最近新しく整備されたタータンに、真剣に走り込みの準備をしている生徒があふれている。
 皆がアップしている中、練習が始まる前にジョギングをしている三島を見かけた。今は、インターハイ本番に向けて最終調整をしている時期だろう。
 俺が部活を辞めると言ったとき、一番感情が激しく乱れていたのは彼だった。
 ……三島の走りはとてもまっすぐで、無駄なノイズがなくて、いい意味で周りを気にしていない空気感が漂っている。とてつもなく精神が安定している彼の強さに、俺はいつも密かに感心していたが、部活を辞めるといったあのときだけは、感情の振れ幅がぐんと大きくなっていた。
 そして今の彼も、不安や焦りの感情がぐるぐると渦巻いているのが分かる。どうやら右膝の痛みが日々増しているようだった。
 偶然俺の近くにある水飲み場に三島がやってきて、聞いてはいけない彼の感情が聞こえてきてしまう。
『成瀬だったら……もっと期待されていたはずだ』
 そんな感情がひしひしと伝わってきて、俺はどんな顔をしていいか分からなくなった。
 こんな気持ちは、他人がのぞいていいものではない。
 俺はそっと一歩退き、そのまま正門へ向かおうとした。
「おい、成瀬」
 しかし、去ろうとしたギリギリのところで、三島に見つかってしまった。
 俺は立ち去ろうとした足を止め、ゆっくりと彼のほうを振り返る。
 三島の針のようにまっすぐな短髪には汗が光り、釣り目がちな鋭い眼光は目の前の俺だけを射貫いている。
「早々に帰宅かよ。いいもんだな暇人は」
「……そうだな」
「恋愛にうつつ抜かせるもんな」
 ……こいつも、そんなくだらない噂を聞いてしまったのか。
 俺と志倉は、決してそんな関係性なんかじゃない。ありえてはいけない。
 話す気力もなくなり、俺はそれ以上何も返さずに再び去ろうとしたが、三島の攻撃的な言葉は止まらない。
「怪我が原因ってコーチは言ってたけど、見た限りピンピンしてんじゃねぇか」
「…………」
「結局お前は逃げたんだ。どれだけチームに迷惑かけたと思ってる」
「そうだな……。じゃあ責任取って、お前の右足と俺の足、取り替えてやろうか?」
 あざ笑うようにそう伝えると、三島はぴきっと表情を固まらせた。
 俺のことなんかに構わずに、三島は走ることに集中すべきだ。
 そのまっすぐすぎる瞳に自分が映ると、何かずっと責められているような気持ちになる。俺はそれから逃げたくて、わざと三島を傷つけるような言葉を放った。
 三島は心の中では俺に対する怒りに燃えていたが、出てきた言葉は冷静だった。
「お前……本当に人の心がねぇよな」
 まっすぐな憎悪の感情が響いてくる。彼の瞳には、怒りの感情と、失望の感情、そのどちらもが混ざりあっている。
 ――人の心がない。それはまさに、俺の人間性を的確に言い表した言葉だと思った。
 俺は、人の心が読めるからと言って、人に優しく生きてきたわけじゃない。
 どんなことを言ったら一番相手が傷つくのか。距離を置けるのか。そんなことばかり考えて、生きてきたのだから。
「……お前の大会記録なんか、ゴミにしてやるよ」
 三島は最後にそう吐き捨てて、右足を若干引きずりながらグラウンドに戻っていった。
 真夏の茹だるような熱気が、セミの鳴き声とともに脳内を侵食してくる。
 去っていく彼のうしろ姿を、空っぽの気持ちのまま見つめていた。

 空虚な状態のまま正門に向かうと、もう帰ったと思っていた志倉が、珍しく誰かと待ち合わせていることに気づいた。
 鞄を持ったまま、チラチラと周りの様子をうかがっては、何やら楽しそうな雰囲気を出している。
 あらぬ噂を立てられていることもあり、なんとなく彼女に近づかないように門から出ようとしたが、志倉が待ち合わせている人物を見て固まった。
「柚葵! お待たせ、暑かったでしょう」
 ショートカットでボーイッシュな姿は、小学校のころから変わっていない。
 名前は思い出せないけれど、彼女を見た瞬間、ドクンと胸の中がざわつくのを感じた。
 人の顔は一度見たら忘れない質なので、彼女が小学生の頃の同級生だということは確実だった。
 志倉といまだに連絡を取り合っている同級生がいたのか……。
 そのことに驚きながらも、不審に思われないように、俺はふたりのうしろを静かに通り抜けようとした。
 しかし、ふと待ち合わせていた彼女と一瞬目が合ってしまい、その瞬間相手の中で憎しみの感情が一気に燃え上がるのをひしひしと感じた。
『まただ。“アイツ”にどこか似ている男』
『名前はクラスメイトの成瀬だと聞いたけど、名前も全く違うから、他人の空似かしら』
『もし、“アイツ”本人だったら――殺してやりたい』
 漏れ出る殺意に、俺は心の中で「そうだよな」と静かに納得する。
 半径数メートル以内に、ふたりから殺意を向けられているだなんて、笑える。
 人に嫌われることには、慣れすぎているから、今さらどうってことないけれど。

 ……だけど、お願いだ。
 この罪を償ったら、俺は志倉の世界から消えるから。
 だからあと少しだけ、彼女が俺を思い出すまで――時間がほしい。
 俺の自己中心的な“罪滅ぼし”を、どうか見逃してほしい。
 こんな風に切実に何かを願うことなんて、きっともう、人生で一度もないはずだから。

■君と夏休み side志倉柚葵

 夏休みに入ると、美大受験をするにあたり予備校に通うことになった。
 授業は週にニ回だけど課題が多く、しかも夏休み期間は部室は解放されないためどうしても絵を描く場所と時間が足りない。
 家では描くスペースがないと桐にこぼしたら、彼女のおじいちゃんが気まぐれで建てたアトリエが離れにあるから自由に使ってくれていいと言われた。
 さすが学園長を務めるおじいちゃんだ。どうやら一時期だけ油絵にはまったけれど、今はすっかり飽きて使わなくなってしまったらしい。
 最初は断ったけれど、『代わりにアトリエの掃除をするってことでいつでも使ってよ』と合鍵まで渡してもらった。戸惑いつつも、夏休みの間だけそのお言葉に甘えることになったのだ。
 そして今、強い日差しの中、桐の家から少し離れた場所にあるアトリエに向かっている。
 この辺は高級住宅街ばかりで、歩道も整備され美しい並木道が続いている。
 私は真夏の日差しに透ける新緑の美しさに目を奪われながら、通り慣れていない道を進んだ。
 講師から『人物画』というざっくりした課題を与えられたけれど、誰を描こうかな……。
 実際の試験にも人物のスケッチが出る可能性は十分あるので、桐にモデルを頼みたいけれど、彼女は今日も習い事で忙しそうだったから、頼むに頼めない。
 人物画といえば……、今までひっそり描いていた成瀬君が部活を辞めて走らなくなってから、もう絵を描き進めることができなくなってしまった。
 成瀬君の骨格は本当に見れば見るほど美しくて、ものすごく描き甲斐があったのに。
 残念に思いながら歩いていると、何やら前方からとても美しいフォームで走っている男性が近づいてきた。
 あれ、なんだかあの人、成瀬君とフォームが似てる……。
 それに、首から肩にかけてのシャープな骨格も、足の長さもそっくりだ。
 そんなことを思ってつい見つめてしまうと、黒いキャップの下からのぞく鋭い眼光とバチッと目が合ってしまった。
『あ……!』
 思わず心の中で大声をあげてしまう。
 走っていた彼は私の目の前で止まり、キャップをすっと外した。
 それから、少し呆れた口調で言い放つ。
「骨格で人のこと見つけんの、やめてくんない?」
『な、成瀬君! 家この辺なの……?』
「いや、そんなに近くないけど、この辺走りやすいから」
 まさか本当に成瀬君だったとは。しかも、心の声まで聞かれてしまっていたとは。恥ずかしくてたまらない。
成瀬君はいつもの制服姿ではなく、かなり薄手の黒いスポーツウェアを着て、チャックを口元まであげている。
 体の線が出なさそうな張りのある素材の服なのに、成瀬君の骨格だと見抜けてしまった自分はかなりおかしいかもしれない。
 偶然過ぎる出会いにただただ驚いていると、成瀬君がふと問いかけてきた。
「なに、お前こそなんでこんな場所にいんの」
『この道沿いに、友達のアトリエがあるの』
「アトリエって……、お前の友達何者?」
『お父さんが、私立学校の学園長さんでお金持ちなの。夏休みの間だけ間借りさせてもらうことになって……』
「ふぅん」
 横を通り過ぎた見知らぬ人が、ちらりと私たちを不思議そうに見たのを感じ、私はハッとした。
 はたから見ると、成瀬君は今、私に向かってひとりごとを言ってるようなものだ。
 私は別にいいけれど、成瀬君がこれ以上変な人に思われるのは申し訳ない……。
 そう思った私は、もう会話せずに切り上げたほうがいいと感じ、ぺこっと頭を下げた。
『走るの邪魔してごめん。じゃあ、またね』
「ああ」
 それだけ言って、私はスッと彼の横を通り過ぎる。
 ああ、やっぱり成瀬君は最高のモデルだ。
 彼を見る度に絵に描きたいと強く思ってしまう。
 でもいきなりモデルなんて頼んだら、もっと気持ち悪がられるだろうし……。
 いやいや、こんなこと、こんな近くで思っていたら彼に聞き取られてしまう。
 もっと違うことを考えよう。えっと、えっと……。
「志倉、危ない」
 頭の中でぐるぐる考えながら必死に早歩きをしていると、去っていったはずの成瀬君がパシッと私の手首を掴んだ。
 彼に無理やり止められてその場に固まると、私の目の前をロードバイクがものすごいスピードで通り過ぎていく。
『び、びっくりした……』
「考え事しながら歩くのやめろ」
 少し焦った様子の成瀬君が、私のことを低い声で説教した。
 私もスケッチブックを抱えながら、バクバクと脈打つ心臓をどうにか落ち着けようと試みる。
『ごめん、気を付けます』
「あと、なんか俺にやってほしいことあんの?」
『え、えっと……』
「ん?」
 その半月型の瞳に見つめられると、何も嘘がつけなくなってしまう気がする。
 嘘をつくも何も、彼にはすべて見透かされてしまっているわけなのだけれど。
 私は自分の気持ちに正直に、ダメもとで心の中で問いかける。
『あの、絵のモデルになってくれませんか』
「俺のことなんか描いてどうするわけ?」
『成瀬君の骨格は、本当に美しいんです!』
「骨格……」
 成瀬君はよく理解できないというように呆れた顔をしたけれど、「別にモデルくらい付き合ってやってもいいけど」と素っ気なく返してくれた。
 私は嬉しくて、思わず口元を両手で隠す仕草をしてしまう。
 喜びを隠しきれない私を見て、成瀬君は「変なやつ」とだけつぶやいた。



 アトリエは、まだ建てたばかりなだけあって、新しい。
 十五畳ほどのかなりシンプルなつくりのワンルームで、壁一面の大きな窓には、やわらかな素材の白いカーテンがかかっている。
 少し埃っぽく感じたので、私は大きな窓を少しずつ開けて、夏の爽やかな風を室内に送り込んだ。
 打ちっぱなしのコンクリートでできた無機質な部屋には、桐のおじいちゃんが自由に使ってくれていいと言った大きなキャンバスやイーゼルが雑に置かれている。
 一応アトリエに成瀬君を入れる前に、桐には「クラスメイトをモデルとしてひとり招いてもいいかな」と、ちゃんとことわりをいれた。
 私に仲がいいクラスメイトがいただなんて……と彼女は少し驚いていたけれど、快く了承してくれた。
「意外と涼しいな」
『ここ結構風通しがいいんだよね』
 成瀬君はあたりをきょろきょろと見渡しながら、黒いジャンパーのチャックをおろした。
 シンプルな白Tシャツ姿になった彼は、襟元を掴んで空気をパタパタと送り込んでいる。
『じゃあ早速ですが、ここに座っていただいて……』
「ポーズとか指定あんの?」
『えっと、じゃあ、膝組んで窓のほう見る感じで』
「こう?」
 まさかこんな目の前でスケッチできるなんて……。
 不覚にもドキドキしてしまう自分がいた。
 横顔も彫刻のように美しい成瀬君。なるほど生徒が騒ぐのも納得だ。
 拝むような気持ちで鉛筆をとると、不意に大きな風が吹いて、薄手のレースカーテンが私と彼の間を一瞬隔てた。
『わ……』
 ――本当にそれは、一瞬のことだった。
 けれど、カーテン越しの彼は半透明に見えて……儚くて、とても綺麗だった。
 外国人のような自然なアッシュ系の髪は光に透けて白くなり、太陽の光を映した瞳は琥珀色に輝いている。
 そう、まるで、芳賀先生の作品のような透明感に溢れていた。
 本当に美しいものは、触れたら消えてしまうのだと、美術部の先生がいつか言っていた。
 まさに今の景色は、その通りだと感じた。
 こんな心境もすべて彼には読まれているはずだけれど、彼は眉をぴくりとも動かさない。
『窓、少し閉めたほうがいいね』
 私は照れ隠しでそう胸の中でつぶやき、窓を閉めた。
 見惚れてばかりいないで集中しよう。こんな感情これ以上読まれたら恥ずかしいもの。
 ガリガリと鉛筆がザラついた紙面を走る音だけが響き、しばし沈黙が続いたが、急に成瀬が口を開いた。
「お前……、友達とかいるんだな、この前校門で見た」
『あ、桐のことかな……。小学生の頃からの唯一の友達で、その子がここのアトリエを貸してくれたの』
「志倉が声出た時からの友達なの?」
『え……』
「ていうか、いつから声出ないんだっけ?」
 その質問に、私は一瞬固まる。
 声が出なくなったのは、私が小学五年生の頃からだ。
 思い出そうと記憶をたどると、あるひとつの言葉だけが浮かんでくる。
『お前なんでそんなに本心と違うことばっか言ってるわけ?』
 自分の中の、一番触れてほしくない、ど真ん中を突き刺されてしまったあの言葉が、いまだに喉元に痞えている。
 その言葉を言い放ったのは、クラスでもあまり目立たない、私と同じように地味な男の子――名前は岸野明人(きしのあきひと)君だった。
 彼のことを恨んでいるわけではないけれど、どうしても、あの言葉を思い出すたびに足がすくんでしまうのだ。
 明らかに表情を強張らせている私を見て、成瀬君はそれ以上何も聞いてこなかった。
 けれど、私の脳内では、ずるずると芋づる形式で昔の記憶が蘇ってしまった。



 ダメもとで受けた私立の小学校に受かってしまったことには、私も親も驚いていた。
 当時の私は、もうすっかり近くの小学校に通うつもりでいたため、そこでのんびり過ごすつもりでいたのだ。
 予想していなかった合格通知に両親は慌てふためき、嬉しい気持ちより驚きや焦りが勝っているようだった。
 というのも、数か月前まで私たち家族は父の仕事の都合でアメリカで過ごしていて、日本にある本社に戻ってきたばかり。英語の面接がある学校だけ受けてみたら、という父の会社の人の提案で、記念がてら受けた有名学校が受かってしまったのだ。
 合格を祖父と祖母が大げさに喜んでいたことと、学校の設備がかなり整っていることから、これは“ちゃんと真面目に通わなくてはいけないかもしれない”と、幼いながらに何かを察した。
 一応帰国子女だった私は、まだ日本語にそこまで自信がなかったけれど、新しい生活に少なからず期待もあった。
 ……しかし、思っていたよりも、その“帰国子女”という特徴は子供の世界では影響が大きく、私にとっては間違いなく“壁”となった。

「柚ちゃんの話し方って、なんか変だよね」
「え……?」
「ねぇ、なんかしゃべってみて。おはようございますって、言ってみて」
 入学してから一週間が経った頃。
 隣の席に座っていた女子生徒に、無邪気な笑顔でそう言われた。
 私は戸惑い、自分の発音がおかしいことを初めて客観的に知らされ、羞恥心で顔が熱くなるのを感じる。
 黙り込んでいる私を見て、その女子生徒は、「ねぇ、はやく」と急かしてくる。
 少し怒気が含まれている気がして、私は絞り出すような小さな声で、「おはようございます」と返してみる。
 すると、その女子生徒は手をたたいて笑って、他のクラスメイトにも同調を求めた。
「ねぇ、やっぱり“す”の言い方、変だよねぇ、柚ちゃんって」
「なになに、もう一回言ってみてー」
 数人のクラスメイトが私のことを“変わったもの”を見る目で見ている。
 子供の好奇心はときに残酷で、私はその無邪気な感情に深く深く傷ついていたけれど、やめてとは言えなかった。
 ただただ皆の邪気のない丸い目が恐ろしくて……、見られることが恥ずかしくて、消えてしまいたいとその時はっきりと思ったのだ。
 ……それから私は、もうからかわれることのないよう過ごそうとだけ心に決めて、毎日を過ごしていくことになる。
 二年、三年、四年……と、クラスの隅っこに住みついて、貼り付けた笑顔だけで一日をやり過ごし、家に帰ると、両親には楽しく学校で遊んだという嘘の報告をする毎日。
 その度に両親は、『本当にいい学校に受かってよかった』と喜ぶので、私は自分でついた嘘でどんどん逃げ道を失っていった。
 学校内には本当に色んな生徒がいて、私のように大人しい子もいれば、面と向かって悪口を言えてしまうほど気の強い子もいる。
 その、気の強い子の代表格とも言える、“美園桐”ちゃんは、学校内では少し浮いていたほどだ。しかし彼女は誰かを傷つける言葉を言うわけではなく、自分の感じたことや思ったことに素直なだけという印象で、実際に話してみると優しい子だった。
 私もあんな風に、自分に正直でいられたら……。
 そんな羨望のまなざしで、私は桐のことをこっそり見つめていた。

 五年生になると、途端に容姿に気を遣う子が増え、クラス内での会話内容も、男子と女子で話すことが随分と変わっていった。
 私は、ファッションや恋の話に中々ついていくことができず、ひたすら頷く赤べこ人間と化していく。
「ねぇ見て柚ちゃんー、これママが買ってくれたペンケース。可愛いでしょ」
 朝、背負っていたリュックを下ろす前に、クラスいちのおしゃれ女子である亜里沙(ありさ)ちゃんが、バンビとリボンでデザインされたビニール素材のペンケースを見せてきた。
 たしかこれは、最近はやっている雑誌によく掲載されているブランドのものだったような……。
「ほんとだ、すごい可愛いね」
「……それ本当に思ってる?」
「え?」
「なんか柚ちゃんって、反応がつまんない」
 私の口から反射的に出た言葉は彼女のお気に召さなかったらしく、亜里沙ちゃんはスタスタと別の女の子にペンケースを見せにいく。
 他の友人たちは、かなり大げさにリアクションをして、羨ましいという感情を全身で表現していた。
 正直言うと、亜里沙ちゃんが思う可愛いと、私の思う可愛いとは少し基準がずれていて、だからあんな風に反応することはできなかったのだ。
 ぽつんとした気持ちで、友人たちがペンケースに騒いでいる様子を横目に見ていると、亜里沙ちゃんがちらっとこっちを向いた。
「ねぇ。ずっと思ってたんだけど、なんで柚ちゃんってランドセルじゃなくてリュック使ってるの?」
「え……、あ、これはアメリカで買ったお気に入りで」
「柚ちゃんってやっぱアメリカ人だもんね。だから日本のブランドとか詳しくないんだ」
 日本人とか、アメリカ人とか、そういう枠組みは、きっとこの環境ではものすごく大きなことなんだ。私は純日本人だけれど、彼女たちにはそう見えていないんだろう。