「でも、ダメだ。お前は消えたら、やっぱりダメだ」
 いつか、成瀬君は、私が透明人間になったら声を辿って見つけてくれると言った。
 それは、彼も消えたいと思うことがあったから、私に同情してかけてくれた言葉だと思っていた。
 成瀬君は再び私に近づくと、さっきと同じように手を握りしめてくれる。
「自分のこと許してあげられるのは、自分だけなんだろ」
 それはついこの前の夏、私が彼に贈った言葉だ。私の大好きな画家が、人生の教訓としていた言葉。
 成瀬君に偉そうにそんなことを言ってしまったけれど、自分を許すって、なんだろう。
 自分のことを好きになることが、自分を許すってことなのかな。
 だとしたら、私は一生、自分のことを許せないかもしれない。
 いや、正確には、自分の“喉”を、許せない――だ。
 なんで、なんでこんなに、弱くなっちゃったんだ。勝手に声出さなくなって、何がしたいんだよ。自分の喉を片手で触りながら、心の中で何度もそう叫んで、生きてきた。
 悔しくて、涙があふれる。
 自分の体なのに、自分でコントロールできないなんて、悔しいよ。
「自分のこと好きになれなくても……、きっと自分を“乗り越える”ことはできる」
『何……それ……』
「過去の自分が乗り越えてきたから、今の志倉がいるんだろ。志倉自身が証明してる」
『でも、私は私のことが、ずっとずっと嫌いだったよ!』
「それでもいい」
 私の感情的な叫びに、成瀬君は私の目を見ながらハッキリとそう答えた。
 驚いた私は、一瞬頭の中が真っ白になる。
 ずっと見つめていると吸い込まれてしまいそうな琥珀色の瞳に、心臓がドクンと高鳴った。
 成瀬君が、涙で顔に張り付いた私の髪の毛を、そっと優しく除けて、当然のようにつぶやく。
「志倉のいいところは、その分周りの人が知ってる」
『そんなの、違うよ。私は大切な人ほど迷惑ばっかりかけて、成瀬君にもさっき……』
「南にキレたのは、ただの俺の自分勝手だ」
『そんなわけ……』
「あるよ。だって嫌だった。志倉が傷つけられることが、死ぬほど嫌だったから。自分が傷つけられるよりも、ずっと」
 どうして、そんな言葉を私に贈ってくれるんだろう。
 そして、その言葉になんの嘘も混ざっていないように感じるのは、どうしてなんだろう。
 真剣でまっすぐな瞳に、ずっと見つめられているからだろうか。成瀬君は私に対して、ずっと誠実でいてくれている気がするんだ。
 涙を瞳に溜めたまま成瀬君のことを見つめていると、彼は少し間を置いてから、ぽつりとつぶやいたのだ。
「俺の世界では、志倉以外が、透明人間に見えるよ」
 息が、止まりそう。名もなき感情が、次々とあふれ出ているせいで。
 だって、私が消えても、透明人間になっても、クラスの誰も気づきやしないと思って生きていた。でもそれでよかった。私は皆をイラつかせてしまう存在だから。
 それなのに、成瀬君は私だけにピントが合うと言ってくれるの?
 分からなくて、でも嬉しくて、とめどなく涙があふれてくる。
 思い起こせば、成瀬君と出会って、自分の感情を知ってくれる人が現れて、私の世界は間違いなく変わり始めていた。
 自分の気持ちを伝えられたとき、私は世界との繋がりを感じたのだ。……生きていると、感じたのだ。
 成瀬君の能力は少し怖いけれど、だけど、私、そんな能力を持った人に出会えて、よかったって思ったんだよ。見つけてもらえてよかったって。ずっと無駄に期待しないように誤魔化していたけれど、本当なんだ。本当に世界が変わった気がしたんだ。
 この世界に、私のことをちゃんと“見て”くれている人がいる。
 たったそれだけのことなのに。
「志倉、俺……」
 成瀬君が私に触れようとして、でもその手をすぐに引っ込めた。
 滲んだ景色の中、成瀬君の言葉のおかげで、ふつふつと自分の中である感情が沸き起こっていた。
 ……頑張りたい。私、本当はずっと、自分を許してあげたいと思っていた。
 この先何度自分に失望しても、乗り越えられる自分になりたい、と。
 成瀬君は私の頬を流れる涙を、今度はためらいなく親指でそっと撫でる。
「許せるよ」
『え……』
「志倉は、志倉自身を、もう許してあげられるよ」
「っ……っ……」
 声にならない嗚咽が、空気になって口から抜けていく。
 自分の中で、どうしようもないほど成瀬君の存在が大きくなっていることに、私は気づき始めていた。
 私は、情けなく流れ出る涙を自分の腕で拭って、成瀬君と改めて向き合う。
 彼の美しい半月型の瞳に、不安定で脆そうな自分の姿が映っている。
『ありがとう』
 心の中で、ゆっくりと、真剣に唱えた。
 成瀬君は、また少し切なげな顔で、私のことを見つめている。
 もし、乗り越えることが自分を許すということならば、私は、もう少し明日を頑張ってみたいと思えたんだ。
 それは、成瀬君がこの世界に、いるから。
「好きだ……」
 唐突に彼の美しい唇からこぼれた言葉に、私は自分の心を読まれたのかと一瞬錯覚した。
 成瀬君は、初めて会ったあの日のように、綺麗な涙の粒を片方の目からほろっと流す。
 まるで映画のように美しい映像に、私の思考は停止する。
 好きだって、聞こえた、今。
 それっていったい、どういう意味で……?
 しかし、問いかける前に、成瀬君は綺麗な顔を見る見るうちに悲しみの色でいっぱいにしていく。好きだという言葉とは裏腹に、成瀬君は苦しそうになっていく。
「俺は本当に、最低だ……」
『成瀬君……?』
「言うつもりなんかなかったのに、今……」
 自分の口を抑えて、信じられないとでもいうような表情をしている成瀬君。
 私も同じように、ただただ動揺していると、私の体は強引に成瀬君の腕の中に閉じ込められてしまった。
 抱きしめられる、というよりも、自分の表情を私に見せないようにするために、閉じ込めた、という感じだ。
 そして彼は、さっきの告白を掻き消すように、信じられない事実を告げる。
「……お前の声を奪ったのは、俺だよ」
『え……?』
「俺なんだ……っ」
 私の声を奪った人が、成瀬君……? 
 その言葉に、もうぼんやりとしか思い出せない、岸野明人君の輪郭が浮かんでくる。
 私のことを抱きしめる成瀬君の手は、さっきの私以上に、震えていた。
 小学生の頃の記憶が、ゆっくりと“今”の彼に、重なっていく。

 こんなにも悲しいめぐりあわせがあるだなんて、その時の私はまだ、認めたくなくて。
 成瀬君の震える体にそっと手をまわしながら、薄い青の空を見上げていた。

■遠い記憶 side志倉柚葵

「今度の三連休、北海道のおばあちゃん家に帰ることになったからね」
 丁度ハンバーグを口に運んだとき、母親が思い出したようにそう言い放った。
「おばあちゃんに会えるの? やったー!」
 巴はケチャップで口の周りを汚しながら、祖母と久々に会えることを喜んでいる。
 どうやらおじいちゃんがぎっくり腰をやってしまい、畑仕事が滞り困っていたのだとか。
 巴はすっかり旅行気分でいるけれど、父と母の二人は休み返上で手伝いに行くことになったため、そこまで嬉しそうではない。
「おじいちゃん大丈夫かな。心配だね」
 ぽつりとそう呟くと、お母さんは私の心配を吹き飛ばすように右手を振って、笑った。
「だーいじょうぶよ、いっつも大げさなんだから。本音はあんたたちに久々に会いたいだけでしょうよ」
「巴、虫取りしたい!」
「んー、北海道のこの時期にはもうそんなに虫はいないんじゃないかしら」
 丁度この三日間は予備校もお休みになっていたので、私的にも問題はない。
 久々の北海道かぁ……。芳賀先生の美術館に、また行きたいな。
 そう思うと、少し私もワクワクしてきた。おじいちゃんとおばあちゃんに会えるのも、もちろん嬉しい。でも、巴がはしゃぎすぎないように、しっかり見ておかなきゃ。
 なんてぐるぐる考えていると、お父さんが眼鏡の奥から心配したような視線を送ってきた。
「柚葵。大丈夫か? 最近何か思い詰めているようだったけど」
「えっ、なんで? 全然大丈夫だよ」
「そうか。受験で疲れてるだろうし、リフレッシュするつもりで行くといい」
「うん、ありがとう」
 お父さんにはすっかり見破られてしまっていたようだけれど、成瀬君とのあの一件以来、私の頭の中は成瀬君のことで常にいっぱいだった。
 どうにか違う話題で気を紛らわせようと努めてみたけれど、中々思うようにはいかない。
 衝撃的な事実を告げられたあの日から、もう一週間が過ぎたけれど、成瀬君はあれ依頼一度も私と目を合わせてはくれない。
 成瀬君が岸野君だったかもしれない、という過去よりも、避けられている現実に落ち込んでいる。そんな自分に、私自身もとても戸惑っている。
「ごちそうさま。ちょっと部屋で勉強してくるね」
「えー、柚ねぇ、一緒に動画観ようよぉ。遊んでくれなくてつまんないっ」
「ごめんね巴。受験終わったらいつでも遊んであげるから」
 ぐずる巴の頭を撫でて謝ると、母親が「お父さんが一緒に観てくれるって」と宥めた。しかし巴は「お父さんじゃいや」とさらにぐずってしまい、父親は大きなショックを受けている。
 その様子をほほえましく見守ってから、私はスッと自分の部屋へと戻っていった。

 ベッドに寝転がり、両眼を手で塞ぎ、昔のことを思い出してみる。
 岸野君の声も、姿も、何もかも成瀬君とは結びつかない。
 苗字も下の名前も違うということならば、偽名を使って入学していたのだろうか。そんなことができるのだろうか。もしかしたら、本当の名前がどっちかもわからない。
 岸野君に、『お前なんでそんなに本心と違うことばっか言ってるわけ?』と問いかけられたあの瞬間から、私の学校生活が崩壊していったことは事実だ。
 だから岸野君と成瀬君が同一人物だと知って、ショックじゃないわけなかった。
「罪悪感……」
 そういえば、随分前に、なぜ能力の秘密を私に打ち明けたのか、ということを聞いたあのとき、成瀬君は『罪悪感を拭うため』だと言っていた。
 今ならあの言葉の意味がしっくりくる。
 そうか、成瀬君が私に近づいた理由は、ただの罪滅ぼしだったのか。胸のどこかがチクリと痛む。
 彼の中で、私の存在は罪悪感そのものだったのだろう。そう思うと、彼が私なんかに優しくしてくれたすべてに納得がいく。
 でも、彼が、『好きだ』と言って泣いたのは……。
 そこまで思い出すと、体に火が付いたように熱くなる。もしかしたら聞き間違いかもしれない、という言い聞かせを、もう何度もしている。
 でも、ひとつだけ間違いないのは、成瀬君は私にあんな形で気持ちを伝えることを、まったく望んでいなかったということだ。
 好きだと言った直後の、彼の失望した瞳の色が、忘れられない。
 成瀬君はきっと、私の想像以上に、私への罪意識を抱いてずっと生きてきたんだろう。
 私も過去に、岸野君がいなければ平穏に生きていられたかもしれないという想像をして生きていた。だけどそれはもう、見当違いだということに気づいている。
 岸野君は何も間違ったことを言っていなかったし、私の心が読めていたからこそ、本心を言えない私のことが許せなかったんだろう。
 でもそう思えるようになったのは、私が大人に近づいたから、というだけの話で。
 あの時の幼い自分にとって、岸野君は――成瀬君は、恐ろしく許しがたい存在だった。
 私は、これから、どうしたらいいんだろう。
 成瀬君に、なんと言ってあげたらいいのだろう。
 もう怒ってないよ、成瀬君のせいじゃないよ、許してるよ……そのどれも違う。全然しっくりこない。私は成瀬君のことを許すとか許さないとか、そんな目線で見たいわけじゃない。
「成瀬……君……」
 そっと彼の名前を呼んでみる。初めて自分の声に出してみた。
 すると、瞼の裏に彼の顔が浮かんで、会いたいという気持ちがふつふつと湧き始める。
 でも、今の彼に会っても、私たちは同じ目線ではいられないのだろう。
 岸野君に関することを……、彼の過去に関することを、もっと思い出せやしないだろうか。
 彼の過去を知れば、もっと近づくことができるかもしれない。私は、あの頃の成瀬君のことを、分かりたい。理解したいだなんて、そんなおこがましい気持ちを誰かに抱いたのは、本当に初めてだ。
 だってこのまま何もしなければ、私が彼に対して抱いている感情の行き場がないままだから。
 怖くても知りたいと、そう思った私は、そっとある人物に電話をかけることにした。
「あ、もしもし。桐? 柚葵です」
『柚葵、どうしたの。電話なんて珍しい』
「ごめんね突然。ちょっと聞きたいことがあって……」
『なになにー? アトリエならいつでも使ってね』
 電話をした相手は、同じ小学校に通っていた桐。
 もしかしたら学園長の娘である桐なら、岸野君のことについて何かを知っているかもしれない。
 そう思い、私は他愛もない会話をしてから、そっと質問をしてみる。
「突然でごめんなんだけど、あの、岸野君ってどういう子だったか、覚えてる?」
『……え?』
「ショックで記憶が消えているのか、あまり思い出せなくて……」
『何、また何かアイツにされたの!? 大丈夫!?』
「あ、ごめん、そうじゃなくて……! ただなんとなく、昔のことと向き合おうかなと、思って……」
 桐は岸野君というワードを聞いた瞬間、スマホ越しに声を荒げて私のことを心配してくれた。
 まさか同じ高校に通っているなんて、口が裂けても言えない。彼女にはこれ以上余計な心配をかけたくない。
 疑心を抱いている桐をなんとか宥めると、彼女はとても低い嫌そうな声で、ぽつりとつぶやいた。
『大手繊維会社のぼんぼんらしいよ。でっかいお屋敷に住んでるって聞いたことあるけど、場所は不明。今は県外の高校に通ってるって聞いたけど、まああくまで噂だから』
「県外の……」
 そんな嘘の噂が流れていたのか。
 もしかしたら、成瀬君の存在を印象付けないために彼自身か親が付いた嘘なのかもしれない。
 桐は成瀬君とはずっと違うクラスで、全然関わりがなかったはずだから、あまり当時の印象はないようだ。
『あ、そういえば、ひぃじいちゃんだかなんだかが、有名な画家だったはず』
「え……?」
『もしかしたら知ってるかもだけど、活動名が芳賀義春とかいう……』
「えっ、それ本当に!?」
『う、うん……。そんなに有名な人なの?』
 とんでもない事実に、私は思わず大声をあげてしまった。
 いくら家の中では話せるとは言えど、こんなに大きな声を出したのはいつぶりか思い出せないほどだ。
 まさか、自分がずっと敬愛している画家の孫が、成瀬君だったなんて。
 興奮で中々頭の整理がつかない。
 きっと今まで何度か芳賀先生のことを考える瞬間はあったはずだから、成瀬君も私が芳賀先生のファンであることは知っていたはずだ。
 言うタイミングがなかったのか、言うつもりはなかったのか……。
「あ……!」
『ん? どうしたの?』
 私はあることを思い出し、思わず声をあげてしまう。
 そういえば、成瀬君がいつかこの能力は遺伝性だと言っていたけれど、まさか芳賀先生も能力者だったのだろうか。
 ドクンドクンと心臓の音が速まって、頭の中を、芳賀先生の描いた作品が走馬灯のようによぎった。
 真相は分からないけれど、その可能性はゼロではない。
『柚葵……? もし何かあったのなら、すぐに言ってね。昔のこと聞いてくるなんて珍しいから……』
「心配かけてごめん。ちょっと彼に似た人に会って、思い出しちゃって」
『そう、ただそれだけなら、いいんだけど』
 桐に本当のことを隠すのはとても心苦しく感じたけれど、自分の中の整理がついたら、成瀬君のことをいつか言おう。
 私は、桐にお礼を伝えて、静かにスマホを切った。
 そして、このタイミングで北海道に行くことになったことに、何かしらの運命を感じていた。
 


 祖母の家と美術館は、同じ札幌市内にある。
 九月の北海道の気候はとても過ごしやすく、観光客もこの時期には多い。
 ぎりぎりで取れた飛行機に乗って、私たち家族は札幌市内にたどり着いた。
 すぐに畑に囲まれた祖母の家に向かうと、巴は久々に会う祖父と祖母を前に、はしゃぎまくっていた。
「おばあちゃん、おじいちゃん! 巴でんぐり返しできるんだよ、見てて!」
「あらあ、もうそんなことができるようになったんか、巴ちゃんは」
 祖母は巴のわがままにずっと付き添ってくれて、祖父もそんな巴をほほえましく見守っている。
 私と両親は、そんな三人を差し置き、朝食を食べ終えた後、ぐったりとソファーに突っ伏していた。
 久々の長旅で疲労が溜まったのだろうか、足腰が重い。昨日のお昼ごろについてすぐに寝たにも関わらず、あまり疲れが取れていない気がする。
「柚葵ちゃんは、大学受かったらこっちへ来るかもなんかい?」
『うん、受かったらだけどね』
 白髪のパーマが似合っている祖母の言葉に、私は自信なさげにメモを見せる。
 祖父と祖母も、私の声が出なくなってしまったことについて知っているけれど、深く聞かないでいてくれている。
「そうかぁ。こっちは寒いけれど、美味いものはたくさんあるから。寂しくなったら来なさい」
『うん、ありがとう。おばあちゃん』
 そうお礼を伝えると、今度は丸眼鏡で少し色黒のおじいちゃんが、巴とじゃれあいながら問いかけてきた。
「そういえば、今日はどこか遊びに行くんかい?」
『今日は美術館に行ってくるね』
「そうか。巴ちゃんは見てるから、ゆっくり楽しんで来なさい」
 その言葉に、私は笑顔で大きく頷く。
 自分には、当たり前のように優しいおじいちゃんとおばあちゃんがいる。
 成瀬君は、いったいどんな家族と一緒に、過ごしてきたんだろう。家族は能力のことをどんな風に受け止めてきたんだろう。そして、曾祖父である芳賀先生は、親族の中ではどんな扱いをされていたんだろう……。
 自分の環境を俯瞰で見ると、成瀬君に対する色んな疑問が浮かび上がってくる。
 それが解決するとは限らないけれど、今はただ、進んでいくしかない。
 何かヒントがあるような予感がして、私は美術館へと足を運んだ。

 外から見るとただの四角い箱のような、とてもシンプルな建物。この美術館にやってくるのは、もう五回目だ。
 チケットの買い方はもう慣れたもので、少し並んでから展示室に進むことができた。
 壁も床も真っ白で、建物の真ん中には美しい庭園がある。それを右手に見ながら“コ”の字に進んでいくというルートも、もう頭の中に刻み込まれている。
 芳賀義春先生の作品だけがあるわけじゃないけれど、彼の作品はほとんどここに残されている。
 はじめてここに連れてこられたとき、脳内に衝撃が走ったのを今でも覚えている。
 水の中に浮かび上がっているかのような透明度の高い色合いに、繊細で柔らかなタッチ。触れたら消えてしまいそうなのに、絵の世界に引きこむ強い吸引力がある。
 今まで見てきたどんなものより、美しく見えた。
 私は、初期作品をひとつひとつ眺めながら、ゆっくりと目的地まで足を運んだ。
 不思議と、一歩進むごとに、自分の中の気持ちが整理されていくのを感じる。
 あの日の出来事を、ゆっくり思い出してみる。
 私の声を奪ったのは自分だと、成瀬君は言った。とても苦しそうな顔をして。
 とても驚いたし、ショックだった。心を開きかけた人が、思い出したくない過去そのものだったから。
 今まで黙っていたことが許せない。正直、そんな感情も浮かび上がった。
 だけど、そうと知ってから、今までの成瀬君を振り返ると、彼はどこまでも誠実でいてくれたように思う。
 廊下でぶつかった時も、能力の秘密を打ち明けてくれた時も、文化祭で助けてくれた時も、スケッチさせてくれた時も……。
 彼はいつも自分の中の罪意識と葛藤しながらも、私の弱さと向き合ってくれた。今の私を“見ていて”くれた。きっと罪悪感そのものである“私”を見ることは、とてもとても辛かったはずなのに。
 逃げないでいてくれた。助けてくれた。正直で……いてくれた。
 そして、私が心を開けば開くほど、成瀬君は悲しそうな顔になった。
 ……ねぇ、成瀬君。
 “好きだ”と言ってくれたのは、本心だと思っていいの?
 罪悪感も何もかも取っ払った君の、心の声だと、そう思ってもいいの?
 分からないまま、私はついに今日一番見たかった、大好きな絵の前にたどり着いた。
 壁一面のスペースを取って、床から天井までギリギリの大きさの絵画。
 絵画の前には、“半透明のあなたへ”と書かれたプレートと、ちょっとした説明文が添えられている。
 絵を見る前に、私は数秒目を閉じて、心の中のノイズを鎮める。