昨夜、ちゃんと締め切っていなかったカーテンの隙間から朝焼けの光が射し込んでいる。

涙が滲む寝ぼけ眼を開けて、枕元に置いてあるスマホで時刻を確認する。

五時四十七分。

せっかくの休日なのだから、もっと遅く起きてもよかったのにな。
なんて、そんなことを思いながら腕で顔を覆った。

夢の中で大好きなあなたが幸せそうに笑っていたから。
嬉しくなると同時に、切なくて苦しくて、心が痛くて。

目が覚めたら泣いていたんだ、わたし。




隣の家のなおくんは、わたしより十二個も年上の優しいお兄ちゃん。

高校に入学して、やっと十六歳になったばかりのわたしとは、ひと回りも違う。

「ちいちゃん」

わたしの名前を呼んでくれる柔らかいその声が昔から大好きで、小さい頃は中学校や高校から帰ってくるなおくんを見つける度に駆け寄っては抱きついていたっけ。

そうすると、なおくんは眉を下げて笑って、腰にしがみついたわたしをなんてことないように軽々と抱き上げてくれた。

「ただいま、ちいちゃん」
「おかえり、なおくん」
「いい子にしてた?」
「うん! いい子にしないとなおくんがおよめさんにしてくれないもん」

そう言うとなおくんは目尻を下げて、ぽんぽんと優しく頭を叩いた。

毎日の決まったやり取り。
わたしはその時間がたまらなく好きだった。

なおくんのおよめさんにしてね。
そう言うとなおくんはいつも笑ってた。

時々、学校が早く終わったなおくんがお母さんの代わりに幼稚園に迎えに来てくれたこともあった。

「なおくんだ!」
「今日は僕がお迎えに来ちゃった。ちいちゃんおかえり」
「ただいま!」

そんな時はいつものやり取りが逆になる。
わたしは急いで荷物をまとめて、大好きな先生にさようならをして、あたたかいなおくんの手をぎゅっと掴んだ。

そして、わたしの小さな手を握り返したなおくんが「帰ろっか」と言うのを合図に、時々公園や駄菓子屋さんに寄り道をしながら家に帰った。




なおくんも卒業した近所の小学校に入学すると、なおくんは運動会や音楽会に足を運んでくれた。

保護者リレーでは、懇願されたお父さんに代わって、なおくんが出場し、ぶっちぎりの一位になっていたことも今では懐かしい。

「ちいちゃん、やったよ」

太陽に照らされて、はにかんだように笑って手を振るなおくんは、あまりにも眩しくて、それでいてきらきらと輝いていた。

そんななおくんを見ていると、なんだか胸の奥がむず痒くなって、顔にはぶわっと熱が集中してくる。

うまく反応できずにいたわたしはなおくんの笑顔を見ているのも照れくさくなって、いつものようになおくんに抱きついてしまおうと思って駆け寄った。

けれど、いざ近づいてみると突然触れるのが躊躇われて、伸ばした手をそのままに、わたしは固まってしまった。

「ちいちゃん……?」
「あ、なおくん、おめでとう」
「うん、ありがとう」

一瞬首を傾げた様子のなおくんは、すぐにその場にしゃがみこむと、いつもの笑顔でわたしの頭を撫でてくれた。

また胸がずきゅんと音を立てた。
それが恋だなんて、わたしはまだ知らなかったんだ。




ひとりっ子のわたしにとって、なおくんは本当のお兄ちゃんみたいだった。
なおくんもお手本のような兄でいようと心がけてくれていたように思う。

でもそれじゃ満足できなくなったのは、わたしの方だったんだ。

恋心を自覚したのは、小学五年生になる少し前のとき。
春休みに入ってすぐ、なおくんが家にやってきた。

「ちいちゃん、お散歩行かない?」
「うん、いく!」

なおくんといる時間は最優先だから。
二つ返事をしたわたしになおくんはいつもと同じように笑顔をくれた。

近くの公園まで来て、なおくんがベンチでちょっと休憩しよっかと腰掛けた。
その隣にわたしも座る。

「あのね、ちいちゃん」
「うん」
「……大事な話があるんだ」
「なあに?」

膝の上で固く握り締められた手。
なおくんは躊躇いがちに話し始めた。

「今、ちいちゃんと僕は隣に住んでるよね」
「うん」
「でもね……、もう少ししたら僕は今の家を出るんだ」
「おじさんとおばさんもいっしょに?」
「ううん、僕だけ」
「なんで……」

なおくんがいなくなる。
その事実に頭ががつんと殴られる。

目の前が真っ暗になって、渇いた口からは何も言葉が出てこない。

じくじくと目の奥が傷んで、ぎゅっと瞑るとぽたりと滴が落ちた。

ぽたり、ぽたり。
なおくんが似合ってるねと褒めてくれた水色のワンピースにどんどん滲みができる。




「ちいちゃん……」

困ったような声色のなおくんが、頬を濡らす涙を拭ってくれるけれど、とめどなく流れるそれはなおくんの手を濡らし続けた。

ごめんね、も。
泣かないで、も。
幼いわたしには受け止められなかった。

「わたしが、いい子じゃなかったから?」
「違うよ」
「なおくんに、いつもわがままばっか、言ってたから?」
「ううん、違う」
「なおくん、わたしのこときらいになったの?」
「絶対に違う。聞いてちいちゃん」

わたしが泣きじゃくりながら尋ねるのを、なおくんは終始穏やかな声で、けれど最後の質問には珍しく語気を強めて否定した。

それからなおくんは、落ち込むわたしに家を出る理由を話してくれた。

大学を卒業したから就職すること。
夢だった先生になれたこと。
赴任先が少し遠い小学校で、ここから通うのは大変だからその近くに住むこと。




なおくんの話を聞き終わる頃には、わたしの涙も止まりかけていた。

さっきまでは、もうこのまま涙が止まらないかも、なんて思っていたのにな。

「ちいちゃんがいてくれたから夢を叶えられたんだよ」
「わたし……?」
「そう、ちいちゃんと出会ってなかったら先生になろうなんて思いもしなかっただろうから」
「…………」
「ありがとう、ちいちゃん」

まっすぐな目をしたなおくんはいつだってわたしより大人で、少しずるい。

だって、そんな風に言われてしまったら、応援するしかなくなるじゃん。

「……がんばってね、なおくん」
「ありがとうっ」

まだ完全には納得していない、不貞腐れた顔のままそう言うと、なおくんはそっと抱きしめてくる。
その声はほんのちょっぴり震えていた。

抱きしめられたわたしはというと、久しぶりになおくんの顔がこんなに近くにあって、内心大パニックだった。

どくんどくん、心臓が音を大きな音を立てているのが分かる。

次第に速くなる鼓動に気づかれたくなくて、早く離れてほしいと思いながらぎゅっと目を瞑った。

「(わたし、なおくんのこと……)」

ずっとずっと、好きだったんだ。
お兄ちゃんとしてではなく、異性として。

傍にいたから気づかなかったけれど、本当はずっとなおくんに恋をしていた。