ハッキリとそう告げると、桐はまた瞳の色を失って、感情をどこにぶつけたらいいのかわからないというように、力なくうなだれる。
そして、買ってきてくれたお菓子もそのままに、彼女はスッと立ち上がると部屋を出ようとした。
すぐに手を掴んで引き留めようとしたけれど、桐がついに堪えていた涙を流したのを見てしまい、私は行き場のない手を下におろした。
そして、桐が小さな声で言い残した言葉を、狼狽しながら聞くことしかできない。
「成瀬のことを許す柚葵を、許せないのって思うのは、どうしてなんだろう……。私、何様だよって話だよね」
そう、とても苦しそうに言うから、私も思わず泣きそうになってしまった。
どんな言葉を彼女にかけてあげたらいいのか分からない。
でも、ただひとつ揺るがないのは、桐も成瀬君も、私にとって大切な人だということだった。
「ごめん。少し頭冷やしてから、また連絡するね」
バタンとドアが閉まる。自分にとって大切な世界が、またひとつ閉ざされたように感じて、私はその場から動けなくなった。
■未来 side成瀬慧
一緒にいたい。離したくない。
それは、生まれて初めて、自分の気持ちに正直になって、強く願ったことだった。
彼女が望んでくれるまで、隣にいてほしい。卒業しても、この先もずっと。
柚葵と一緒にいる方法……それは、たったひとつしか無い。
俺の能力を消すこと。それだけだ。
人の記憶を消して、“リセット”することはできても、能力が完全に消えるわけではない。
ましてや、柚葵の記憶の中から自分を消すことなんて、今の俺には考えられない。
何か他の手立てはないか、俺は片っ端から曾祖父の書斎を漁ることにした。しかし、これといった手がかりは出て来ない。
「ここも何もなしか」
今日も学校から帰るとすぐ、曾祖父の書斎へ引きこもり、みっちり詰まった本棚を下から順に漁っていく。一冊引き抜くと左右の本が飛び出てしまうくらい、かなりの密度で資料が詰まっている。途方もない作業に、俺は天井の高さまである本棚を見つめて、床に座り込んだ。
調べるごとに、俺の中にはある感情がふつふつと湧き上がっていた。
どうして、曾祖父は遺伝することが分かっていたのに子を作ったのか。
この苦しみと呪いを子や孫に遺伝させても構わないと思ったのか。能力が遺伝することは手記に残されていたので、知らなかったわけではない。
曾祖父は何もかも覚悟して、“家族”を作ったのだ。
その結果が、この埃臭い部屋での籠城生活だ。曾祖父は死に際、いったい何を思ったのだろう。いったい何を思って、絵を描き続けたのだろう。
届かぬ質問を天井に向かっていくつも投げかけていると、ふと一枚だけ木製の天井が浮いているスペースがあることに気づいた。
「なんだ、あの白いの……」
天井の隙間から、何かノートのようなものが見える。
俺はまるでそこに吸い寄せられるかのように、机に脚をかけ、板を外してみた。すると、そこには予想通り、古びた緑色のノートが隠れていた。
なぜ、こんなところに……。
パラパラとめくってみると、筆跡は間違いなく曾祖父のものだった。
彼自身がここに隠した……? それとも、家族の誰かが……。
いや、家族が隠すくらいなら捨てているはずだ。これは、曾祖父自身が隠したものだ。
きっと誰かに何かを伝えようとして。
もしかしたら、柚葵と一緒にいるための、何かヒントがあるかもしれない。
少しの期待を胸に、俺はそのノートを開いた。
【拝啓 この能力を受け継ぐ者へ
まず、君には謝らないといけないことがある。
もしこの能力のせいで、君の人生を苦しめてしまっているのなら、それはとても心が痛む事実だ。
何か生きていく術を探して、このノートを見つけたのかもしれないが、残念ながら魔法のような解決策はない。
だが、能力を完全に消す方法ならある。それは、己の記憶をすべて消すことだ。
我々のこの奇妙な能力は、記憶と非常に強く結びついている。
運よく能力が発症しなかった子孫にも、「本来自分には読心の能力がある」という記憶が少なからず残っているんだそうだ。
運悪く、その記憶を呼び起こしてしまったものだけが、この力を受け継いでしまうのだ。その代わり、勉学や芸術、運動など、何かの能力にも長けていることが多い。私はたまたま芸術面にその才が現れた。
君は今、怒っているだろうか。私の代でなぜこの力を根絶やしにしてくれなかったのかと。
それに関しては、深い深い訳がある。
私の妻、清音(キヨネ)もまた、異能な力を持った人間だった。
彼女は、“未来が見える”能力を持っていた。
私は彼女と同じ大学に通っていたが、読心の力で彼女が普通ではないことがすぐに分かった。
異能者同士惹かれあうのは遺伝子的によくあることだと聞いていたが、私たちは慰めあい、求めあい、当然のように惹かれていった。誰にも邪魔をされない土地で静かに暮らそうと、大学を出たら北の国に向かった。
子を作ると遺伝する可能性があることは知っていたが、幸い清音には未来を読む力がある。
この力が自分たちの子孫に影響する未来は見えず、私たちは手を取り涙を流した。
もしかしたら、普通の夫婦のように生きられるかもしれない。ささやかな光が差す。
しかし、運命はそう簡単にはいかない。
清音のお腹に子が宿ったころ、まだ発達途上だった自動車に私が轢かれ死ぬ運命を見たというのだ。
予知能力のご法度は、“死ぬ運命を変えること”。
そのことは、本人も私も十分知っていた。どんな代償が訪れるか分からないことも。
だけど、私は今ここで死ぬわけにはいかなかった。
我が子をこの目で見たかった。その、自分本位な願いで、運命を捻じ曲げてしまった。
生き延びた次の日、清音が未来を透視すると、自分のひ孫に読心能力が遺伝する未来が見えた。
私たちの身勝手な行動で、君に、辛いものを背負わせてしまい、申し訳ない。
せめて何か財産を残せやしないかと、私は絵を描き続けたが、そんなことには意味がなかったかもしれない。
息子はその資金で立派な会社を設立したが、未来の君はそんなことで幸せにはなっていないと、妻は予知した。小学生の君の未来が、彼女が予知できる限界の範囲だった。
罪悪感を抱いた妻の感情も段々と不安定になり、私にその感情を読まれることを恐れていた。私は自ら籠城生活を望み、部屋にこもりきりになった。
それでも、妻は死ぬまで私のそばを離れなかった。何度も部屋にやってきては、ドア越しに話しかけてくれた。
彼女がそばにいてくれる理由は、私が傷つくことを一番に恐れていたからだ。
私はそれが、とても辛かった。同情されそばにいてもらうことほど、辛いものはなかった。
そうこうしているうちに妻は亡くなり、この世を去る。
私は、心が読める能力があることを知っても、生涯そばにいてくれた妻のことを思い出しながら、何枚も何枚も絵を描いた。
同情でもなんでも、彼女は私のそばにいることを選んでくれていたのに。
私の、世界でたったひとり、心から信じた人。
彼女は、運命を変えてしまったことを悔やむ私に何度も、手を差し伸べ、笑いかけてくれた。そして何度も語りかけてくれたのだ。
「自分を許せるのは自分だけ、だから乗り越えてほしい。私も、あなたを失いたくない想いで、予知したことを知らせてしまった。本当はあの時あなたの死を受け入れて見送るべきでした。罪深いのは私なのです」と。それでも、ともに乗り越えようと、犯した罪から目を背けずに、前に進もうと、彼女は何度も言ってくれた。
私は怖くて、絵を描くことで逃げ続けた。その言葉の意味に気づけたのは、彼女を失ってからだった。心が読めるのに、俺は勝手な妄想で彼女のことを理解しようとしなかった。
こんな私が、君に偉そうに語れることなどある訳がない。
だけど、一言伝えるとしたら、それは、妻と同じく、「乗り越えてほしい」という言葉だけだ。
不甲斐ない曾祖父で申し訳ない。
君の未来が少しでも明るくなることを、ひとりこの部屋から願っている。
敬具 成瀬義春】
ノートには、達筆な字でつらつらと信じがたい事実が綴られていた。
俺の能力は、運命を変えた“代償”として発症したものなのか。
「なんだよ……、それ」
脱力した俺は、怒りも悲しみも抱けないまま、空虚な気持ちでノートを眺めている。
再び床に座り込み、俺は両手で頭を抱え込んだ。
そんな運命の“歪(ひずみ)”で、俺のこの能力は遺伝したとでも言うのか。
そして、能力を消す解決法は、自分の記憶を消すこと以外に存在しない。
残酷すぎる事実を突然知らされ、言葉が見つからない。
「記憶を消すなんて、できない……」
自分が過去に柚葵にしたことも、再会してから起こった出来事も、全部忘れることなんて、できるわけない。
でも、そうしないと、俺はずっと“普通の人間”になれないままだ。
そばにいたい。たったそれだけのことが、とてつもなく遠い。
もう他に答えがない、という答えが早々に出てしまい、俺は途方に暮れた。
曾祖父は、いったいどんな気持ちで自分の血が受け継がれていく様子を見守っていたのだろうか。
すべて未来に託して、消えていくだなんて、そんなのありかよ。
「くそっ……」
思わず日記を机に叩きつけたけれど、ある一文が目に入ってくる。
『だけど、一言伝えるとしたら、それは、妻と同じく、「乗り越えてほしい」という言葉だけだ』と、曾祖父は記している。
なんとも無責任な言葉に感じる。だけど、嘘偽りのない誠実な言葉だということも、痛いほどよく分かってしまった。
そして、同情されそばにいてもらうことほど、辛いものはなかった、という言葉にも、同じ能力者として重みを感じてしまう。
いつか、そんな風に、俺も柚葵のことを縛りつけてしまう日が来るのだろうか。この能力が、消えない限り。
この世はあまりにも、自分だけではどうしようもないことで、溢れすぎている。
何もかもに絶望しかけたそのとき、いきなり一回から何かがガシャンと崩れ落ちる音が聞こえた。
この家には今母親しかいないはず。俺はすぐに一階に駆け降りると、そこには散らばったティーカップの破片と、横たわる母親がいた。
「なに……、どうしたんだよ」
俺は倒れこむ母のそばに駆け寄ると、意識を起こそうと少しだけ体を揺する。
母親はすぐに目を開けて、破片が刺さり血が出た手のひらを見つめて、ぼんやりとつぶやいた。
「あれ、ごめんね……。ちょっと立ち眩みがしただけだと思ったら」
俺はすぐに脳に意識を集中させて、母親の心情を読み取り状況を理解しようとした。
すると、ここ最近は離婚準備で疲弊しきっていたこと、会社の引継ぎで揉め事があったこと、お家騒動のようなことが現状起こってしまっていること、それらすべてをひとりで背負おうとしていたことが分かった。
ここ最近は、なるべく両親と顔を合わせないように時間をずらして過ごしていたから、母親がここまで追いつめられていることに気づけなかった。
俺は母親の手のひらに布を当てて、静かにソファーに座らせる。
いつも綺麗に染めていた髪にはいくつか白髪が混じり、痩せて鎖骨は浮き出ていた。
顔を見ることが怖くていつも目を背けていたから、こんなになるまで気づくことかできなかった自分に、ゾッとする。
「ごめんね、もう少ししたらお家のことも落ち着くから……」
「いいから、そんなこと。水飲んで。今タクシー呼んでくるから」
母がいつも通っている、親族が経営する病院に連れて行こう。
俺は近くに会った固定電話でタクシーを呼ぶと、母親にぎゅっと服の端を握られた。
「陸上のことや大学のこと、ごめんね……。母さんだけの力じゃ、どうにもできなくて……」
「しゃべるなって。体力奪われるから」
急にそんなことを謝られるだなんて、思ってもいなかった。
母親からは、今抱えている問題へのストレスと、俺への罪悪感でいっぱいいっぱいになっている気持ちが、ひしひし伝わってくる。そして、母親を苦しめているのはどちらも自分が原因だということに気づいた。
俺がこんな力を持っていなければ父親は離婚しなかった訳だし、そうすれば会社経営による母親への負担もかかることはなかった。
今まで一度も社会に出たことがなかった母親が、その負担に耐えうるわけがない。
そんなやつれた母親の姿を見て、俺はふと柚葵と重ねてしまった。
もしもの話だけど、自分が柚葵と一緒にいる未来を選べたとしたら……いつか柚葵は母親のようになってしまうのだろうか。
能力のせいで俺を見放したら、どれだけ俺が傷つくかを想像できてしまうから、離れられないだけ、という状況になってしまうのだろうか。
すべて俺の妄想上で、勝手に未来の柚葵と今の母親が重なっていく。
そんな未来、くそくらえだと思いたいのに、気持ちがどんどん沈んでいく。
何も言葉を返せない俺を見て、母親は震えた声で謝った。
「普通の子に産んであげられなくて、ごめんね……」
その言葉を聞いて、俺はついカッとなり弾かれるように言葉をぶつけた。
「謝んなよ。結局、自分が化け物生んだ親だって周りにバレるのが嫌なんだろ! そう言えよ! 俺にはずっと聞こえてんだよ、本心が!」
勢いに任せて今までの悲しみ全部をぶつけると、母親は力なく涙を流す。
つうっと一筋の涙が頬を伝い、ソファーにしみを作っていく。
「そうよね、全部聞こえてるよね、悲しかったよね……。ごめん、ごめんね慧……」
また謝りながら、ただただ涙を流す母親。
俺はもう、何も言えなくなってしまった。
怒りよりも悲しみよりも、圧倒的な絶望感が波のように押し寄せ、心を蝕んでいく。
俺がいたから。俺なんかが生まれたから、母親は壊れてしまった。
俺が、母親の人生を狂わせた。
その時、突然家電が鳴り響き、俺は肩をビクつかせる。タクシーが着いたのかと思い電話を取ると、思わぬ人物の声が聞こえてきた。
「はい、成瀬です」
『……あなた、岸野明人ですか?』
「は……?」
岸野明人、という、思い出したくないすべてが詰まっている名前を聞いて、心臓がドクンと大きく脈打った。いったい、誰が電話なんて……。
『私、同じ小学校に通っていた美園桐です。おじいちゃんから無理やり聞き出してあなたのお家の電話番号を知りました。あなたが今、柚葵と同じ高校にいると聞いたので……』
美園桐。小学校の学園長の娘で、学内でもその気の強さで目立っていた人物だ。そして、今も唯一柚葵と仲良くしている友人。
俺に直接連絡をしてきた理由が、なんとなく想像できてしまい、額に汗が滲む。
『どうしてまた、あの子に近づいたの? 贖罪のつもり? 同じ高校になったのは偶然だとしても、何もしないでいてくれたらよかったのに』
怒りと悲しみが混じった声に、何も返せなくて押し黙る。
予想通り、美園は、俺が再び柚葵に関わったことに憤怒している。
『あんたのせいで、柚葵は声を失った事実は一生消えない。柚葵が許したって、私が許さない』
「許してもらうつもりは、毛頭ない……」
『じゃあ消えてよ! あの子の記憶から今すぐ消えてよ!』
力なく答えた俺の言葉に刺激され、美園は激しく声を荒げた。
俺は受話器を握りしめたまま、心を読まずとも分かってしまう彼女の激しい怒りに、打ちのめされる。
『柚葵は、転校した後も同級生が怖くて、中学三年間もずっと独りで過ごしたの! 私ともしばらく話せなくなって、食事も取れなくなって、でも全部自分で乗り超えて、やっと笑顔を見せてくれるようになったのに……』
「え……」
――知らなかった。まさかそんなに最近までそんな状況で過ごしていただなんて。
柚葵の家族や、周りにいた人の気持ちを想像すると、胸がちぎれそうな思いになった。
その様子をずっとそばで見ていたのは、きっと美園だったんだろう。どんなに辛い気持ちで、柚葵のそばにいたんだろう。
『自分の罪を晴らしたかった? 優しい自分に生まれ変わりたかった?』
「俺は……」
『あんたも小学校のクズ同級生とおんなじだ。あいつら、偶然街で再会したとき、許してくれる?あの時はごめんねって……、私の隣にいる柚葵に簡単に頭下げやがった。反吐が出る。自分が綺麗になりたいだけのくせに。柚葵の私物を捨てたことも、集団でシカトしたことも、SNSに面白おかしく柚葵のことを書き込んだことも、全部時間が解決してくれたものだと、勝手に思い込んで、“過ぎたこと”にして……!』
何も言い返す言葉なんかない。ただ受け止めることしかできない。俺が見て見ぬふりをしている間に、柚葵はそんな仕打ちまで受けていただなんて。
心の中に大きな穴が開いていくのを感じながら、俺は受話器を握る力だけ残して、ただただその場に立ち尽くす。
『あんたは、柚葵が思い出したくないトラウマそのものだから。だからもう、柚葵に関わらないで。もうあの子から、何も奪わないで。私と柚葵の関係は、あんたのせいでまた壊れかけてる。自分を許してもらうための謝罪なんか、いらないから』
そう言い残して、一方的に通話を切られた。
ツーツーという無機質な音が鼓膜を震えさせ、その音に体温すらも奪われていくようだ。
受話器を持ったままだらんと垂れ下がった腕に、何も力が入らない。
……大切な人ほど、自分から遠ざけるべきだと、言われているようだった。
俺は、柚葵から大切な友人すら奪ってしまうところだったのか。
何もかも、この能力のせい……。
いや、そうじゃない。能力のせいなんかじゃない。ずっと言い訳のようにしてきたけれど、これはすべて“俺”が巻き起こしたことだ。“俺のせい”だ。
「慧、大丈夫……? なんの電話だったの……?」
「なんでもない」
心配そうに問いかける母親にそう返すと、丁度タクシーが家の前に着いた。
俺は母親を病院に送りながら、車の窓から流れる景色を茫然と見つめる。
俺がこの世にいなかったら……、記憶からいなくなれば、きっと何もかも元通りになる。 でも、柚葵を愛しく思う気持ちが、自分のことを弱くさせる。“決断”できなくなっていく。
気づいたら、自分の腕を強く握りすぎて、爪が食い込み内出血になっていた。
でも、こんな痛みなど、俺が傷つけてしまった人にくらべると、足りなさすぎるほどだ。
自分を許してもらうための謝罪なんかいらない。その通りだと思った。
今の俺にできることは、たったひとつのことしかない。
『あの子の記憶から今すぐ消えてよ!』という、美園の言葉が、いつまでもいつまでも頭の中で響き続けた。