第2ボタンより欲しいもの。 ~終わらない初恋~

「そうなのよ。今日は拓海(たくみ)の大好きな(とり)の唐揚げでも作ってあげようかと思ってね」

 〝拓海〟というのが、真樹の弟の名前である。ちなみに、真樹と拓海とは父親が違う。
 麻木家はけっこう複雑な家庭なのだ。それはさておき。

「へえ。で、拓海は? 今日は一緒に来てないんだ?」

 拓海はこの四月で小学六年生になる。でも今は春休みなので、母親にベッタリな弟はついて来ているだろうと真樹は思ったのだけれど。

「今日は家で、おばあちゃんとお留守番してる。もう買い物について来るような年でもないし」

「そうだね」

 真樹は(うなず)く。ちなみに〝おばあちゃん〟というのは真樹と拓海の母方の祖母で、都美子の実母である。 
 真樹が生まれたのは都美子がまだ二十代前半の頃だったので、祖母は現在七十代前半。まだまだ若々しくて元気である。

「あら、真樹は今日カレー作るの? ゴメンね、ホントはお母さんも手伝いに行きたいんだけど」

 母は真樹が持っているカゴの中身を見てそう言った。

「いいよぉ、お母さん。大丈夫! カレーくらい、あたし一人で作れるよ。お母さんに似て料理は得意なんだから」

 弟の拓海はこれから反抗期で、まだまだ手がかかりそうだから、母にかかる負担を減らすためにも真樹は早く自立しなければ。

「何か困ったことあったら、お母さんに話聞いてもらいに帰るから。拓海とおばあちゃんによろしく。……じゃね」

 真樹は海藻(かいそう)サラダのパックを一つカゴに入れ、レジに向かおうとしたのだけれど――。

「真樹、ちょっと待って」

「ん? なに?」

 母に呼び止められ、首を傾げながら再び振り返った。 
「あんた、高校に入ってから誰ともお付き合いしてないでしょ? もしかして岡原くんのこと、まだ引きずってるの?」

「う……っ」

 痛いところを()かれ、真樹は返事につまってしまう。

「もう忘れなさい、とは言わない。あれじゃ失恋したかどうかもはっきりしないし。だからって、このまま一生この恋に縛られてるつもり?」

「それは…………、まだ分かんないけど」

 今の真樹には、そう答えるのがやっと。
 もちろん彼女も、このまま現状維持なんて望んではいない。何らかの形でこの恋に決着をつけなければ……とは思っているのだ。
 せめてもう一度だけでも、彼と会って話せたら……。

「――とにかく、あたしの問題はあたし自身で解決するからさ、大丈夫。じゃあね!」

 これ以上この話題に踏み込んでほしくない真樹は、それだけ言うと逃げるようにレジへ。会計を済ませ、重たくなったエコバッグを肩から()げてマンションへと引き返していった。

****

「――ただいま、佐伯(さえき)さん」

 真樹はマンションに着くと、エントランス横の管理人室にいる初老の男性に挨拶した。

 管理人――佐伯さんは六十代(なか)ば。ここの管理人歴は長く、マンションができた十五年前からだという。
 このマンションの店子(たなこ)の安全はオートロックではなく、彼が守っているのだ。

「ああ、麻木さん! おかえり。――買い物かい?」

 佐伯さんは好々爺(こうこうや)のような笑顔で、挨拶を返してくれた。

「はい、今日はカレーを作ろうと思って。一人じゃ食べ切れないんで、あとで持ってきますね」

 父親のような彼にそう答えてから、真樹は管理人室の横にある集合ポストを覗いた。 
 二〇二号室が彼女の部屋番号で、ポストには三~四通の郵便物が入っている。
 取り出した郵便物の中の、ダイレクトメールの封筒や公共料金の請求書に混じっている一通の往復ハガキが彼女の目に留まった。

「ん……? 何だろうコレ?」

 今時、連絡事項はほとんどメールやSNSで済ませることができるこのご時世に、往復ハガキを使うなんて珍しい。差出人は高齢者か、ネットに(うと)い人だろうか?

 階段で二階に上がり、部屋に帰ると、真樹はダイニングテーブルの椅子に座って改めて例の往復ハガキに目を通した。

 そして――、驚いた。

「マジっすか!」

 それは、真樹が中学三年生の時に生徒会長を務めていた男子生徒から届いたもの。
 卒業五周年の節目に行われる同窓会の案内状だった――。

「――同窓会……かぁ」

 真樹は右手に往復ハガキを持ったまま、左手でテーブルに頬杖をついて、その言葉を噛みしめるように呟く。

「あれからもう五年経ったんだなぁ」

 彼女は一度立ち上がると、寝室兼書斎になっている洋間のクローゼットから、小さな透明のプラスチックケースを取り出した。
 そこに入っているのは、金色のボタンが一つ。これは、真樹の母校である中学校の、男子の学生服についていたボタンである。

 そしてこれは、真樹にとって大切な思い出の品でもあるのだ。

 ――卒業までの間に、真樹と岡原との間に何もなかったのかといえば、実はそうでもない。

 中学生活最後のバレンタインデーに、真樹は思いきって彼にチョコレートを渡した。
 彼とは当時クラスが違っていたので、わざわざ彼のいる隣のクラスまで出向いた。彼の友達数人も、その場にいた。

****

『――あれ? 真樹じゃん。ナニ?』

 その頃、真樹はすでに彼から下の名前で呼ばれていたけれど、決して二人は付き合っていたわけではない。

『お……っ、岡原! あの……コレ……』

 彼を目の前にしてテンパってしまった真樹は、勇気をふり絞ってチョコの包みを彼に押しつけるだけで精一杯だった。こんな大事な時にさえ、彼のことを名字呼び(それも呼び捨て)にしかできなかった自分を「可愛くないなあ」と思ったものである。

 その後逃げるように自分のクラスへ戻ったので、告白どころか真樹からのチョコを受け取った彼がどんな表情をしていたのか、確かめることすらできなかった。

 ――それから一ヶ月後。その年はちょうどホワイトデーが卒業式の日だった。 
『――真樹、ちょっと来てくんね?』

『えっ?』

 式典もクラスごとの記念撮影も終わり、母と二人で帰ろうとしていた真樹は、思いがけず岡原に呼ばれた。

 卒業式の後、女子が男子を呼び止めて制服のボタンや校章のバッジをもらう。――TVドラマやコミックではよく見かける光景だけれど、逆のパターンもあったのか。

『お母さん――』

 真樹は「行ってもいい?」と(たず)ねるように母を見た。すると、「行ってらっしゃい!」というような頷きが返ってきた。

『ありがと、お母さん。あたし、ちょっと行ってくるね!』

 真樹は岡原について、校舎の裏手へ。

『……なに? こんなとこまで連れてきて』

 (いぶか)しげに眉をひそめた彼女に、岡原は学生服の黒いズボンのポケットに突っ込んでいた右手を真樹の目の前に突き出した。そして、「ん」と言いながら(こぶし)を開いて見せた。

『え……』

 そこにあったのは、学ランについているはずの金色のボタン。でも、彼の学ランからはボタンが一つ残らずなくなっていた。

『どういうこと? なに、このボタン?』

(おれ)の制服の第二ボタン。お前にやりたくて先に取っといたんだ。他のヤツに取られたくなかったからさ』

 ワケが分からなくなっていた真樹に、少し照れ臭そうな彼がそう答えた。

 (はた)から見れば、この様子では岡原が真樹に好意を示したと思われるだろう。――ところが、彼の真意は真樹が期待していたものとは少しズレていた。

『ホントにいいの? あたしがもらっても』

『うん。だってさあ、今日はホワイトデーじゃん? 「チョコもらったんだから、ちゃんとお返ししろ」って友達(ダチ)がうるせえから』

『……へ?』

 喜びかけた真樹は、彼の答えにマヌケな声を上げた。
『俺、頭()りぃからさあ。お返しっつってもどんなモンがいいか分かんなくてさ。んで、今日卒業式だし、ボタンでもいいか、って』

『……はあ』

 これまた間の抜けた返事をしつつ、真樹は心の中で「いや、第二ボタンっていうのはそんなに軽いものじゃないんだけど」とツッコんでいた。

 そもそも、ホワイトデーのお返しだってそんな義務感でするものじゃないし、ましてや卒業式と同じ日だからボタンで済まそうなんて考え方は邪道でしかない。……と思ったのだけれど。

『何だよ、その不満そうな顔は? いらないなら返せよ』

『いらないとは言ってないじゃん! もらうよ! もらえばいいんでしょ!?』

 返せと言われれば、正直言って返したくない真樹なのだった。

『あ……、ありがと。――あのさ、岡原。あたし……』

『――ん? ナニ?』

 告白するのはあれが最後のチャンスだったのに、肝心な時に尻込みしてしまってなかなか伝えたい言葉が出てこないまま、真樹の視線は何度も宙をさまよった。

『だから何だよ?』

『…………ゴメン。やっぱいいや』

 ()かすような彼の声に、最後はとうとう引き下がってしまった。

『――お~い、将吾! これからカラオケ行こうぜー!』

『おー、今行く! ――あのさあ、真樹』

『ん?』

 つい数分前と、二人の立場が逆になった。岡原は何か言おうとして、――やめてしまった。

『いや、ゴメン。何でもねえよ。ダチが待ってっから俺行くわ。じゃあ、元気でな』

『うん。――えっ!? ちょっと待ってよ、岡原っ! 今何て言おうとしたの!?』
『――真樹、そろそろ保育園に拓海のお迎えに行かないと。ね?』

 真樹は彼を追いかけようとしたけれど、母がそこへ迎えに来たので、追うのを(あきら)めた。

『うん……』

 真樹は母と一緒に、拓海が通っている保育園までの道をトボトボと歩いていた。
 何だかスッキリしなかった。何か重いものが胸につっかえているようで……。

『真樹、岡原くんにちゃんと告白できた?』

 真樹の冴えない表情を心配してか、母が(つと)めて明るく訊ねてきた。

『ううん、最後の最後で尻込みしちゃってできなかった。コレはもらったんだけどね』

 真樹はセーラー服の上に羽織っていたカーディガンのポケットから、岡原がくれた第二ボタンを取り出して、母に見せた。

『あら、ボタンじゃない! よかったわね』

『そうでもないんだよね……。アイツに言わせれば、このボタンはただのチョコのお返しみたいだし。別にあたしのことが好きでくれたワケじゃないみたいだもん』

 でも彼は、別れ際に真樹に何かを伝えようとしていた。――それがまさか告白!? なんて、真樹はうぬぼれたりしなかったけれど。

『えっ、じゃあ失恋したって決まったわけじゃないのね?』

『さあ? 分かんない。っていうか、何も終わってないよ。中途半端に幕引かれちゃった感じだもん』

 ――そう、まさに〝中途半端〟だった。自分の気持ちも伝えられず、彼の気持ちを知ることもないまま、真樹と岡原の中学生活は幕を閉じたのだった。

****

 ――それから五年間、二人は別々の道を歩むことになった。

 真樹は都立高校に進学し、中学時代と同じく文芸部に入った。そして二十歳でライトノベル作家としてデビューし、現在に至る。
 
 一方、岡原にはサッカー強豪校からの推薦入学の話が来ていたけれど、彼はそれを断ったらしい。理由は家庭の事情なのだとか。
 ――『俺、働きながら定時制に通うんだ』

 そう言っていたのは覚えているけれど、彼がその後どうしているのか真樹は知らない。

 連絡先は知っているけれど、真樹から連絡を取る勇気もなかった。
 彼は真樹のことなんか忘れているかもしれないのに、今更連絡したって迷惑がられるだけだ。――そう思うと、勇気が出なかったのだ。

****

 ――真樹は回想から意識を戻し、再び同窓会の案内状を読んだ。

『皆さん、お元気ですか?
 僕達が渋谷(しぶや)区立第一中学校を卒業して、今年でちょうど五年が経ちました。
 この節目に、一度皆で母校に集まりませんか? 皆で思い出を語らいましょう。
 四月十五日までに出席・欠席の返事を下さい。
                       四月 一日   田渕(たぶち) 剛史(たけし)

 その文面はパソコンで書かれてはいたものの、とても丁寧な文体である。中学時代の真面目な彼そのものが(あらわ)れているようだ。
 真樹もまだ駆け出しとはいえ、言葉を武器にしているプロの作家の端くれだ。読んでいて気持ちのいい文章というのはすぐ分かる。

「――そういえば田渕くん、なんでこの住所知ってたんだろ? お母さんから聞いたのかな?」

 真樹は首を傾げた。彼とは特別親しかったわけではないので、引越しの挨拶状も出した覚えはない。
 実家から転送されたのならまだ分かるけれど、このハガキはそうではないらしい。
 可能性として高いのは、母が中学校に娘の新居の住所を伝え、それが()った卒業生名簿が彼のところに送られたというところか。

「っていうか、二十九日!? 祝日じゃん!」

 真樹は日時に目を遣ると、(うめ)いた。

「休み取れるかな……」
 それは本業の作家稼業の方ではなく、書店でのバイトの方の心配だった。

 言うまでもないけれど、書店も商店。つまりは客商売である。土・日・祝日には来店者も多くなる。当然、人手も多い方が店側としては助かるので、暗黙の了解として従業員もそういう日に休みを取ることを避けるのだ。

 今の時代は電子書籍の需要が増えてきているので、紙の本はなかなか売れないといわれているけれど。それでも紙の本の方が好きだという人はまだ多く、真樹のバイト先にもそういう人達がたくさん客として来店する。

 そこは大手のチェーン店ではなく個人経営の店舗なので、実は真樹目当てに来店してくれている常連のお客もいたりするのだ。
 そして、真樹がライトノベル作家の〈麻木マキ〉だと知っているファンもその中にいたりする。――それはさておき。

「……とりあえず、まだ日にちはあるし。明日出勤した時、店長に相談してみるか」

 事情を話せば休みをもらえるかもしれないし、もしかしたら有給扱いにしてもらえるかもしれない。

「……いや、いくら何でもそれは!」

 自分の甘すぎる考えに、つい(みずか)らツッコミを入れ、首をブンブンと振る真樹だった。

 ―― ♪ ♪ ♪ ……

「わわっ! 電話!?」

 不意に鳴り出した着信音に、真樹は飛び上がった。母からだろうかと思い、スマホの画面を確かめた彼女は目を疑う。

「えっ、岡原!? マジ?」

 この五年間、真樹からかけたことはもちろんなかったけれど、彼の方からかかってきたのも、実はこれが初めてだ。

「……も、もしもし?」

 緊張で震える指で通話ボタンをタップし、応答する第一声もかすかに震えた。

『真樹、久しぶり。岡原だけど』