「……夜逃げは、」
「駄目だ、洸太の大学を知られている」

兄の言葉を遮って父親が反対する。
昔からそう。
親戚をはじめ周囲にいい顔をしたい両親にとって、出来のいい兄の出世は何よりの誉なのだ。

それが兄にとっては、何よりの重荷だったのだろうけれど。

「俺、大学ぐらい別にどこでもいいよ。中退して働いたっていい」
「何言ってんだ、どれだけ俺たちがお前に金と労力を費やしてきたか分かっててそんなこと言ってるのか」
「……はぁ、そういう次元の話じゃないだろ。おいで、真冬」

話にならないと判断した兄は、テーブルの木目を数えながら他人事のように話を聞いていた真冬の手を取り、2階へ上がった。

「最悪の場合、真冬を連れてこの家を出ていくから」
「……だめだよ、にいちゃん」
「駄目じゃない、そうしないときっと真冬は……」

父さんはあれから毎晩荒れてるし、母さんもヒステリックになっちゃったから。
兄は真冬の部屋に入ると両手を肩に置き、誰にも聞かれないよう小さな声で言い聞かせた。

彼にとって、妹は唯一の癒しだったから。
ただ言うことを聞いてほしい、守らせてほしい、その一心だった。

けれど、そんな兄の思惑を知らず、即座に首を振った真冬を見て、兄は眉間に皺を寄せる。

「とにかく、いつ出ていくことになってもいいように準備はしとけよ」

兄はそう告げると、泣きそうな表情をして部屋を出ていった。

きっと聡い兄には未来のことが少しだけ分かっていたのかもしれない。

真冬のぼんやりとした記憶の中の兄は、いつもこの時のもの哀しげな顔をしていて、今でもたまに夢に出てきては真っ赤な目で真冬のことを詰るのだ。