■記憶を消して side成瀬慧

 許してあげる。
 そんな言葉を、誰かに言われるだなんて、思ってもみなかった。
 しかも、一番そんな言葉を俺にかけてはいけない、志倉自身に言われるだなんて。
 そんな言葉を俺なんかにかけるな、という怒りの感情と、不意打ちで放たれた光のような言葉への驚きの感情が、どっちも同じくらいの力で体内で弾けて、気づいたら志倉を抱きしめていた。
 彼女を抱きしめた瞬間、心臓がふたつあるかと錯覚するくらい、全身の血が熱く体を駆け巡ったのだ。
 志倉と一緒にいると、過去への罪悪感と、信頼されることへの恐怖と、もっと内面を知りたいと思ってしまう欲深さと、そのすべてに振り回されて、呼吸がうまくできなくなる。自分の形が保てなくなる。
 こんなの、俺じゃない。――自分じゃない。
 自分のことが、恥ずかしくて、恐ろしくて、感情がぐちゃぐちゃだ。
 彼女に近づいたのは、ただの贖罪のため、だったのに。
 だけど今は、純粋に彼女の存在が大きくなっている。
 過去に傷つけた人を好きになるなんて、ありえない。ありえてはいけない。
 こんな葛藤をするために、俺は彼女に近づいたわけじゃない。
『自分のこと許してあげられるのは、自分だけなんだって』
 抱きしめたまま動けない俺に、志倉がそっと投げかけた言葉が、胸の中に優しく響いていく。

 でも、俺は俺を許すわけにはいかない。
 じゃないと、どう生きていいのか、分からない。



 夏休みは、志倉と過ごしたたった一日の出来事以外、まるで記憶がない。
 あの日に出来事だけがいつまでも脳内にこびりついて、鮮明に再生され続けている。
 志倉の体温や、髪の香り、抱きしめた時の感触、そのすべてが思考を停止させる。
 明日から新学期が始まり、また志倉を顔を合わせるようになる。
 志倉のことを考えないで済むように、と考える時間だけが、過ぎていく。

「庄司(しょうじ)さん、お帰りなさい」
 自分が帰宅した時間と同じくらいに、珍しく父親が早く帰宅した。
 夫婦仲は冷え切っているはずなのに、母親はいつも通り甲斐甲斐しく玄関まで迎えに行く。もう習慣になっているのだろう。
 俺はその様子を横目に見ながら、リュックを雑にソファーの横に置く。
 リビングに入ってきた父親が、俺を視界に入れてすぐに、何かをローテーブルの上にばらまいた。