あの瞬間まで、戻れたらいいのに──……。
***
ズキン、ズキンと波打つように襲ってくる痛みに額を押さえる。気圧のせいか、朝からずっと頭が痛い。授業を受けるどころではなくて保健室のベッドでしばらく眠っていたけれど、朝から続く痛みは未だに収まる気配がない。
もう、帰っちゃおうかな。でも、帰るために起き上がるのもダルい。
ため息を吐いたとき、保健室のドアがガラガラと乱暴に開いた。ベッドを仕切るカーテンの隙間から、体育着姿の男子生徒が入ってくるのが見える。
「失礼しまーす。あれ、先生いねーじゃん」
なんとなく、声に聞き覚えがある。寝転んだまま手でカーテンを捲り上げると、左腕を押さえてきょろきょろしていた男子生徒と目が合った。
「やっぱり、中尾くんだ」
「あ、吉崎さん」
私を指差して驚いたように瞬きしたのは、親友の汐里の彼氏だった。
「ケガ?」
「あー、うん。体育でサッカーしてたとき、敵チームとぶつかってコケた」
中尾くんが左腕の擦り傷を見せながら、ヘラッと笑う。軽傷のようだけど、砂だらけの腕に血が滲んでいて痛そうだ。
「傷口、ちゃんと洗ったほうがいいよ」
「あー、うん」
中尾くんが、踵を踏んで履き潰した上履きの底をパタパタと鳴らしながら、窓際の水道に向かう。
「吉崎さんは? 体調不良?」
「あー、うん。ちょっと頭痛くて」
「風邪?」
「うーん、たぶん偏頭痛」
「そっか、お大事にね」
中尾くんは私の顔も見ずにそう言うと、ろくに手も拭かないままに戻ってきて、保健室の棚を勝手に漁り始めた。濡れた腕からは、だらしなくポタポタと水滴が垂れている。
「適当に消毒とー、あと絆創膏貼っときゃいっか」
独り言を言っている親友の彼氏の背中をぼんやりと眺めていると、「わっ!」と悲鳴が聞こえてきて、棚から保健室の備品がガラガラーッと一斉に落ちてきた。
「うわ、最悪……」
頭を掻きながら床にしゃがみ込んだ中尾くんが、消毒液や絆創膏の箱、包帯、脱脂綿など……、周囲に散らばった備品を掻き集めて救急箱の中に乱雑にぶち込んでいく。その姿を傍観しながら、私はちょっと笑ってしまった。
そういえば、汐里が中尾くんのことをときどきこんなふうに言っている。
「尚平は、何するのも適当で雑なの」って。
可愛い顔を歪めて愚痴る汐里の顔を思い出して口元を抑えていると、中尾くんがちらっとこちらに視線を向けてきた。
「ムカつく。笑ってるなら、手伝え」
中尾くんに不服そうな声で訴えられて、仕方なく立ち上がる。私はついでに、水道のそばに置いてある新しいペーパータオルをいくつか取ると、中尾くんのそばに寄ってしゃがんだ。
「とりあえず、ちゃんと拭きなよ。水、垂れてるから」
「えー、面倒」
「いや、ちゃんと拭きなって」
笑いながらペーパータオルを手渡すと、中尾くんが少し気まずげに濡れた手や腕を拭く。
「ここが片付いたら、それやってあげる」
「それって?」
とぼけた表情で首を傾げる中尾くんに、つい苦笑いが漏れる。
「ケガの手当て。どうせうまくできないでしょ」
「あー、ありがと」
にこっと無防備な表情で笑いかけられて、思いがけずドキッとした。
私ってば、なんで親友の彼氏にときめいちゃってるのよ……。心臓がドクドクと鳴るのが、汐里への裏切りのような気がして気まずい。
頭がこれ以上余計なことを考えないように、私は床に転がった備品をテキパキと片付けた。そんな私のことを、中尾くんが何故かじっと見てくる。
中尾くんのことなんてこれまで意識したこともなかったのに、見られていると思うと勝手に顔が火照ってしまう。
手当てしてあげるなんて、余計なことを言わなければよかった。でも、おとなしく待ってくれている中尾くんのことをほったらかしのままにしておくこともできない。
ささっと手早く終わらせよう。
「ケガ、見せて」
消毒と絆創膏以外の備品を片付けてから、中尾くんと向き合う。
「ん」
素直に左腕を突き出してきた中尾くんにそっと触れると、消毒をかけて絆創膏を貼る。誰にでも簡単にできるその工程を、中尾くんは真面目な顔付きでじっと見ていた。
「はい、どうぞ」
「ありがと」
目を伏せてぼそりとお礼を言った中尾くんは、さっきみたいに無防備には笑わなかった。そのことを心のどこかで残念に思ってしまう自分がいて。邪な気持ちを振り切るように頭を振る。
何考えてるんだろう。中尾くんは、汐里の彼氏なのに。
「どういたしまして」
私の立場は、中尾くんの彼女の友達。中尾くんに貼った絆創膏のゴミを握りしめる。
距離を取るために立ち上がろうとすると、何を思ったのか、中尾くんが急に私の手首をつかんで引っ張った。
前のめりに倒れかけた私を、しゃがんだ体勢の中尾くんが抱き止める。中尾くんが私を引っ張ったのか、私が雪崩れるように押し倒したのか。
保健室の床で、私は仰向けに倒れた中尾くんの上に覆い重なっていた。
「ご、め……」
「いいよ」
慌てて退こうとした私を、中尾くんがぎゅっと抱きしめてくる。
「吉崎さんて、いい匂いすんね」
すんっと鼻を鳴らした中尾くんに耳元で囁かれて、心臓がおかしなくらいに暴れ始めた。
「中尾くん、何言って──」
「俺、変なこと言ってるよね。わかってんだけど、この頃、汐里といてもなんでか吉崎さんのことばっかり気になって目で追っちゃうんだ。さっき、ケガの手当てで吉崎さんにちょっと触られたせいか、心臓ドキドキして、なんか溢れちゃいそう……」
中尾くんの言葉に、心臓がドクンドクンと早鐘を打つ。
だけど、ドクドクと音を立てているのは、私の心臓だけじゃなかった。重なり合った胸がお互いに共鳴するみたいに脈打っている。
汐里は中尾くんのことをこんなふうにも言っていた。
「尚平はときどき嫌になっちゃうくらい適当なんだけど、でも顔はかっこいいんだよね。あと、笑うと可愛い。だから結局、たいていのことは許しちゃう」って。
顔を赤らめて惚気る汐里は可愛かった。私は、汐里が本当に中尾くんが好きだってことをよく知ってる。
だけど、間近で向き合ったときの中尾くんの真剣な表情が見惚れるほどに綺麗なことも、熱っぽい眼差しが彼を少し色っぽく見せることも、どうしようもなさそうに眉根を寄せて首を傾げる仕草は笑った顔より可愛いく見えるってことも。知らなかった。
今、初めて知った。
「吉崎さん、ごめん。ちょっとだけ……」
中尾くんが、私の頬を両手で包んで床から頭を浮かす。