「三年生の秋の終わり頃、なんとなく人知れず歌いたくなって、学校から少し歩いたところにある河川敷に行きました。するとそこに、隣の中学校の男の子がいました」
 
「その子は、絵を描いていました。目の前の風景を見て、夢中で鉛筆を動かしていました」
 夢中だなんて。
 違うよ。僕は、ただの暇つぶしで。

「思わず覗き見したら、とても素敵な絵を描いていて」
『きれい!!』
『私はすっごく好きだよ!』
 初めて遥奏に絵を見られた時のことを思い出す。

「隣にいたら勇気がもらえそうな気がしました。そこで私は、彼に許可を取って、その場で歌い始めました」

 脚色だ。
 僕は、許可を取られた覚えはないぞ。

「誰かの前で歌うのはほぼ一年ぶり。不安で、体がバラバラになりそうでした。また嗤われたり、けなされたりするんじゃないかって。ですが、それは余計な心配でした」

「その子は、私の歌を褒めてくれました。口調はそっけなかったけれども、それだけに、決して飾っていないこと、本心を伝えてくれていることがわかりました。うれしくて、私は思わずその場で泣き出してしまいました。歌うことをやめなくてよかったって、一歩踏み出してよかったって」
 遥奏はそこで、何か込み上げてくるものを塞き止めるかのように、ぎゅっと唇を結んだ。

「彼のおかげで、私は決意できました。もう一度歌を頑張って、慶雲高校へ挑戦しようと」
 スマホで録音しながら、ストイックに練習していた遥奏。
「面接で聞かれる長所と短所のヒントも、彼からもらいました」
 ドーナツショップでいきなり聞かれた『私の良いところ十個』を思い出す。あのやりとりがヒントになったとは、僕には思えないけれども。

「入試の前日、不安で押しつぶされそうだった時には、河川敷にピアノを運んでいって、彼に半ば無理やり伴奏してもらいながら練習しました」
 ピアノを弾かされた翌日から数日間、遥奏は姿を現さなかった。
 『ちょっと出かけててさ』と言っていたその行き先は、京都だったのか。

「彼にはほんとうに迷惑をかけたと思います。でも、彼は私のもとを離れずにいてくれました。連絡先を聞いたら四六時中彼に依存してしまいそうで、私はいつも、彼が次の日も河川敷に来てくれる可能性に賭けました。幸い、彼は姿を現し続けてくれました。彼の支えがあって、私は入試を乗り切ることができました」

 原稿用紙に目を向けたり、そこから目を離したりしながら話し続ける遥奏。
 本番にはカットする部分が少なくないのだとわかった。

「彼は、絵を描くことがすごく好きみたいで、けれども、その気持ちに素直に向き合えていない様子でした。それではとてももったいない。余計なお世話かもしれませんが、隣で見ていた私はそう感じました」

「彼が私を支えてくれたように、私も彼の力になりたいと思って、自分なりにいろいろ試してみました。絵の感想をたくさん伝えたのはもちろん、題材をリクエストしてみたり、弟の部活のチラシを作ってもらったり——って、これは今考えたら私の方が力を借りてますね」

 そう言ってばつが悪そうに微笑んだ後、遥奏は急に顔を曇らせた。

「少し余談ですが」
 目を伏せて、一拍置く。