この世は空蝉だと言ったのは、誰だったか。


「直元。」

「はい、父上。」

春の匂いがする庭を眺めていた時、直元は父の高政に呼び止められた。

父・高政が直元の隣に座ると、一つ咳ばらいをした。

「直元、そなたも内裏に出仕するようになった。ついては、妻を迎えようと思っている。」

「妻ですか?」

まだ15歳になったばかりの直元には、他人事みたいな話だ。

「なに、今直ぐ結婚しろとは言わない。何度か会ってみてはどうだ?」

「はい。」

内裏の仕事も始めたばかり。

女の事は、とんと知らぬ直元に、降って湧いたような話だった。
そして直元が、その妻になるかもしれない女に会ったのは、三日後の事だった。

「よくぞ来て下さった、婿殿。」

女の父親は今出川高政と言って、位だけ高く没落した公家だった。

家を訪ねても、なんだかみすぼらしく見えた。

「娘は、この部屋におります。」

「はい。」

直元が部屋に入ると、御簾納の中に一人の女が座っていた。

直元の気配を感じて、振り返った女は、まだ幼い感じがした。

「初めまして。久世直元と申します。」

「ようこそお出で下さりました。私は、萌黄と申します。」

明るくて気さくな感じがした。

「あの御簾納中に入っても、よろしいですか?」

「えっ……あの……」

萌黄は戸惑っているようだった。

「何かございましたか?」

「結婚に至るまでは、顔を合わせないと父上に教えられました。」
直元は、目を瞑った。

自分の父親からは、そんな事聞いていない。

何回か会ってから結婚を決めてもいいと言っていたが、顔も見えないのに、どうやって結婚を決められよう。

「そうでしたか。そう言った作法も知らずに、申し訳ありませんでした。」

「いえ!お気になさいませんよう。」

しばらく無言のままで、御簾納を挟んで顔を合わせる二人。

「では、今日のところはこれで……」

直元が立ち上がった時だった。

「お待ちください。」

萌黄が御簾納を少し開けた。

「どうぞ、中へ。」

御簾納の中に誘う萌黄の手は、細くて綺麗だった。

それに誘われて、直元は御簾納の中に入って行った。

そこには、色白の比較的綺麗な顔をした娘が座っていた。
「こちらにお座り下さい。」

明るくてはきはきした言葉。

まるで直元を気に入っているかのようだ。

「お父上は顔を見せるなと言ったけれど、せっかく来て下さったのに、顔も見ずに帰るだなんて、できないですよね。」

そしてにこっと笑った顔も可愛らしい。

「直元様は、貝遊びなどされた事は?」

「貝遊び……すみません。男所帯だったものですから、女の子の遊びはてんで分かりません。」

「そうでしたか。私もこの歳になってもまだ貝遊びなんて、幼いですよね。」

見たところ、良い姫ではないか。

「いいえ。我らはまだ、成人したばかり。女の子の遊びをしても、いいではないですか。」

すると萌黄は、嬉しそうに微笑んだ。

「直元様は、お優しい方ですね。」
萌黄が微笑んだ表情は、可愛らしかった。

あどけない二人は、照れながらも、お互いを結婚相手として、意識し始めた。

直元が屋敷に帰って来ると、父・高政は直元の帰りを待っていた。

「父上。只今、戻りました。」

「おお、どうだった?萌黄殿は。」

直元は、嬉しそうに歯に噛んだ。

「はい。とても可愛らしい姫君でした。」

「それはよかった。では、結婚は進めていいのだな。」

「はい。」

高政は息子を見て、心配していた事をちょっと恥ずかしく思った。

息子だって、元服したのだ。

いつまでも、子供ではいまい。


こうして、直元と萌黄の婚儀は、進む事になり、あれよあれよと時間が過ぎた。

直元は、時間がある時には萌黄のところへ遊びに行き、二人はすっかり仲良くなった。

萌黄の父・今出川実重も、その様子を近くから見ては、頼もしげに見ていた。
そして、直元の母・こよりは、この縁を不思議に思っていた。

「母は昔、実重殿に求愛されてね。」

「えっ⁉︎萌黄の父上殿にですか?」

自分の母親が、結婚相手の父に口説かれていたなんて、直元にとっては衝撃だ。

「でも、父上様の方が良くて、断ったのですよ。」

母・こよりは昔の話を、思い出しては恥ずかしそうに笑った。

「今は、実重殿の家も小さくなったけれど、父上様の大事なお友達ですからね。萌黄殿を大切にするのですよ。」

「はい。」

家の勢いは、今出川家にはなかった。

直元は、今出川家が父に持ち掛けた結婚話だと思っていた。

それが実は、父から持ち掛けた話だと知った時は、さすが父上よと見直した。

子供同士が結婚すれば、勢いを無くした今出川家にも、援助することができるようになるからだ。