第2ボタンより欲しいもの。 ~終わらない初恋~

 川辺店長は真樹のだんだんフェードアウトしていく説明を聞き、「分かった」と頷く。

「そういうことなら、遠慮しないで休みを取りなさい。同窓会で昔の友達に会うなんて、立派な理由じゃないか」

「えっ、いいんですか!?」

 真樹は驚きと嬉しさで瞬いた。「ダメだ」とか、「そんな理由で休まれても困る」とか言われたらどうしようかとヒヤヒヤしていたのだ。

「うん。当日のシフト調整は僕がしておくから、君は心配しなくていい。有給扱いにしてほしいなら、届け()して帰ってね」

「はいっ! ありがとうございます!」

「届出の理由は〝私用のため〟って書いてくれたらいいからね」

「はい」

 真樹は店長から有給休暇の申請用紙を一枚もらい、二十九日に有休を取る旨と、その理由をボールペンで書いた。

『私用(同窓会出席)のため』

「――店長、書けました! これでいいんですか?」

 真樹が用紙を提出すると、店長はそれをしっかりと受け取り、頷いた。

「うん、オーケーだ。確かに受理したよ。あと、当日の君の代打は僕の方で手配しておくから。同窓会、楽しんでおいで」

「ありがとうございます、店長。じゃあまた明日も頑張ります。お先に失礼します!」

「ああ、お疲れさま。明日もよろしく」

 店長にペコッと会釈し、タイムカードを押して真樹は事務所を出た。そのままロッカールームで制服のエプロンを外し、グレーの七分袖シャツの上からパーカーを羽織って()()につく。

「二十九日、休み取れてよかった」

 真樹はホッとして、歩きながら思いっきり伸びをした。
 しかも有給にしてもらえた。〝至れり尽くせり〟というヤツだ。

「とりあえず、岡原に知らせといた方がいいかな」
 真樹も同窓会に出られることになったと分かれば、彼は跳びはねて喜ぶだろう。

 当日までのサプライズにしようかとも一瞬考えたけれど、(ニブ)いアイツのことだから、毎日「どうなってんだ」と返事の催促が来そうだ。それはそれでウザい。

「……ま、いっか。晩ゴハンは昨日のカレーがあるから、今日は買い物しなくていいし。まっすぐ帰って、それから電話しよっと」

 家に着く頃には、四時半ごろになっているはずだけれど、電話して差し支えないのだろうか? 確か彼は、自動車修理工場に就職したと聞いていたけれど。もし仕事中だったら迷惑かもしれない。

「――あれ?」

 でも、昨日彼から電話があったのは、確か午後一時半過ぎだった。
 もしかして、彼は仕事を変えたのか。それとも、昨日はたまたま休みだっただけか。五年間一度も会っていないのだから、その間に転職していたとしても、何の不思議もないのだ。

「だからって、あたしから『アンタ、今どんな生活してんの?』って訊くのも何だかなぁだし」

 たとえ彼がどんな職に()いていても、今元気なんだから。自分からはあえて訊かないでおこうと真樹は思い、マンションへ向かって歩を進めた。

****

「――佐伯さん、ただいま!」

 真樹がいつもどおりに管理人室に声をかけると、佐伯さんもいつもどおりに笑顔で挨拶を返してくれただけでなく、わざわざ管理人室から出てきてくれた。
 手には何やら、スーパーのレジ袋を持っている。

「おかえり、麻木さん。仕事お疲れさま。昨日はカレーありがとうね。美味しかったよ」

 真樹は佐伯さんが差し出したレジ袋を受け取った。
 袋の中に入っているのは、昨日カレーをお裾分けした時のタッパーと、お徳用のマドレーヌ十個入りだった。カレーを分けてもらったお礼のしるしのようだ。
「お礼なんていいのに、わざわざ気を遣って頂いちゃって! ――カレー、甘すぎませんでした?」

 初老の管理人の心遣いに恐縮しつつ、真樹は訊ねてみる。

 彼女は基本的に辛いものが苦手で、お寿司も(いま)だにワサビ抜きしか食べられない。
 だから、カレーを作る時も毎回甘口になるのだけれど、男性の口には合わなかったのではないかと気になっていたのだ。

「いやいや、そんなことはないよ。(わたし)もこう見えて、辛すぎるのはあんまり得意じゃなくてね。むしろ、あれくらいでちょうど食べやすかったんだよ」

「そうなんですか。じゃあ、また何か作ったら持ってきますね!」

「うん、ありがとうね。――ところで麻木さん、何かいいことでもあったのかい?」

 唐突に訊ねられ、真樹は目を(みは)る。

「えっ? どうして分かったんですか?」

「だって、顔に書いてあるよ。『いいことありました』ってね」

「えー? やだなぁ、もう。実はそうなんですけどね」

 真樹は恥ずかしそうに両手で顔を(おお)ったけれど、嬉しさを隠すようなことはしない。

「今月の二十九日に、同窓会があるんですけど。あたし接客業だし、祝日にお休み取れるのかなーって心配で。でもね、有休がもらえることになったんです! もう嬉しくて!」

「へえ、よかったねえ。同窓会、楽しんでおいで」

「はい! それじゃ、また」

 真樹は佐伯さんに会釈して、集合ポストを覗きに行った。
 郵便は一通も来ていなかったけれど、代わりに一枚のメモが入っている。

『お仕事お疲れさまです。
 お帰りになったら連絡下さい。                片岡』

「――片岡さん、来てたんだ。何の用だったんだろ?」

 真樹がメモを手に首を傾げていると、佐伯さんが「ああ、そういえば」と思い出したように口を開いた。

「一時間くらい前だったかなぁ、スーツ姿の男性が麻木さんを訪ねてきてたよ。『何回電話しても繋がらないから来たんだ』って言うから、『麻木さんなら今日はバイトに行ってるよ』って私が教えてあげたんだ。そしたら彼、その場でそのメモを書いてポストに入れて行ったよ」

「そうですか……。わざわざ知らせてくれてありがとうございます」

 佐伯さんにお礼を言って、真樹は二階の自分の部屋に帰ると、改めて握りしめていたメモをじっくり見た。

 ……なるほど。管理人が言っていた通り、急いで書き(なぐ)ったような字である。普段の彼の字はもっと丁寧なはずだ。

 続いて、手帳型のカバーに入っているスマホの電源を入れると、不在着信を知らせるメッセージが十件入っている。
 そのうち四件は岡原の番号で、残りの六件は片岡だった。

 岡原の用件は見当がつく。どうせ返事の催促だろう。けれど、片岡の用件は?

(改稿の依頼かな? それにしては早すぎる気もするけど)

 第一稿をメールで送ってから、まだ一日しか経っていない。でも、担当である彼からの用件はそれくらいしか思いつかないし――。

「――う~ん、パソコンにはそれらしいメールは来てないなぁ。とりあえず、かけ直してみるか」

 真樹はひとまず岡原への連絡を後回しにして、片岡の携帯にかけた。ちなみに彼の携帯はスマホではなく、そろそろ絶滅しそうなガラケーである。

『――はい、片岡です。先生、やっと繋がりましたね!』

「ゴメンなさい。ついさっき帰ってきたとこなんで。――あ、メモ見ました。管理人さんから、片岡さんが来てたこと聞いて」

『ああ、そうでしたか。こちらも急ぎだったもんで、先生がお仕事に行かれてるってことをコロッと忘れてまして』
(……おいおい。大丈夫かな、この人)

 真樹はただただ呆れるばかりだ。担当編集者なら、作家のスケジュールくらい把握(はあく)しておいてくれないと!

「はあ。まあ、それは別にいいんですけど。――で、急ぎの用件って何ですか? もしかして、もう改稿?」

『えーと……、改稿といいますか……』

 〝急ぎ〟と言ったわりに、彼の言い方は何だか煮え切らない。一体、何をそんなに言い(よど)む必要があるのだろう?

「――片岡さん?」

 (ごう)を煮やした真樹が呼びかけると、彼は歯切れ悪そうにやっと口を開いた。

『実は、ヒジョーに言いにくいんですが。今日、編集長に言われたんです。麻木先生には今回の作品から、思いきって路線変更をはかってほしい、と』

「路線変更!?」

 思わず、真樹の語尾が()ね上がる。

 デビューしてからというもの、彼女が書いているのは、主に現代を舞台にしたファンタジー作品だ。あやかしものだったり、霊感ものだったりするのだけれど、登場キャラクターの関係性については友情までがいいところである。

 それが、ここへきて〝路線変更〟とは。しかも、片岡の言い方からして、真樹にはイヤな予感しかしない。

(もしかして、恋愛系のジャンルに変更しろとか?)

 だから、それはムリだって昨日も言ったのに! という抗議の言葉を、彼女はすんでのところで飲み込んだ。

『そうなんですよ。編集長が言うには、ストーリーに恋愛を絡めてほしいんだとか。僕は反対しようとしたんですよ? 昨日、先生からお断りされたばかりでしたしね』

「……はあ」

 意外だった。片岡が、真樹の肩を持とうとしてくれたなんて。

『でも、途中で折れちゃいました』

「……は?」

『まあ、イチからベタベタな恋愛ものを書くわけじゃなくて、今まで書いていたものに恋愛要素を絡めるだけなので、それなら先生もいけるんじゃないかと思いまして』

「ええ、まあ……それくらいなら何とか」

 と答えてはみたものの、どの程度の恋愛要素を入れなければオーケーが出ないのか、その塩梅(あんばい)が真樹には分からない。
(片想い止まり……じゃ、納得してもらえないだろうなぁ)

 彼女の経験では、その程度が限度だ。だってそれ以上の恋愛は経験していないから。

「ねえ、片岡さん。どうしてもそれに従わないといけませんか? あたしが今まで書いてたようなのじゃダメなんですか?」

 真樹は背中まで届く長さの髪をぐしゃぐしゃと()き乱しながら、(すが)るように担当氏に訊ねる。

「っていうか、そもそもどうして急に、路線変更なんて話が出たんですか? その理由を教えて下さいよ」

 昨日まで、そんな話は一度も出ていなかったのに。理由を聞かなければ、彼女も納得がいかない。

『……実はですね、先生。僕も前々から思ってたんですが。編集長が言うには、先生のお書きになる作品の内容が、最近マンネリ化してきてるんですよ』

「マンネリ化……」

 真樹は茫然(ぼうぜん)とその一言をオウム返しした。――まあ、自覚がなかったといえばウソになるけれど。

『そうです。内容が似通ってくると、その系統が好きなファン層にしかウケなくなる。すると、新たな読者層も獲得できなくなるんで本も読まれなくなるんです。一部の読者にしか読まれない本は、これ以上出しても仕方ないというのが編集長の意見でして』

「だから、路線変更が必要だってこと? 新たな読者層を獲得するために。でも、なんかそれって読者に()びるみたいで、あたしはイヤだなぁ」

 真樹は不満を漏らす。

 読者が望むような作品しか書けなくなったら、作者は自分が本当に書きたい作品を書けなくなってしまう。
 でも、読者がいないと商業作家という職業が成り立たないこともまた事実で、それが現実なのだ。

 作家という職業で食べていくのが夢なのだから、ワガママを言っている場合じゃないのは真樹にも分かっている。分かっている……のだけれど。

(なんだろう、このジレンマ)

『まあ、先生のおっしゃりたいことも分かりますけどね。我々出版業界っていうのは、読者さんあっての商売ですから。それに、路線変更は先生にとって悪いことばかりでもないと僕は思いますよ』
「……っていうと?」

『今まで先生の作品を読んだことのなかった人達にも、先生の本を手に取ってもらえるってことです』

「ああ……」

 真樹にはその意味が何となく分かった。

 たとえば、今日来店した橘さん。彼が〈ブックランドカワナベ〉で取り寄せていたのも恋愛小説だった。
 もし真樹が恋愛ものの本を出すようになったら、彼が手に取ってくれることもあるのだろうか――。

『その評判がよければ、SNSで拡散されて知名度も上がります。そしたら既刊(きかん)本もまた売れます。メディアミックスもされるかもしれない。まさにいいこと尽くめじゃないですか!』

「そう……かもしれないですけど」

 〝メディアミックス〟という言葉は、真樹にとっても魅力的な響きを秘めていて、思わず頷きかけた。

『僕はこれでも、先生の作家としての将来を真剣に案じてるんですよ。先生だって、このままでいいとは思ってないでしょ?』

「う…………、それは……まあ」

 痛いところを衝かれ、真樹はたじろぐ。

『でしょ? だったら、これを機に思いきってこの話に乗っかってみませんか?』

 片岡が真樹の担当について一年が経つけれど、知らなかった。彼がこんなに乗せ上手な男だったとは!

「…………分かりました。あたし、やってみます。――あの、発売日って確か再来月でしたっけ?」

『はい。ですから、締め切りにも変更はありません。でも、先生はお仕事が早いですから大丈夫ですよね?』

「……はい。多分、大丈夫です」

「大丈夫ですか?」ではなく、「大丈夫ですよね?」と念を押されると、「大丈夫じゃない」とは言いにくい。真樹は押しに弱いのである。

「今からプロットを練り直せば、何とか」

 内容を変更する以上、すでにできているプロットはもう使えなくなる。使うにしても、そのままというわけにはいかない。多少手を加える必要はあるだろう。
『そうですか。ムリを言ってすみませんが、どうかよろしくお願いします。新しいプロットができたらまた連絡下さい。――できるだけ、なるハヤで』

「なるハヤ……ね。了解です。じゃ、失礼します」

 終話ボタンを押した真樹は、ふーっとため息をついた。

「――なんか、めっちゃ疲れた」

 電話で話しただけなのに、このどうしようもない疲労感は何だろう? ずっと片岡のペースに振り回されっぱなしだった気がする。

「大変なことになっちゃったなぁ……」

 せっかく第一稿の入稿が終わったところなのに、まさかの内容変更でプロットからやり直し。しかも、最も苦手としている(というか、ほとんど不可能といってもいい)恋愛要素を入れろという。

 断ることもできたはずなのに、言葉(たく)みな片岡にホイホイ乗せられ、引き受けるハメになってしまった。真樹にとって一生の不覚である。

「『マンネリ化してる』なんて、そんなのあたしが一番よく分かってるよ……」

 分かっていても、変えようがなかった。いや、最初から諦めていたのかもしれない。
 自分には、恋愛ものは書けないんだ、と。

 でも、それじゃダメなのだ。最初から〝ムリだ〟と言い切ってしまったら、いつまで経っても前に進めない。現状を打破することなんてできっこないのだ。
 きっとそれは、恋愛にもいえることだ。ただウジウジ悩んでいるだけでは、何も変わらない。

「……つまり、あたしも変わんなきゃ、ってこと?」

 自問自答した真樹は、ハッとした。
 そうかもしれない。同窓会も、作品の路線変更も、彼女が変わるためのいい機会だと(とら)えればいいのではないだろうか――。

「――よしっ! まずは……」

 真樹はスマホの着信履歴を開く。帰宅してから三十分ほど経っていたけれど、決めていたとおり、岡原に連絡しようと思ったのだ。

 これは自分が変わるための、最初のステップだ。――彼女はそう思った。
『――はいはい。俺』

 コールすると、二回で彼は出た。

「あっ、もしもし。あたし、真樹だけど」

 きっと彼の方にも真樹の名前が表示されているだろうから、名乗る必要はないのだろうけれど。つい習慣で名乗ってしまう。

「なんかゴメンね。あたし今日バイトで、電源切ってる間に何回か電話くれてたみたいだけど」

『ああ、今日は仕事だったのか。俺の方こそゴメンな。昨日はあの時間にかけて大丈夫だったからさ、今日も大丈夫だと思って』

「おいおい。――っていうか、アンタ今何の仕事してんの? 平日のあの時間に電話かけられるって……。確か、車の修理工場に就職したって聞いてたけどな、あたし」

 呆れつつ、真樹は自分から彼の今の職業について、それとなく訊ねてみた。

『おう、そうだよ? つうか、今も変わってねえけど。昨日は休みで、今日は昼休憩の時に電話したんだよ』

「……ああ、そうなんだ」

 そういえば、彼からの不在着信の時間は十二時から一時の間に集中していたような気がする。

『――ところでさ、二十九日どうなった? 休み取れそうか?』

「あー、うん。あたし、そのことで電話したんだ。今日ね、店長に相談したんだけど、そしたらなんと有休にしてもらえたんだ♪」

『有休? マジで!? 太っ腹だな、お前んとこの店長』

 驚いた岡原の声は、真樹の記憶にある彼の声と変わっていない。

「うん。あたしもビックリして、『いいんですか!?』って思わず訊いちゃったもん。だから、とりあえずそっちはクリア」

『そっか、よかった。……つうか、〝そっちは〟って? 他に何か問題起きたのか?』

「……うん。それがねえ」

 こんなことを岡原にグチるのは真樹も気が引けたけれど、それでも話すことにした。

「ちょっと、本業の方で困ったことになってさぁ。――実は今度出す新刊、第一稿の入稿が終わったあとで、急にプロットからやり直すことになって。しかも、あたしが一番苦手な路線にしろっていうんだよ!? もう参っちゃうよね」