『うん、勝手に聞いてごめん。でも、少しでも成瀬君との昔のことを思い出したくて』
「そんなこと思い出したって」
辛いだけだろ、と言いかけて、口をつぐんだ。
しかし、志倉はそんな俺に対して、何も動じずに疑問に思ったことを投げかけてくる。
『芳賀先生も、心を読める能力を持っていたの?』
まさか、そんなことまで知っていただなんて。
いや、俺が前に「遺伝性」だと言ってしまったから、予想がついてしまったのか。
あの頃はまだ、志倉が曾祖父のことを知っているとは思っていなかったから。
少し驚いたけれど、俺は志倉の言葉にこくんと静かに頷く。
『やっぱりそうだったんだね』
「好きな画家がそんな奇病を持っていたら、悲しむと思った」
本心をそのまま伝えると、志倉の顔は一瞬とても悲しそうになった。
そして、俺になんて言葉を返したらいいのか分からないまま、感情をぐちゃぐちゃにしている。できることなら、俺だって読み取りたくない。
『成瀬君は、その能力が、憎い?』
まっすぐな目でそう問われ、俺は表情を固まらせた。
彼女は、俺の本心しか知りたくないと思っている。だから嘘はつきたくない。
でも、これ以上汚い自分を曝け出して、嫌われたりしないだろうか。本当の自分を知ってもらうことが、こんなにも怖いだなんて。
だけど、それ以上に、俺は彼女に近づきたい。気づいたら、その気持ちにふっと背中を押されたように、言葉を落としていた。
「憎い……。俺は俺が、この世で一番嫌いだ」
『うん』
「こんな能力がなければ、志倉を傷つけることもなかった……」
どんな顔をして答えたらいいのか分からなくて、俺は顔を俯かせる。
思ったより言葉は弱々しく掠れて、空気をかすかにふるわせる程度の力しか持っていなかった。
どうあがいたって、志倉の声を奪った事実は消えない。罪意識と、彼女への思いは拮抗するばかりだ。
本当はどうしたらいいのかなんて分からないまま、ここまで来てしまった。志倉の気持ちに応える資格もないくせに。
志倉の心理を知るのが怖い――、そう思っていると、聞こえてきた言葉は、予想外のものだった。
『やっと聞けた』
「え……?」
『成瀬君の本音、やっと聞けた。……ありがとう』
「お礼言うの、おかしくない……?」
『おかしくないよ。私の気持ちが読めてしまうのに、それでも自分の本当の気持ちを教えてくれるのは、ありがとう、だよ』
そう言いながら、志倉は頭の中で過去の映像を思い出しているようだった。
俺が、岸野明人という偽名を名乗って、汚い言葉を吐き捨てたあの日のことを、彼女はきっと一生忘れないだろう。
そして、岸野明人の映像と、今の“俺”が、彼女の瞳の中で重なっていくのを感じる。
思わず過去から逃げ出したくなったその瞬間、志倉は俺の手をぎゅっと握りしめてきた。
『心が読めちゃうのって、どれほど怖いことなんだろう』
ぽつりとつぶやかれた言葉に、なぜか胸が締め付けられる。
そんなこと、両親にも一度も言われたことがなかった。“俺側”の気持ちを想像することなんて。
『私は、この先も小学生の時の記憶は引きずって生きていくかもしれない』
「……ああ」
『でも、それでも、一緒にいてほしい。心の傷を塞いでくれるような人がいるなら、それは、成瀬君がいい。私といることが怖くても、目を背けないでほしい……』
「なんで、そこまで……」
『私が過去を乗り越えられる日を、ちゃんと見届けてほしい。そしたら、成瀬君も、自分自身をもう許してあげて』
彼女が俺の手を握りしめる手に、どんどん力が入っていく。
その手が少し震えているのを見て、俺はもうどうしようもないほど泣きたくなってしまった。
これ以上ない言葉を、必死で伝えてくれた君に、俺は何が返せるだろう。
こんな俺に、自分のことを許す道しるべを与えてくれたというのか。どうしてだ。どうしてそこまで、俺と向き合ってくれるんだ。
夕日が彼女の細く長い髪を照らし、金の糸のように輝かせている。秋の少しだけ肌寒い風が吹くたびに、その糸は揺れ、カーテンは波打つ。
怖くても、逃げないでほしいと、君は言ってくれた。
その言葉に、俺は甘えてもいいのだろうか。
その揺れる瞳に、自分の姿を映してもいいのだろうか。
神様が今この光景を見ていたら、なんて言うのだろう。教えてほしい。俺がバカなことをする前に。
「柚葵……」
俺の手を握ったままの彼女の手ごと、自分の顔に近づけた。
それから俺は、俯いていた顔をあげて、彼女の手の温かさを頬で感じ取り、もう一度名前を読んでみる。
「柚葵」
『あ、あの、手が……』
「柚葵と一緒にいられる方法を、探してみる」
『え……?』
「一緒にいたい。離したくない」
この手の温かさを知ってしまった。だから、もう離したくない。失くしたくない。
胸が張り裂けそうなほど、柚葵が好きだ。
だから、どうか、光を見つけられますように。どんな小さな光でもいいから。
俺はただ、大切な人を、大切にしたい。それだけだ。
頬を赤らめたまま驚き顔で俺を見つめている柚葵を見たら、守りたいと思う気持ちに拍車がかかった。
愛しさを噛みしめていると、柚葵が少し照れくさそうに、ぽつりとお願い事をつぶやく。
『成瀬君、あのね、ひとつお願いがあるの」
「ん?」
『いつか一緒に、芳賀先生の美術館に行きたいな』
「分かった。……必ず行こう」
当たり前のように未来のことを約束してくれる柚葵に、簡単に涙腺が緩む。
よかった、君に心を読む能力がなくて。
どれだけ君が大切かを知られてしまうのは、なんだか気恥ずかしいから。
今は、握りしめた手から漏れてしまう程度の気持ちで、十分だった。
■そばにいる方法 side志倉柚葵
『柚葵と一緒にいられる方法を、探してみる』
そう言って、成瀬君は私の体を強く抱きしめた。
こんなに近くにいるのに、私は成瀬君の心を読み取ることはできない。
成瀬君はきっと、能力を消す方法を探しているのだろう。
消さないと、私のそばにいることはできないと、そう思っているのだろう。
彼が今まで自分の能力とどう向き合ってきたのかを知らないから、私は何も言うことができなかったけれど、私は彼にどんな力があろうとなかろうと、一緒にいたいと、思ってしまったのだ。
いつか彼と一緒に美術館に行く。そんな未来の約束をできただけで、私は十分だった。
「柚葵! 今日は何時間描いてるの?」
「わっ、びっくりした! 桐、いつのまに」
夜の二十時。自宅で予備校から与えられた課題にもくもくと取り組んでいると、桐がひょこっとドアから顔を出してこっちを見ていた。
どうやら予備校帰りに歩いていたところを私の母親に見つかり、寄っていきなよと誘われたらしい。
桐はコンビニ袋に入ったお菓子を「甘い物摂取しな」と言って差しだす。
「ありがとう。わあ、私が好きなのばっかり!」
「柚葵の好みは分かりやすいからね。ミルク系で、濃厚で、甘いやつ」
「ありがとう。私も今度何かお返しするね」
「いいって。一緒に食べよ? あんまり根詰めすぎてもよくないからさ」
桐は床にあるクッションに座ると、ミルクチョコレートの箱をベリベリッと開けて、同じように床に座った私の口の中にチョコを放り込む。絵の具で指が汚れているから食べさせてくれたのだと思うけど、今の自分はまるでペットのようだ。
「いっぱい食べて大きくなりなー」
「はは、本当に動物扱いだね、美味しい」
「ふふ。柚葵、なんか最近幸せそう。なんかあった?」
「えっ」
桐の大きな瞳に見つめられて、私はドキッとした。
成瀬君とのこと、いつか桐に話そうと思っているけれど、いったいどこまで話していいのか分からない。
それに、私たちの今の関係に、特に名前はついていない。
私も自分の気持ちを伝えられたはずだと思っているけれど、そういえば好きとは伝えていないような気もする。
いやでも、私の感情は読まれているわけで、成瀬君のことを好きになってしまったのは筒抜けだと思うんだけど……。
なんてぐるぐる考えていると、桐がニヤニヤした表情で私のことを見ていることに気づいた。
「分かった、好きな人できた?」
「えっ、いや、えっと……!」
「分かりやすすぎ。誰? クラスメイト? 予備校の生徒?」
ずいっと聞いてくる桐に対して、私はただ顔を赤らめるだけでたじろいでしまう。
好きな人、と直接的に聞かれると、こんなにも照れくさいような気持ちになるとは。
どうしよう。成瀬君のことを好きになってしまったことを、今、言ってしまうべきだろうか。
桐はもしかしたら傷つくかもしれないけれど……。
「あのね、桐」と切り出そうとすると、彼女はほっとしたようなため息をついてから、話し始める。
「まあいいや、誰のことでも。恋愛感情じゃなくても。柚葵がそんな風に心を開けそうな人を見つけてくれたなら」
「桐……」
「ほんと、岸野のせいで柚葵の世界が一時狭められたことだけは、一生許せないけど。時間が癒してくれることもやっぱり、あるんだね」
「あ……えっと……」
何か言葉をはさむ隙間もなくそう言われてしまい、私は下手くそな笑顔を浮かべる。
桐の中で、成瀬君のイメージはあの日の岸野君のまま。
当たり前だ。彼女は今の成瀬君のことも、能力のことも知らないのだから。
桐は、自分の気持ちを上手く言えずにずっとうじうじしている私を、いつも引っ張ってくれた。
ほかの女子に強く当たられていることを知ったときは、違うクラスなのにできる限り私に会いに来てくれた。
岸野君に突然暴言を吐かれたあの日は、私の表情を見て私のことだけを信じて、本気で味方になってくれた。
桐には、感謝の気持ちしかない。だから、彼女には正直でいたい。
「桐。あのね、私今、好きな人がいるの」
そう言いだすと、彼女は「うん」と頷いて、優しい目を向けてくれた。
次の私の言葉で、その優しい顔を崩してしまうことになるかと思うと、心が痛んだ。
「その好きな人はね……、岸野君なの」
「は……?」
「じ、じつは本名は成瀬慧っていうの。小学生のころは訳アリで偽名使ってたみたいで。で、今、同じ高校に通ってて、それで……」
「どういうこと? ごめん、全然分かんない」
受け入れたくない、という気持ちが、彼女の大きな瞳から言葉以上に伝わってきて、私は思わず押し黙る。
さっきまで食べていたチョコの甘さが一気に引いていくほど、空気が、ピリつく。
でも、私は目を逸らさずに全部を伝えようと思った。けれど、桐は何かに失望したかのように、私に問いかける。
「アイツが柚葵の高校にいたの? もしかして陸上部辞めるどうのこうので校門で揉めてたやつ?」
「あっ、うん。そっか、あの日桐もそばにいたもんね」
「やっぱりアイツだったんだ……!」
そう言うと、桐はテーブルをドンッと勢いよくたたいて、頭を抱え込んだ。
やっぱりということは、桐は何かを感じ取っていたのだろうか。顔立ちが似ていることに気づいていたとか……?
「柚葵、忘れたの? アイツのせいで柚葵の声は奪われたんじゃん」
「うん、でもね、それはあくまでもきっかけで」
「きっかけも何も、私はアイツを許せない! だって柚葵はあの日のせいで、転校する羽目になって……、家族以外と話せなくなって」
「うん……」
「私とでさえ、柚葵の家の中でも、一時期話せなくなったって言うのに……」
そう言われて、私は中学二年生になるまで、自宅でも桐と話せなくなってしまった日々を思い出す。
たったひとり、親友と呼べる人なのに。
“あの学校”の制服を桐が着ているからというだけで、声がまったく出なくなってしまったのだ。
もし、あの日声が奪われていなかったとしたら、私はきっと高校まで桐と一緒に学校生活を送ることができただろう。きっと、そんな未来もあったんだろう。
桐は、私がいなくなってからあの学校で孤立した生活を送っていたと、風の噂で聞いた。そのことへの罪悪感で、桐の顔を見るのも辛い時期があったのだ。
それでも桐は、私との関係を、断ち切らいでいてくれたんだ。
桐からしたら、成瀬君は私たちの絆も奪った人、になっているんだろう。
それなのに私は今、その成瀬君を好きになったと告白した。受け入れがたいのも無理はない。
「柚葵は、許したの? アイツを」
涙を目にいっぱいに溜めた桐が、真剣な顔でそう問いかけてくる。
成瀬君を許す、という言葉が自分の中でしっくりこなくて、私は言葉に詰まる。すると、彼女は今度は心配したような顔つきで、私の肩を揺する。
「もしかして、何か脅されてるの? また何か言われたとか……!」
「違うよ! それは違う。成瀬君を好きになったのは、私の意思だよ」
ハッキリとそう告げると、桐はまた瞳の色を失って、感情をどこにぶつけたらいいのかわからないというように、力なくうなだれる。
そして、買ってきてくれたお菓子もそのままに、彼女はスッと立ち上がると部屋を出ようとした。
すぐに手を掴んで引き留めようとしたけれど、桐がついに堪えていた涙を流したのを見てしまい、私は行き場のない手を下におろした。
そして、桐が小さな声で言い残した言葉を、狼狽しながら聞くことしかできない。
「成瀬のことを許す柚葵を、許せないのって思うのは、どうしてなんだろう……。私、何様だよって話だよね」
そう、とても苦しそうに言うから、私も思わず泣きそうになってしまった。
どんな言葉を彼女にかけてあげたらいいのか分からない。
でも、ただひとつ揺るがないのは、桐も成瀬君も、私にとって大切な人だということだった。
「ごめん。少し頭冷やしてから、また連絡するね」
バタンとドアが閉まる。自分にとって大切な世界が、またひとつ閉ざされたように感じて、私はその場から動けなくなった。
■未来 side成瀬慧
一緒にいたい。離したくない。
それは、生まれて初めて、自分の気持ちに正直になって、強く願ったことだった。
彼女が望んでくれるまで、隣にいてほしい。卒業しても、この先もずっと。
柚葵と一緒にいる方法……それは、たったひとつしか無い。
俺の能力を消すこと。それだけだ。
人の記憶を消して、“リセット”することはできても、能力が完全に消えるわけではない。
ましてや、柚葵の記憶の中から自分を消すことなんて、今の俺には考えられない。
何か他の手立てはないか、俺は片っ端から曾祖父の書斎を漁ることにした。しかし、これといった手がかりは出て来ない。
「ここも何もなしか」
今日も学校から帰るとすぐ、曾祖父の書斎へ引きこもり、みっちり詰まった本棚を下から順に漁っていく。一冊引き抜くと左右の本が飛び出てしまうくらい、かなりの密度で資料が詰まっている。途方もない作業に、俺は天井の高さまである本棚を見つめて、床に座り込んだ。
調べるごとに、俺の中にはある感情がふつふつと湧き上がっていた。
どうして、曾祖父は遺伝することが分かっていたのに子を作ったのか。
この苦しみと呪いを子や孫に遺伝させても構わないと思ったのか。能力が遺伝することは手記に残されていたので、知らなかったわけではない。
曾祖父は何もかも覚悟して、“家族”を作ったのだ。
その結果が、この埃臭い部屋での籠城生活だ。曾祖父は死に際、いったい何を思ったのだろう。いったい何を思って、絵を描き続けたのだろう。
届かぬ質問を天井に向かっていくつも投げかけていると、ふと一枚だけ木製の天井が浮いているスペースがあることに気づいた。
「なんだ、あの白いの……」
天井の隙間から、何かノートのようなものが見える。
俺はまるでそこに吸い寄せられるかのように、机に脚をかけ、板を外してみた。すると、そこには予想通り、古びた緑色のノートが隠れていた。
なぜ、こんなところに……。
パラパラとめくってみると、筆跡は間違いなく曾祖父のものだった。
彼自身がここに隠した……? それとも、家族の誰かが……。
いや、家族が隠すくらいなら捨てているはずだ。これは、曾祖父自身が隠したものだ。
きっと誰かに何かを伝えようとして。
もしかしたら、柚葵と一緒にいるための、何かヒントがあるかもしれない。
少しの期待を胸に、俺はそのノートを開いた。
【拝啓 この能力を受け継ぐ者へ
まず、君には謝らないといけないことがある。
もしこの能力のせいで、君の人生を苦しめてしまっているのなら、それはとても心が痛む事実だ。
何か生きていく術を探して、このノートを見つけたのかもしれないが、残念ながら魔法のような解決策はない。
だが、能力を完全に消す方法ならある。それは、己の記憶をすべて消すことだ。
我々のこの奇妙な能力は、記憶と非常に強く結びついている。
運よく能力が発症しなかった子孫にも、「本来自分には読心の能力がある」という記憶が少なからず残っているんだそうだ。
運悪く、その記憶を呼び起こしてしまったものだけが、この力を受け継いでしまうのだ。その代わり、勉学や芸術、運動など、何かの能力にも長けていることが多い。私はたまたま芸術面にその才が現れた。
君は今、怒っているだろうか。私の代でなぜこの力を根絶やしにしてくれなかったのかと。
それに関しては、深い深い訳がある。
私の妻、清音(キヨネ)もまた、異能な力を持った人間だった。
彼女は、“未来が見える”能力を持っていた。
私は彼女と同じ大学に通っていたが、読心の力で彼女が普通ではないことがすぐに分かった。
異能者同士惹かれあうのは遺伝子的によくあることだと聞いていたが、私たちは慰めあい、求めあい、当然のように惹かれていった。誰にも邪魔をされない土地で静かに暮らそうと、大学を出たら北の国に向かった。
子を作ると遺伝する可能性があることは知っていたが、幸い清音には未来を読む力がある。
この力が自分たちの子孫に影響する未来は見えず、私たちは手を取り涙を流した。
もしかしたら、普通の夫婦のように生きられるかもしれない。ささやかな光が差す。
しかし、運命はそう簡単にはいかない。
清音のお腹に子が宿ったころ、まだ発達途上だった自動車に私が轢かれ死ぬ運命を見たというのだ。
予知能力のご法度は、“死ぬ運命を変えること”。
そのことは、本人も私も十分知っていた。どんな代償が訪れるか分からないことも。
だけど、私は今ここで死ぬわけにはいかなかった。
我が子をこの目で見たかった。その、自分本位な願いで、運命を捻じ曲げてしまった。