そんな未来、くそくらえだと思いたいのに、気持ちがどんどん沈んでいく。
 何も言葉を返せない俺を見て、母親は震えた声で謝った。
「普通の子に産んであげられなくて、ごめんね……」
 その言葉を聞いて、俺はついカッとなり弾かれるように言葉をぶつけた。
「謝んなよ。結局、自分が化け物生んだ親だって周りにバレるのが嫌なんだろ! そう言えよ! 俺にはずっと聞こえてんだよ、本心が!」
 勢いに任せて今までの悲しみ全部をぶつけると、母親は力なく涙を流す。
 つうっと一筋の涙が頬を伝い、ソファーにしみを作っていく。
「そうよね、全部聞こえてるよね、悲しかったよね……。ごめん、ごめんね慧……」
 また謝りながら、ただただ涙を流す母親。
 俺はもう、何も言えなくなってしまった。
 怒りよりも悲しみよりも、圧倒的な絶望感が波のように押し寄せ、心を蝕んでいく。
 俺がいたから。俺なんかが生まれたから、母親は壊れてしまった。
 俺が、母親の人生を狂わせた。
 その時、突然家電が鳴り響き、俺は肩をビクつかせる。タクシーが着いたのかと思い電話を取ると、思わぬ人物の声が聞こえてきた。
「はい、成瀬です」
『……あなた、岸野明人ですか?』
「は……?」
 岸野明人、という、思い出したくないすべてが詰まっている名前を聞いて、心臓がドクンと大きく脈打った。いったい、誰が電話なんて……。
『私、同じ小学校に通っていた美園桐です。おじいちゃんから無理やり聞き出してあなたのお家の電話番号を知りました。あなたが今、柚葵と同じ高校にいると聞いたので……』
 美園桐。小学校の学園長の娘で、学内でもその気の強さで目立っていた人物だ。そして、今も唯一柚葵と仲良くしている友人。
 俺に直接連絡をしてきた理由が、なんとなく想像できてしまい、額に汗が滲む。
『どうしてまた、あの子に近づいたの? 贖罪のつもり? 同じ高校になったのは偶然だとしても、何もしないでいてくれたらよかったのに』
 怒りと悲しみが混じった声に、何も返せなくて押し黙る。
 予想通り、美園は、俺が再び柚葵に関わったことに憤怒している。
『あんたのせいで、柚葵は声を失った事実は一生消えない。柚葵が許したって、私が許さない』
「許してもらうつもりは、毛頭ない……」
『じゃあ消えてよ! あの子の記憶から今すぐ消えてよ!』
 力なく答えた俺の言葉に刺激され、美園は激しく声を荒げた。
 俺は受話器を握りしめたまま、心を読まずとも分かってしまう彼女の激しい怒りに、打ちのめされる。
『柚葵は、転校した後も同級生が怖くて、中学三年間もずっと独りで過ごしたの! 私ともしばらく話せなくなって、食事も取れなくなって、でも全部自分で乗り超えて、やっと笑顔を見せてくれるようになったのに……』
「え……」
 ――知らなかった。まさかそんなに最近までそんな状況で過ごしていただなんて。
 柚葵の家族や、周りにいた人の気持ちを想像すると、胸がちぎれそうな思いになった。
 その様子をずっとそばで見ていたのは、きっと美園だったんだろう。どんなに辛い気持ちで、柚葵のそばにいたんだろう。
『自分の罪を晴らしたかった? 優しい自分に生まれ変わりたかった?』
「俺は……」
『あんたも小学校のクズ同級生とおんなじだ。あいつら、偶然街で再会したとき、許してくれる?あの時はごめんねって……、私の隣にいる柚葵に簡単に頭下げやがった。反吐が出る。自分が綺麗になりたいだけのくせに。柚葵の私物を捨てたことも、集団でシカトしたことも、SNSに面白おかしく柚葵のことを書き込んだことも、全部時間が解決してくれたものだと、勝手に思い込んで、“過ぎたこと”にして……!』
 何も言い返す言葉なんかない。ただ受け止めることしかできない。俺が見て見ぬふりをしている間に、柚葵はそんな仕打ちまで受けていただなんて。
 心の中に大きな穴が開いていくのを感じながら、俺は受話器を握る力だけ残して、ただただその場に立ち尽くす。
『あんたは、柚葵が思い出したくないトラウマそのものだから。だからもう、柚葵に関わらないで。もうあの子から、何も奪わないで。私と柚葵の関係は、あんたのせいでまた壊れかけてる。自分を許してもらうための謝罪なんか、いらないから』
 そう言い残して、一方的に通話を切られた。
 ツーツーという無機質な音が鼓膜を震えさせ、その音に体温すらも奪われていくようだ。
 受話器を持ったままだらんと垂れ下がった腕に、何も力が入らない。
 ……大切な人ほど、自分から遠ざけるべきだと、言われているようだった。
 俺は、柚葵から大切な友人すら奪ってしまうところだったのか。
 何もかも、この能力のせい……。
 いや、そうじゃない。能力のせいなんかじゃない。ずっと言い訳のようにしてきたけれど、これはすべて“俺”が巻き起こしたことだ。“俺のせい”だ。
「慧、大丈夫……? なんの電話だったの……?」
「なんでもない」
 心配そうに問いかける母親にそう返すと、丁度タクシーが家の前に着いた。
 俺は母親を病院に送りながら、車の窓から流れる景色を茫然と見つめる。

 俺がこの世にいなかったら……、記憶からいなくなれば、きっと何もかも元通りになる。 でも、柚葵を愛しく思う気持ちが、自分のことを弱くさせる。“決断”できなくなっていく。
 気づいたら、自分の腕を強く握りすぎて、爪が食い込み内出血になっていた。
 でも、こんな痛みなど、俺が傷つけてしまった人にくらべると、足りなさすぎるほどだ。
 自分を許してもらうための謝罪なんかいらない。その通りだと思った。
 今の俺にできることは、たったひとつのことしかない。
 『あの子の記憶から今すぐ消えてよ!』という、美園の言葉が、いつまでもいつまでも頭の中で響き続けた。
■さようなら side志倉柚葵 

 成瀬君が、二週間学校を休んでいる。
 秋も深まり、だんだんと風が肌寒く感じてきたころのことだった。
 噂によると、お母さんが倒れて病院に運ばれて、大変だったようだ。心配になり何通かメッセージを送ったけれど、既読マークが付くだけで返事が来ない。
 何もできない自分がもどかしくなるのと同時に、まだ成瀬君のことを何も知らない自分に気づいた。
 あんなに目立っていた成瀬君がいなくなっても、このクラスは変わらず毎日を送っている。こんな風に日常は作られていくのかと思うと、少しゾッとした。
 あんなに影響力がある人がいなくなったのに、皆は何も変わらないでいられるんだ。
 その事実がとても悲しく、せめて自分だけは毎日成瀬君のことを考えてあげようと思った。私には今、それしかできないから。
 連絡を待っているのは、成瀬君だけじゃない。桐からの連絡も、願うように毎日待っている。けれど、スマホに来るのは広告の通知だけだ。
 今日は桐に、直接会いに行こう。無視されても、怒られても、会いに行こう……。
 放課後のHRが終わり、すぐに荷物をまとめて帰ろうとすると、丁度教室に入ってきた人とぶつかりそうになってしまった。
「ねぇ、成瀬、今日もいないの?」
 ぶつかりそうになった人に急に話しかけられ驚き顔をあげると、そこには前に成瀬君ともめていた陸上部の人がいた。たしか名前は三島君、だったような。
 話すことができない私は、彼の質問に首振りで伝えるしかない。
 彼はしばらく私を不思議そうに見つめてから、「ああ、あんたが話せないって噂のやつか」と、あっけらかんと言い放つ。あまりにもストレートな言葉に、私は思わず硬直する。
「でもあんたくらいだよな。成瀬のそばにいられるの」
 私はふるふると首を横にふる。
 当たり前だけど、私以外にも彼と仲のいい生徒はたくさんいる。
「あのさ、成瀬に会ったら伝えておいて。学内選抜まで、五か月切ってんぞって」
 三島君は、とても真剣な顔をしている。
 彼は本当にただ、成瀬君と一緒に戦いたいだけなんだ。
 そのまっすぐな思いがとても眩しく感じて、私は気づいたらうんと首を縦に振ってしまっていた。
 すると、彼は「サンキュ」と口角をあげて笑い、こう付け足した。
「部活に戻る理由は、俺が何回もしつこいからだって、そう部員に説明すればいいからって、伝えておいて」
 それに対しても、こくこくとうなずくと、三島君はまた少し笑ってくれた。そして、「なんだ、意外と普通に話せんじゃん」と言い残してから、颯爽と教室を去っていく。
 意外と話せる、という言葉が、予想外に嬉しくて気持ちが少し明るくなる。
 言葉は話せてないけど、三島君の会話術のおかげで、久々に家族以外の人とちゃんとコミュニケーションとれた気がする。
 桐と成瀬君がいないと、私の世界はこんなにも狭くて静かなんだと、思い知らされる。
 私は、三島君の伝言を成瀬君に届けようと、早速メッセージを送ってみた。
 しかし、返信は来そうにないことは、どこかで分かっていた。
 通知が来ないスマホを持ったまま、私は桐に会いに歩みを進める。
 向き合うことはとても怖いけれど、今ここで桐との縁を切りたくない。絶対に。
 丁度校門を出かけたところで、ぽつぽつと冷たいものが頭皮に当たるのを感じた。
 雨だ……。今日は傘を持っていない。こんな時に限って降ってくるなんて。
 灰色の空を見上げて一瞬途方に暮れたけれど、私は気にせず駅まで走って向かうことにした。
「柚葵!」
 しかし、走り出したところで、青い傘を持った女生徒に引き留められる。
 お嬢様学校として有名な高校の制服を纏った桐が、目の前にいた。
 桐だ……。ようやく、会えた。嬉しさと安堵の気持ちが胸の中に広がっていく。
 でも桐は、とても気まずそうな顔をして、私に半分傘を分ける。
「この前はごめん。少し気が動転してた」
 彼女の言葉に、 私はううんと首を横に振る。
 傘ひとつ分の世界の中で、私は桐のどんな言葉も聞き逃さないようにと、耳を澄ませる。
「私、どうしても、柚葵と話せなくなった時が忘れられなくて……、怖くて……」
 桐は私と目を合わせないまま、苦しそうに言葉を探している。
 道行く人が、私と桐のことをちらちらと見ながら駅の方へ向かっていくけれど、もうそんなことはどうでもよかった。
 私は、傘の持ち手を握りしめている彼女の手をそっと握りしめて、静かに言葉を待った。
「柚葵は、私のこと、唯一偏見なしで見てくれた友達だから……」
 当時桐は、“学園長の娘だから”という理由で、遠ざけられたり、調子に乗っていると思われたり、先行するイメージにふりまわされる日々を送っていた。
 鈍い私は、何も気にせず桐に話しかけていただけだけど、そんなことに少しでも彼女が救われていたのなら、私はとても嬉しい。
 いつも助けてもらうばかりで、桐に何かしてあげられたことなんてただの一度もないけれど、彼女は私にとってとても大切な友達で、失いたくない存在だ。
「あ、ていうかいきなり来てごめん。どこか行く際中だった……?」
 無理やり笑って気まずさを誤魔化そうとする桐に、私はメモではなく手話と身振りで気持ちを伝える。
 桐を指さしてから、ぎゅっと手を握り締める。
『桐に、会いに行こうとしてた』
 ゆっくりと口の形を作ると、何を言いたいのかが伝わったのか、桐は泣きそうな顔になる。
 すべてを分かってもらうには、きっととても時間がいる。
 だけど、私は逃げたくない。自分の気持ちからも、大切な人からも。
「柚葵の大切なもの、私も大切にしたい……。でも少し、時間が欲しいんだ……っ」
 眉尻を下げてそう言葉を漏らす桐に、私も思わず泣きそうになる。
 首を何度も縦に振って、「大丈夫」という気持ちを精一杯伝える。
 それから、メモにパパッと言葉を打ち込み、『会いに来てくれて、ありがとう』と伝えた。スマホ画面を見て、桐はポロッと一粒だけ涙をこぼす。
「柚葵。岸……成瀬とは、今どうなってる?」
 桐は親指でぐっと涙をぬぐってから、真剣な顔で私にそう問いかける。
 じつは二週間休んでいて会えていない、ということを伝えると、桐は眉間にしわを寄せて何かを考えこむ顔つきになった。
「ごめん、それ、私のせいかもしれない。じつはこの前、おじいちゃんから無理やり聞き出して、成瀬に電話をかけた」
 え……? 成瀬君に桐が電話を……?
 いったい、何を話したんだろう。
「柚葵に近づかないでって、かなり強く警告してしまった。本心だったけど、でも、感情に任せすぎた……」
 反省したように目を伏せる桐に、私はもう一度「大丈夫」という意味を込めて首を縦に振る。
 そうか、私の知らないところでそんなことが起こっていただなんて……。
 でも、お母さんが倒れて大変だったことは知っているし、理由は桐だけではないと思う。
 本当は自分から会いに行きたいけれど、場所も知らないし……。
「柚葵。会いに行きたい?」
 そう問われ、私は反射的にこくんと頷く。
 すると、桐は一瞬何かを考えてから、絞り出すように提案した。
「じつは、電話番号調べた時に、住所も見ておいた。すごく大きなお屋敷で私も何度が通ったことがある場所だったから、すぐに分かるよ。一緒に行こうか」
 桐の提案に、私は何も考えずにすぐに首を縦に振る。
 本当はまだ私と成瀬君を会わせたくないはずなのに、一緒に行こうか、と言ってくれた桐に感謝の気持ちがあふれる。
 桐は何かを覚悟したように、「分かった」と言ってから、私の手を引っ張った。
 私たちは傘を盾のようにしながら、学生で込み合った道を少し早歩きで駆け抜けていった。


 昭和初期時代に建てられたというお屋敷は、本当に立派な建物だった。
 立派なお庭を、長いレンガの塀が囲んでいる。簡単には立ち入れなさそうな空気を肌で感じる。
「ごめんだけど、私は成瀬に合わせる顔がないから、ここまでにしておく」
 門の前まで着いてきてくれたことに、感謝しかない。
 私は申し訳なさそうにする桐に感謝の気持ちを伝えて、ぺこっと頭を下げる。
 本当は、ひとりで会いに行くことはとても勇気がいるけれど、不安な気持ちを無理やり笑顔で吹き飛ばす。
「何かあったら、すぐに連絡してね。これ、小さいけど予備の折り畳み傘、使って」
 桐はやっぱり二人で会うことが複雑なのか、何か言いたげな様子だったけれど、傘を差し出してゆっくり去っていった。
 桐、ありがとう。胸の中でそうつぶやく。ここからはひとりで、頑張らなくちゃ。
 煉瓦でできた洋風のお屋敷を見上げて、私はふうと大きく息を吐いた。
 しかし、中に入るといっても、いったいどこから連絡を取ればいいのか。
 一般家庭にあるようなインターホンも見つからない。途方に暮れていると、家の中から誰かが出てくる気配がした。思わず門の陰に隠れてしまったけれど、シルエットからして恐らく成瀬君だ。
 会ったら一言目に、なんて言おう。お母さんは大丈夫? ずっと大変だった? 何か抱え込んでいるの? 桐とはどんなことを話したの?
 聞きたいことだらけで、言葉がうまくまとまらない。
 だんだんと足音が近づき、比例するかのように心音も大きくなっていく。
「何してんの?」
『わっ、びっくりした!』
「声、駄々洩れ。誰かと思って出てきたら、やっぱり柚葵だった」
 そうか、私の騒がしい心の声を読み取って出てきてくれたのか。
 動揺しつつも、傘も差さずに出てきた成瀬君に、私は慌てて傘を分ける。もうそこまで強い雨ではなく、小雨程度になっていたけれど、成瀬君の柔らかそうな髪の毛にはしずくがついていた。
 二週間ぶりに会ったというのに、成瀬君の様子はいつも通りだ。
「このままだと濡れるから、家入る?」
『えっ、お家の人は』
「今は誰もいない。母親も別荘で療養してる」
 どうぞ、と言われるがままに、私は敷地内に足を踏み入れる。
 とても綺麗に整えられた芝生を踏みしめて、大きな木製のドアを開けてもらった。ドアの向こう側には、想像通りどれも質のよさそうなヴィンテージものの家具が並んでいる。
 私は辺りをきょろきょろと見渡しながら、お邪魔します、と心の中でつぶやいて家の中へ入った。
 歴史を感じるこげ茶の床だけれど、とても手入れが行き届いている。リビングへ通されると、そこにはまた趣のあるソファーが置かれていた。
「ここ座ってて。何か飲み物用意してくる」
『あ、おかまいなく!』
 突然来てしまったのに、彼が何も言わないでいてくれるのは、だいたい私が聞きたいことを察しているからだろうか。
 さっき、お母さんは療養中と言っていたけれど、回復へと向かっているのだろうか。
 あれこれ考えていると、目の前に温かい紅茶が置かれた。
「どうぞ」
『あ、ありがとう……。すごい立派なお家だね』
「曾祖父もここに住んでたから、だいぶ古いけどね」
『えっ、ここに芳賀先生が!?』
 驚き、私はまた異国の地に来たかのように辺りを見渡してしまう。
 その様子を見ながら、成瀬君も私の隣に座って、淹れたての紅茶を飲んだ。
 至近距離で座られて、思わずドキッとしてしまう。いつも絵を描くときは、目の前に座ってもらっていたから。
「母親はもう元気だよ。心配かけて悪い」
『そうだったんだ。よかった……』
「ずっと連絡取れなくてごめん。ちょっと……整理したいことがあって」
 整理したいこと……?
 ひとまずお母さんが無事なようで安心したけれど、成瀬君の言葉や表情が気になる。
 何か少し疲れているような、生気のないような、そんな顔をしている。
 じっと彼の顔を見つめていると、成瀬君は「大丈夫」と力なく答える。
「知りたそうにしてたから言うけど、この前、美園から連絡があった」
『あ……、そのこと、話したかった』
「めちゃくちゃ柚葵のことを大事に思ってるって、伝わった」
 成瀬君の口ぶりから、どんなことを言われたのかは話してくれなさそうな空気を感じる。
 私も、深堀はしない方がいいのかなと思い、彼の言葉を静かに待つ。
 桐は少し、反省したような顔をしていた。感情のままにぶつかってしまったと。
 成瀬君はそれを、どう受け止めてくれたんだろう。
「美園とはもう、仲直りできた?」
『うんっ、ついさっき……って、え、成瀬君はどこまで知ってるの?』
「今、美園の話をしてる柚葵の記憶をたどって全部見た」
『そ、そっか……』
 桐とのやりとりを、もう全部知られてしまったんだ。
 成瀬君、どう思ったかな。自分のせいで私と桐の仲が悪くなってしまったとか、思っていないといいけれど……。
 様子をうかがうようにもう一度成瀬君の目を見つめると、彼は彫刻みたいに美しい顔のまま、何の感情も目に宿していない。
 なんだか今日は、いつもと違う。何かあったのかもしれない。
 直感的にそう思ったけれど、成瀬君にどこまで踏み込んでいいのか分からない。
「柚葵」
『え……』
 ひとりで勝手に考え込んでいると、いつのまにか成瀬君の顔が近づいていた。
 まつげが一本一本数えられてしまうほどの距離になり、私は呼吸の仕方を一瞬忘れる。ドクン、ドクン、と胸が飛び跳ねるように心臓が激しく脈打つ。
 思わずぎゅっと目を瞑ったけれど、数秒経っても何かが起こることはなかった。
『成瀬君……?』
 ゆっくり瞼を開けると、切なそうな顔をした成瀬君は、静かに「ごめん」と謝った。
 何に対する、ごめんなんだろう。私は今、キスをされるところだったのだろうか。何も分からなくて、ひたすら疑問符を頭の中に浮かべる。
『成瀬君、もしかして何かあったの……?』
 自分の直感に従いそう問いかけると、成瀬君は瞳の中の悲しい色を濃くさせる。それから、少し言いづらそうに、ぽつりと話し始めた。
「柚葵と一緒にいるのは、贖罪かって、美園に言われた」
『え……』
「図星だったから、俺は何も言えなかった」
 さっきまでの切なそうな顔とは打って変わって、また感情の読み取れない固い表情に戻っている。
 私は動揺したまま、彼の言葉の意味を必死に探す。