いざとなれば逃げる自信はあった。胸元は目つぶしの粉を隠し持っていたけれど、騒ぎを起こしたくはない。

「一体何のお話でしょう。どなたか存じませんが、失礼いたします」

 扇で顔を隠したままくるりと背を向けたのに、「待たれよ」と言った男は一歩踏み出した。行かせまいとして、小雀の衣の裾を踏んだのである。

 小雀にはふたつの顔がある。
 ひとつは、橘少納言の娘。
 父は亡くなって久しいが、母とふたり、父が残してくれた五条大路にある屋敷で数人の使用人と共にひっそりと暮らしている。

 もうひとつは、闇に紛れて盗みを働く夜盗。
 市井で人気の夜盗、紅鬼子(べにきし)の一味だ。
 小雀の母は泣く子も黙る紅鬼子の女首長。昼は穏やかに笑っている使用人も、夜は屈強な盗人に姿を変える。小雀は手下たちに花鬼(はなおに)と呼ばれていて、身軽さでは誰にも負けない。
 齢十七にして夜盗花鬼。それが小雀の裏の顔なのである。

 とはいえ紅鬼子は義賊だ。
 悪徳貴族から盗んだ金品を薬草や食料などに変え、貧しい庶民に配っている。
 小雀は自分のしていることに誇りをもっていた。
 その自負心もあって怯まない。わずかに振り返り、扇の隅から男を睨んだ。

 すると男は、「闇烏(やみがらす)」と言う。
「そう言えばわかりますか?」

 小雀は眉をひそめた。
 闇烏なら知っている。
 夜の京を黒装束で徘徊する謎の男だと、母から聞いたことがある。