変な外人が俺たちの住処に紛れ込んだ。ディオゲネスと名乗っているからやはり日本人ではないのだろう。堀が深くて色が白い。
 環状線の高架下にある周辺の雑踏から切り離されて忘れ去られたようなこの狭い歩道には、6人のホームレスがひっそりと居を構えている。最近は行政の締め付けが厳しく色々なところを追い出され、下に下に流れ落ちる汚泥のようにこの底辺に辿り着いて、ようやく一息つけたところだった。

 その老人はある日ふらふらと歩道に降りてきて、俺たちのダンボールの家の隙間をかき分け冷たく湿ったコンクリートの路面にぺたりと腰を下ろした。マントみたいなボロだけを纏って震えている。
 老人はちょっとおかしい。人がいてもいなくてもお一人様に及び、こんなに気持ちいいのに何故腹は膨らまぬのかとかよくわからないことを呟く。だから老人が下着すら履いていないのをみんな認識していた。せめてパンツを履けよと思っているけど、いろいろな意味で関わり合いになりたくなくないから誰も声をかけなかった。

 最初はみんな老人を警戒した。不法滞在で逮捕されて関係者と思われて取調べされたら。怪しい外国人がいるということで行政がやって来てまたここを追い出されたら。お互いの素性をわざわざ尋ねたりはしないが軽犯罪くらいには足を突っ込んでいる者も多い。道に落ちている不用品を拾うのは本来違法だ。
 正直、かかわりたくなんてない。出ていってほしい。
 ひょっとしたら外国人窃盗団の手先が逃げてきたのかもしれないし。

 けれどもそのディオゲネスと名乗る老人はただひたすらダンボールの間に座っていた。しかも夜中になるとぐうぐうとひどい腹の音と歯ぎしりを響かせている。仲間に聞くと、どうやら全く食事をしていないらしい。
 さすがにここで餓死されても困る。自分たちで警察を呼ぶのは勘弁だと思い、拾ってきた廃棄食品をやむをえず少しずつわけるとガツガツ食べた。最近は廃棄食品も貴重で、回収されたり薬品を混ぜられたりしていることも多くなかなか手に入らない。

 話してみると以外にも日本語が堪能だった。だが言っていることはおかしかった。自分は奴隷でコリントでタコを食って死んだはずだが気がついたら知らない場所にいて、親切な男に日本語と社会の仕組みを習って外に出されたそうだ。やはり頭がイカレてると思った。
 だがイカレてることと生きてくことは別だ。俺らが普段やってる空き缶や雑誌拾いの仕事を教えようとしたら、乞食は施しをもらえるのに哲学者である自分が施しを受けられないのはおかしいと言い放った。十分おかしいと思う。今は乞食は違法だと教えたら衝撃を受けていた。

 かといっていつまでも自分たちの食い扶持を分け与えられるほど俺たちに余裕はなく、義理もなかった。だから炊き出しの場所を教えた。毎日ではないがおにぎりや日用品の配給を行っている団体はいくつかある。
 俺たちはなるべく食い扶持を自分で賄っている。路上に生きていても施しを受けるのは自分が哀れに思えるしなんだか窮屈に感じるから。だからこの老人の施しのみで生きていこうというある意味清々しい姿勢にはなんだか衝撃を受けた。

 ある日、ニートといわれたがどういう意味だろうかと老人に尋ねられ、働かない人だと教えたことがある。そうすると、老人は哲学者は欲から開放されて自足すべきもので動じない心が重要だ、うむうむと深く納得し、それ以降自分をニートのディオゲネスと呼称するようになった。
 この老人には皮肉は通じないのか、それともそれが正しい姿だと認識しているのかよくわからないが、その堂々とニートを貫く姿に皆が惑乱し、好感を覚えるようになった。とにかく老人は何かが一貫していたのだ。

 老人はみかんと書かれたダンボールの施しをうけ、その四角い箱の中に住むようになった。陶器のかめと違って壊れなくていいと喜んでいる。実際、コンクリートの床は底冷えがする。最近ではすっかり馴染んできた老人が風邪を引くのではないかとみんな心配していたものたから、ホッとした。
 今のボロマントで十分だと古着の施しを断ったようだが、みんなで下着を履かないと法に触れると説得すると、そうか、と述べてボロボロのワイシャツと膝やふとももの破けたジーンズを履くようになった。

 ダンボールの中でくつろぐこの奇妙な老人に若者がちょっかいをかけにくることもあった。この老人には何か愛嬌があるせいか、いつのまにか若者たちは言いくるめられ、たまに老人に菓子パンやらおにぎりを持ってくるようになった。

 ところが老人はある日突然いなくなった。話に聞くと身なりのいい男が炊き出しに現れて戻るように老人を誘ったそうだ。その男は老人を恭しく扱い、あなたは奴隷なのだからそろそろうちの掃除をお願いしますとわけのわからない問いかけをすると、老人はうむと鷹揚に頷いてついていったそうだ。
 問答がおかしいのでやはりイカレて徘徊していたのを身内が引き取りに来たのかと思った。その頃にはみんな老人に妙な愛着を感じていて、少し寂しく思っていた。

 ところがそれは杞憂で、しばらくたってまた老人は戻ってきて同じようにダンボールの中に鎮座した。
 老人に一緒に行ったのは身内じゃないのかと尋ねたら、私はあの人らに買われた奴隷だからたまに家の掃除をしにいってやるんだよという斜め上の返答があった。老人は相変わらずわけのわからなさを発揮して、なんとなく変わらない様子はみんなをよろこんばせた。

 老人が言うには、老人は大昔の人の複製であり、あの男に買われたらしい。男は自分を何くれと饗そうとしたが、神に近い者ほど必要なものが少ないのだと教えてやると、そうですねと言って外に出してくれたらしい。
 やはり言動を含めてイカレてるとしか思えない。何故わざわざホームレスに。

 老人はその後もニートのディオゲネスであると名乗り屁理屈を捏ねながら楽しげに過ごし、時たま身なりのいい男の家で掃除をして帰ってくるという謎の生活を継続した。
 一度男に何故あの老人をちゃんと保護しないのか尋ねたことがあるが煙に巻かれた返答をされた。

「あの人は古代ギリシャで今と同じように路上で生活していた哲学者のクローンでね。時代が変わっても同じ行動をするのか試しているんですよ」