校4年生くらいの時だった。そのころ智司は私の身長を追い越した。
 放課後にグラウンドを追いかけて捕まえた時、真正面の低いところにあった太陽が智司の背中を照らしてた。捕まえた時、太陽は智司の頭の影に入って私には見えなくなって、だから私の全身が智司の影に入っちゃっていることに気がついた。多分5センチくらい智司は私より大きかったんだと思う。

 あれ? 智司ってこんなに大きかったっけ。そのとき智司を見上げて。そう、見上げたんだ。なんとなくちょっと違う人に思えて、少し怖かった。
 でも智司はいつもどおり『どうしたの』って聞いてくれた。だから、私は智司の影を抜け出て隣を歩いた。いつもは智司の少し先を歩いてたけど、なんとなく隣を歩いた。でもなんとなく、やっぱり私は智司を見上げた。

 その時に何の文句を言おうと思っていたのかはもう覚えていない。ぎこちなく何か話しかけたと思ったけど、やっぱりよく思い出せない。
 智司はいつもと同じように私の話を聞いてくれて、いつもの分かれ道でじゃあね、といって別れた。

 その時智司は同じクラスで、ふとした瞬間に智司を目で追うようになった。私が知ってる智司のままのところと、私が気づかなかった智司のところ。
 智司は友達がほとんどいなかった。話をする人が全然いないわけじゃないけど、お昼ごはんはいつも1人で食べて、放課後はうろうろと1人で帰ってた。私が声を掛ける時以外はいつも1人。
 声をかけるのは迷惑だったのかな。気が咎めた。後ろをついて歩くと、本屋の前で雑誌を手に取ろうとしてる智司と目があった。

「帰り?」
「うん、そう、智司は」
「俺も帰り」
「買うの?」
「見てただけ」

 智司は雑誌を置いて肩に鞄をかけ直す。まだ見てなかったのに。邪魔したみたいでやっぱり少し気が咎めた。

「どうしたの?」
「なんでもない」
「そう」

 無言で並んで歩く。いつもなら私が何かの文句を言ってるタイミング。でも今は特に文句はないの。だから無言。

「大丈夫?」
「うん」

 智司は声をかけてくれる。もうすぐいつもの分かれ道。今日は何も話さなかった。よく考えると話しているのはいつも私ばかり。そういえば私は智司のことは何も知らない。

「智司はなんか好きなものないの?」
「好きなもの?」

 智司は遠くの灰色の雲を眺めて歩きながら腕を組む。頭が少し傾いている。こんな癖があったんだ。

「たけのこ党かな」
「私も」
「仲間だね」
「うん」

 それだけ話して、別れた。

 智司はいつも私の文句をちょっと困ったような優しい感じで微笑んで聞いてくれる。迷惑なのかな。でも智司とはなにか特別な関係だった。これは『幼馴染』? 一緒に遊んだこともないのに。

 中3の頃から智司は急に身長が伸びた。今は180センチくらいある。足も結構大きい。メガネをかけるようになった。本を読む時カバーをかけてる。鞄は背中に引っ掛けるように持つ。それから、ひょっとしたら結構かっこいいのかもしれない。

 高校は別々になった。同じ高校を受けたことを受験の当日に知った。でも智司は受かって私は落ちて。でも近くの高校だったから同じように帰り道によく会った。
 智司はやっぱりいつも1人で、本屋とかカフェを眺めながらふらふら帰っていた。そんな智司とたまに目があって、でもなんとなく言う文句も既になくて、無言で一緒に歩いた。たまに無理に誘っても文句も言わずに智司はただついてきた。ちょっと困った顔で微笑んで。

 私は智司のことが好きなのかな。でもどうみても智司に私を好きな様子はなかった。いつも話しかけるのは私で、智司から話しかけられることはなくて。
 この関係はこれまでと同じようにきっとずっと変わらない。私は智司にとって『幼馴染』なんだろう。だからきっと、智司が私を好きになることもない。

 ある日私は鈴原君に告白された。中学のときに同じクラスだった人だ。
 よく知らない人だけど友達の評判はよくて、試しに付き合ってみたらといわれた。でも私は鈴原君が好きなわけじゃない。だから、付き合わないのに。

 だから久しぶりに智司に文句を言った。でも智司はいつもどおりちょっと困った顔で微笑んで。『そう』といういつもの返事に一言付け加えた。

「そう。鈴原はいい奴だから、悪くないんじゃないかな」

 それで私は気がついた。私はいつも文句ばかり言って、智司の意見を尋ねたこともなかったことを。『どうしよう』って智司に尋ねたのは多分初めて。私はこれまで本当に一方的で、智司の意見を聞いたことなんてなかった。

 その返事で、私は私が智司が好きだったことを自覚した。
 最初、智司が何を言ってるのかわからなかった。多分智司に『好きなの?』と聞かれて違うって返事して、『好きじゃないならやめれば』というそんな普通の流れを期待していた。
 その次に、なんでそんなこと言うの、と思った。それで私は智司に止めて欲しかったんだっていうことに気がついた。気がついた時には遅かった。

 智司のその返答は明確な拒絶で、私は智司にとって恋愛対象じゃなくてただの『幼馴染』で。これまで私に優しく微笑んでくれたのは私が単に『幼馴染』だったからで、きっと智司は誰にでも優しくて、私は特別じゃなかった。
 急に私に向けられていたその優しさが全部嘘だったみたいに感じて、なんだか勝手に裏切られたような気がして、急に寂しくなって、寂しさが溢れて、気がついたら思わず声が出ていた。

「冷たい人」

 そこからは何を話したのかわからない。智司は何も悪くない。でも私は智司にどんな顔していいかわからなくて、帰宅ルートを変えた。そうすると智司に会うことはなくなった。
 そう。智司はいつも同じ道を歩いていて、私が一方的に絡んでいただけだったんだ。そのことがわかった。私が智司を追いかけていた。どうして今更わかったんだろう。どうして智司に相談したんだろう。もう私から智司に告白することもできない。
 鈴原君はいい奴、か。私はなんだか投げやりになって、いつの間にか鈴原君と試しに付き合うことになっていた。

◇◇◇

 鈴原とは何度か同じクラスになった。
 バスケ部で面倒見のいい明るい奴だ。悪い噂もない。
 鈴原に告白されたと聞いた時、ついに来たか、と思った。でも思っていた以上の衝撃だった。覚悟はしていたはずなのに、心がバラバラに砕けた。視界が少しぼやけた。
 いつか梨穂子が誰かと付き合うことになっても、それが俺じゃないってことはわかっていた。だから酷いやつじゃなければ祝福しようと思っていた。でも、やっぱり、痛い。凄く痛い。心臓に包丁がささったような。

 でも。鈴原か。鈴原はいいやつだ。だから、用意していた言葉をなんとか返した。少しぎこちなかったかもしれないけど。梨穂子を否定はしたくなかった。俺に話したってのは多分付き合いたいってこと。でもその後、何を話したのかさっぱり覚えていない。多分いつもどおり、分かれ道で別れた。いつもどおり。

 それから梨穂子にあうことはなくなった。きっと鈴原と付き合うことにしたんだろう。舌がざらざらする。まるで砂が詰まっているみたいに。心臓のあたりが冷たい。寝てる間に包丁が刺さった心臓を誰かが機械に置き換えたみたいに。
 そう、機械みたいに毎日は過ぎていった。俺の毎日は変わらなかった。いつもと同じ道をゆっくり帰る。違いは梨穂子に会わないことだけ。

 そういえばこの本屋で雑誌を手に取ろうとしたとき梨穂子に話しかけられたっけ。ふいに梨穂子の姿が頭にちらつく。少し先のカフェで一緒にケーキを食べた。全部、覚えている。全部。いろんな梨穂子を思い出す。いつものように。俺の1日は変わらない。梨穂子と通った道を通って家に帰る。梨穂子を思い出しながら。

 だから多分、あれでよかった。俺と梨穂子は『幼馴染』だ。いつか、そのうち、また話をする可能性。それがあればいい。そのうち鈴原と別れたらまた同じ関係に戻れるかもしれない。そんなこともちょっと思う。結局遅かれ早かれの話で、いずれ梨穂子は誰かと付き合う。俺は梨穂子に似合わない。たまに隣を歩ければそれで十分で。
 鈴原はいいやつだ。俺の知らないやつよりよほどいい。鈴原なら祝福できる。祝福、か。
 教室から窓を眺めると、冷たい雨が降っていた。

◇◇◇

 鈴原君と付き合うことになった。
 鈴原君は多少強引なところもあるけどいい人だ。強引といっても良かれと思ってやることで、基本は紳士的だから問題はない。問題は、ない。
 智司と違ってこうしたら、とか意見も言ってくれる。でも私は結構気が強い方で、喧嘩になることも多くて。でもわりとすぐ仲直りはできた。私は鈴原君のことをちょっといいな、と思い始めていた。
 智司ならそもそも喧嘩にならない。そもそも意見を言わない。でもいつも私の話をだまって聞いてくれた。そんな安心感があって。たぶん今も恋愛相談したら聞いてくれると思う。でもつまり、それだけの関係。『幼馴染』。2人は幼馴染という糸で繋がっていて、私の手元から真ん中までが赤い。智司の方は白い。

 智司が好きだった。そのことを終わった後に気がついた。そもそも始まってもいなかったけど。あのままの関係をずっと続けていけば付き合ったりしてたのかな。ううん、多分それはない。ずっとあのまま。
 なんとなく、私の中で智司の存在がだんだん薄くなっていっている。最初からいなかったみたいに。でも、鈴原君と話をしているとき、いつも智司の顔がチラついた。少し困ったみたいな小さい笑顔。

◇◇◇

 この間繁華街まで出かけたら梨穂子と鈴原を見かけた。仲がよさそうだ。幸せそうでよかった。でも視界がまた少し滲んだ。
 2人は30メートルくらい先の交差点の対角線上にいた。信号が変わった。梨穂子たちは俺に気づかず横断歩道を渡り、そのまま俺の向かいを通り過ぎていった。
 鈴原はいいやつだ。うん。俺は最終的に梨穂子が幸せなのがいいと思っている。心から。

 俺は相変わらず梨穂子が好きで、だから梨穂子が他のやつと付き合うのは少し悲しい。でも結局、梨穂子が俺と付き合うことはない。なら、梨穂子はいい人と付き合って、俺は『幼馴染』のままがいい。
 そのうちまた、ずっと先の未来かも知れないけど、また話ができるかも知れない。最近梨穂子と話してないけど、もともとそんな頻繁に話す仲でもなかった。

 もうすぐバレンタイン。
 梨穂子は毎年俺にチョコをくれて、俺は毎年ホワイトデーに小さなビスケットを返した。小学校の頃からなんとなく続いている習慣。
 今年はない。梨穂子は鈴原にチョコを送る。でも梨穂子はなんだかんだいい奴だから、ひょっとしたら去年と同じように用意してくれるかもしれない。それなら、断ろうと思った。
 結局のところ俺はチョコレートに期待してるんだな、と気付いた。梨穂子がくれるのはいつもバーシーズの板チョコ。この雑貨店で売っているやつ。手に取る。486円。今年は自分で買おうかな。それもなんだか悪くない。梨穂子を思い出す。

◇◇◇

 もうすぐバレンタイン。
 鈴原君には初めての手作りチョコに挑戦する予定。
 私はこれまで智司以外にチョコを送ったことはない。小2くらいの時にバレンタインという存在を知って、タロルチョコを1個智司にあげた。『ありがとう』と喜んでくれた。ホワイトデーにはピスコをもらった。
 その交換がなんか面白くて、それから惰性で毎年贈った。最近は毎年バーシーズのチョコ。500円くらいの奴。世間一般では義理チョコど真ん中の価格帯、むしろ安いかも。
 でも智司は毎年『ありがとう』と受け取って、ホワイトデーには同じくらいの値段のビスケットをくれた。

 今年はどうしたらいいんだろう。私と鈴原君が付き合っていることを智司は知っている。前に鈴原君とデートしてる時に目が合った。距離があったし鈴原君がいたからわざわざ挨拶したりはしなかったけど。
 距離。そう、距離感。智司と私の距離感。これは昔からなのかな、違う、物理的には私が開けた距離感。でも心理的にはもともとどのくらい開いていたんだろう。わからない。
 智司が隣にいるのが普通だと思ってた。智司はやっぱり私にとって特別で。……でも恋愛じゃない。智司にとって私は従妹とかそういう関係だったのかな。それなら、これまでのことに納得できる気がする。

 智司にチョコをあげたい。初めてそう思った。好きだから。でもそれは智司が好きとかいう以前に、このままだと智司との関係が全部なくなってしまうような、そんな気がして怖かったから。
 私が帰り道を変えて距離を空けた。でも智司から近づいてくることはなかった。だからずっとこのまま。それがわかってしまった。
 私は何がしたいんだろう。よくわからない。でも私にとって智司は大切な人だった。始まる前に終わっていた恋でも。だから最後に少しだけ距離を戻してみて、拒絶されたら仕方がない、そう思った。

◇◇◇

 目の前に差し出されたバーシーズのチョコ。いつもと同じ。
 帰り道に梨穂子に声をかけられた。久しぶりでちょっとびっくりした。でもよかった、『幼馴染』は続いていた。

「鈴原には?」
「これから待ち合わせ、でもその前に」
「そう、でも」

 嬉しいけどもらうわけにはいかない。彼氏以外にチョコをあげたら駄目だと思う。だから予定通り断ろうと思った。でも言葉が出なかった。よく考えるとその一言は拒絶の言葉だったから。
 『もらえない』。口のなかがカラカラに乾いて、その言葉がでない。俺はこれまで梨穂子に何かを伝えたことがない。それで関係が変化するのが怖かったから。
 俺は梨穂子に一方的に『幼馴染』をもらっていた。それでよくて、十分だった。本当に。でもここで拒絶したら、もう梨穂子のギリギリから転げ落ちてしまうかも。そんな恐怖。それは、嫌だ。どうしたら。好きだ。でも。
 俺は何も言わずにそっとチョコを押し返した。その瞬間、口から逃げた水分はいつの間にか目から零れ落ちた。

「智司?」
「ありがとう。気持ちだけもらうから」

 菜穂子が少し驚いた顔で俺を見ている。
 ごめん。俺は苦しすぎて、逃げた。

◇◇◇

 見間違いじゃないよね。
 いつもみたいにちょっとだけ困った顔をして、でも泣いてた。

 その瞬間、ふわりと、智司が好きなのは私なんだと気づいた。何故かそう、はっきりわかった。
 多分、私たちは最初に会った時からお互いが好きだった。赤い糸を握り合ってて、丁度真ん中だけ何故か白かったんだ。なんで今までわかんなかったんだろう。でも今、その糸が切れかけている。ヤバい。
 だから急いで追いかけて捕まえた。必死に。
 いつも私が捕まえてるから、捕まえるのは得意。

「智司は本当は私が好きなんでしょう?」

 私の気持ち?
 500円のチョコにつめた気持ち。本当は智司が好きだった。手作りの高い材料で作ったチョコよりたくさん入っていた私の気持ち。

 好き。