竜田川が唐紅に染まる頃、鞠の君の元に一通の文が届いた。
「鞠の君様、文にございます」
 御簾の向こうからそう聞こえ、今日も今日とて紙に向かっていた鞠の君はぴょんと飛び跳ねた。
 しかしもう帝からではないかと期待するようなこともない。
 五年も放置されていれば、さすがに諦めも付いていた。
 それは帝の母、皇太后からの文であった。
 皇太后はいつ何時とてすべてにおいて気品溢れるお方であったが、届いた文の文字は乱れていた。
 皇太后は長らく慣例に従い、後宮の藤壺(ふじつぼ)に住んでいたが、今は体調を崩し実家に里帰りをしていた。
 その実家、今では帝の摂政としてお仕えし、摂関家として名を馳せていた。
「皇太后様……」
 その文には自分はそう長くないであろうこと、以前に鞠の君の宿下がりを拒んだことへの謝意、そして見舞いを名目に帰ってこないかと乱れた字で切々と綴られていた。
「…………」
 鞠の君はそれを読み終えるとポロポロと涙を流し始めた。
 皇太后は鞠の君にとって母も同じであった。
 かつては東宮妃として期待された鞠の君も、今となっては摂関家の若い姫君の入内(じゅだい)も決まり、摂関家のもくろむ政治介入の道具にすらなれずにいた。
 この文はそのことも慮ってのことであろう。
「春式部、主上に宿下がりの許可を願い出ます。添削してくだされ」
 春式部は、鞠の君の涙に濡れながらも凛とした言葉に、深々と頭を下げた。

 さて、帝の元に鞠の君から文が届いた。
 この頃の帝には違う女御(にょうご)との間に二人の姫君をもうけていた。
 しかし男君が生まれない。
 近頃では同母弟を皇太弟として立てることも視野に入れるべきと摂関家からせっつかれているところであった。
 帝には同母弟との間に、もう一人異母弟がいて、摂関家はその異母弟が帝になることをいたく警戒していた。
 同母弟であれば、その母方の血筋である摂関家はそのまま権力を握っていられる。
 母の実家のもくろみなど手に取るように分かったが、それを拒絶する大きな理由も持たない帝であった。
「雷鳴壺の女御様からのお手紙にございます」
 側近に文を手渡され、帝は遠い昔を瞬く間に思い出した。
 雷鳴壺の女御とはあまり親しみのない言葉であった。あの者は鞠の君だ。あの日、山野で出会った山賊の娘。
 あの小汚い鞠を、心底大事そうに握っていた娘。
 後宮へ入った際にはあでやかな鞠を持っていたが、あれで遊ぶような年でももうあるまい。
 今頃どうしているものか。同じ後宮にありながら、帝は彼女の元へなかなか通えずにいた。
 どの女御を優先すべきか、政治的な判断もあった。しばらく放っていると後ろめたさがあった。そうこうしているうちにすっかり顔を合わせづらくなっていた。
「……五年、か」
 言い訳に言い訳を重ね、五年も放っておいてしまった。
 それほどの間、沈黙を保っていた女御が一体何用であろう。
 恐る恐る文を開く。
 そこには皇太后の見舞いと称して宿下がりを願い出る言葉が綺麗な文字で綴られていた。
 帝は絶句した。内容にではなくその文字の美しさに戸惑った。
 まだ東宮であった頃、母の監視の下、鞠の君と手紙をやり取りすることがあった。
 それはままごとの一環であると同時に、鞠の君が文字を書けるようになるための訓練でもあった。
 その頃、鞠の君の字はお世辞にも綺麗とは言いがたかった。
 かろうじて読める、そのような文字ばかりであった。
「…………」
 自分の文箱を漁り出す。奥の奥にあった。鞠の君からの手紙。
 見比べる。代筆を頼んではないかと疑わしくなるほどの上達ぶりであったが、ところどころの文字の癖が昔と同じであった。
 しばらく帝はその手紙を眺めると、急いで許可のための手紙を書いた。

 簡素な許可を出す手紙に、鞠の君は寂しげに微笑むと、荷物を纏めた。
 もう雷鳴壺に戻ることもないだろう、そう思いながら。

 春式部を伴って、久方ぶりに帰った摂関家はますます隆盛を誇っていた。
 鞠の君が怖々と帰ってきたのを、彼らは存外あたたかく迎え入れた。
 おそらく皇太后の言い付けが行き届いているのだろうと鞠の君は察した。
 皇太后の側には常に僧侶が付き添い、経を上げていた。
 香の匂いの中に、隠しきれない病の匂いを鞠の君は嗅いだ。
「髪を下ろします」
 か細い声で皇太后はそう言った。
「……さようですか」
「主上も出家をお許しくださいました」
「……おめでとうございます」
「……その前に鞠の君に会いたかった」
 皇太后は悲しげに微笑んだ。
「あなたには家の都合でいろいろと無理をさせました」
「いえ、身に余る光栄ばかりでした……後宮へ入ったのも、そう悪くはありませんでした」
「春式部から聞いておりますよ、近頃日記を書いているそうですね」
 鞠の君は顔を赤らめ、春式部を睨んだが、彼女は御簾(みす)の外であった。
「読んで聞かせてちょうだいな。もう目がかすんで文字も読めぬ哀れな母に」
 母、そう名乗る皇太后に鞠の君の目から涙があふれ出した。
「はい……」
 泣きながら鞠の君は纏めてきた荷物から日記を持ってこさせた。
 虫の鳴き声、風に乗って入り込んできた花びら、冬の雪、それらへの素朴な思いが連綿と綴られた日記を、鞠の君はしゃくりあげながら、読み続けた。
 皇太后はやがてその声を子守歌にすっと眠りについた。