私の髪の毛が汚れそうになったくらいで、そんなに焦った反応をしてもらわなくても……という気持ちになる。
私は何も言葉を発していないのに、彼はどうしてこんなに人の感情に、敏感でいられるんだろう。不思議に思いながら、私は“ありがとう”の手話をする。
成瀬君は取っつきづらいときもあるけど、いつも多くの人に囲まれていて、私なんか視界に入れる余地もない人だと思っていた。
だけど、取りたいと思っていたペンキを取ってくれたり、コミュニケーションが難しい時に間に入ってくれたり……。
まるで自分の声が透けて見えているかのようだ。
成績優秀で運動神経抜群で、加えて気遣いもできるだなんて、神様が贔屓しているような人間もいるんだなと、ただただ感心する。
そんな完璧人間のような彼だから、あの日の涙のことは、きっと触れてほしくないことなんだろう。……私もそっと、胸にしまっておいてあげよう。
そんなことを思っていると、買い出し班である南さんたちが教室に入って来た。
「成瀬ー、画用紙買ってきたよ」
「どうも」
いつ見ても南さんは美しい。艶やかなボブは彼女の卵型の輪郭にすごく合っている。
彼女の整った横顔をいつかモデルにして、絵を描いてみたいと思うほどだ。
しかし、成瀬君はぶっきらぼうな態度は相変わらずで、会話のキャッチボールを続ける気がまるでない。
そんな態度にも怯まず、南さんは成瀬君の頬にピトッと何かを当てた。
「あとこれ、成瀬がいつも噛んでるガムっ」
「……お前これ、予算で買ったの?」
「いいじゃん、これくらい。バレないっしょ? 皆には別のお菓子買ったし」
「いや、普通に買うわ。後で金渡す」
「何それ、いいのに」
「いいのにって……、お前どんな価値観してんの?」
ボトルガムを受け取り、呆れたように言い放つ成瀬君の冷たい態度に、私はとても胃が痛くなっていた。
なんでそんな、思ったことを全部、口に出せてしまうんだろう。
そんな怖いこと、私は絶対できない。
彼は人に嫌われることが怖くないのだろうか。
私は、人に嫌われることが怖いし、誰かと関わって自分の印象を残すことすら怖い。
でも成瀬君は、そんな私の気持ちなんて、一ミリも分からないところに存在しているんだろう。
一気に彼のことを遠くに感じていると、南さんはにっこり笑って、「成瀬って意外と真面目なんだ?」と茶化すように言い放ってから、突然私に視線を向ける。
私はドキッとして、思わず俯いたが、つむじに向かってひしひしと痛い視線を感じ取った。
「志倉さん……だっけ? 成瀬と最近仲良し?」
私はその言葉に、とっさにふるふると首を横に振る。
当たり前だけど、仲良しなわけじゃない。成瀬君はできる人だから、できない人をほっとけないだけだ。
「もしかして、成瀬となら話せるの?」
そんな訳ない。どうしてそんな風に思うのか。
南さんの真意がわからないまま、私は再び、首を横に振る。
成瀬君が、そのどこか緊張感漂う空気に耐えられなくなったのか、何か言いかけたその瞬間、南さんは一言無邪気に言い放った。
「いいね、その、守ってあげたくなる感じ?」
「おい」
――たった二文字。だけど、とてつもなく機嫌が悪そうなその低い声は、あたりの空気をピリッとさせるには十分だった。
成瀬君のその声に驚き顔をあげると、南さんも目を丸くして、彼のことを見つめている。
「無駄口たたかずに、持ち場戻れよ、南」
「……はーい、成瀬先生」
しかし、その張り詰めた空気感は、南さんの気の抜けた返事ですぐに崩れた。
彼女は敬礼のポーズを取ってその場を和ませてから、他の班の元へ向かう。
さっき、南さんが言いかけた“守ってあげたくなる感じ”というのは、“か弱いアピールしている感じ”だというニュアンスであることは、彼女の話し方から私でもなんとなく分かった。
自分は、“弱い人間”だと甘えている――。
それが周りの皆をイラつかせていることは、十分分かっている。今までも何度も経験してきた。
『病弱アピールをするな』、『本当は話せるくせに』。実際に面と向かって言われたこともあるし、そう思っているだろうと、なんとなく感じ取ったことも多々ある。
甘えていると思われていることは、分かっている。だからずっと、保健室で静かに登校してきた。
私が私を一番許せないよ。この七年間、ずっと。
でも、小学生の時の過去が私のことをずっと縛って、何をどうしても喉に力が入らないんだ……。
自分でもどうしようもない痛みを、他人に分かってもらうことはきっと人間には不可能だ。
私だってそんなことは無理だ。だから、“甘えている”と思う人たちも、決して悪くない。そのことも私は十分に分かっているつもりだ。
なのにどうして、私はまだこんなことでいちいち傷ついているんだろう。情けない。
ぎゅっと目を瞑り恥ずかしさに耐えていると、成瀬君が急に、「スマホ貸せ」と言ってきた。
なんで、スマホ……?
戸惑っている私から強引にスマホを奪い取り、勝手にSNSのIDを交換する成瀬君。ひたすら焦っていると、スマホがすぐに私のもとへ返された。
そして、自分の手に戻ってきた瞬間、彼からのメッセージが受信されスマホが震える。こんなに目の前にいるのに、文字で彼の言葉が届く。
『今、どんな気持ち? 南になんて言い返したい?』
そんなメッセージがぽんぽんと送られてくる。
私は戸惑いながらも、『とくに何もないです』と返す。
だって、本当に何もない。私が南さんの立場だったら、私のような人間をどう思うかなんて分からないし、何が正解とかでもない。人の感情は自由だ。
すると、成瀬君は『思うのは自由だけど、言っちゃダメなことはあるだろ』と返してきた。
その返事を見て、私はしばし固まる。
まるで私が思っていることに対しての、返事のようで……。
メッセージ履歴には『とくに何もないです』としか返していないのに、彼は今いったいどうしてこんな返信をしてきたのだろう。
スマホを持ちながら、私は成瀬君の美しい顔を見つめる。
彼は、自分の膝に顎を乗せて、私のことを上目遣いで見つめている。何かを……探るみたいに。
それから数秒、間を置いて、信じられないメッセージが送られてきた。
『俺、人の心読めるんだ』。
人の心が、読める……?
すぐには全く受け止めきれない情報を前にすると、人の頭の中は、本当に真っ白になる。
目を丸くして驚いている私を見つめたまま、成瀬君は眉ひとつ動かしていない。
その表情を見て、嘘や冗談を言っているわけではないことを、私は一瞬にして悟った。
――これは“冗談”ではない。
それだけは、すぐに分かることができた。
■全部あげる side成瀬慧
『俺、人の心読めるんだ』――。
そうメッセージを送った時の志倉の様子は、石化しているという表現が一番しっくりきた。
両親以外には、生まれて一度も暴露したことがない秘密を、今、志倉に初めて打ち明けた。
信じてもらえるとか、もらえないとか、そんなことはその時は考えていなくて。
ただ、彼女が自分のことを許せないと思う感情が、ぽろぽろと胸の中に切なく流れ込んできて、気づいたらそんなメッセージを送っていた。
あの時の自分は、反射的に罪滅ぼしの意識で、助けたいとでも思ったのだろうか。
声を出せない彼女の心の内を聞くことができる自分なら、何かできるかもしれないと。
どこまでも自分本位で、笑えてくる。そんなことできるわけがない。
秘密を打ち明けてからすぐに、ものすごく後悔した。そんな方法で彼女に近づくなんて、許されるはずがないのに。
すぐに冗談だと言おうとしたけれど、彼女は信じ難い気持ちはありながらも、なぜか『俺は嘘をついていない』と確信していた。
……どうしてだ。
どうしてそんなに、人を信じる気持ちを、まだ持っていられるんだ。
“信じる”なんて、そんな感情、俺に対してだけは、持たないでくれよ。
俺はその日、それ以上何もメッセージを送らずに、何事もなかったかのように作業を進めた。
彼女の中の綺麗な感情と向き合うことが怖くて、逃げたのだ。
〇
家に帰ると、母親はいつも一瞬緊張したような表情をする。
俺に読まれたら都合の悪い感情を消すために、慌てて頭を別のことでフル回転させようとしているのだろう。
ダイニングルームに入ると、俺に全神経を尖らせている母親が、こちらを見てにこりと笑った。
「おかえり慧。少し遅かったのね」
「……文化祭の準備があった」
『まだ部活動をしているのかと思った』という感情が透けて聞こえてきたけれど、俺はそんな心の声を知らないふりをして、無感情で答える。
母親は一度も働いたことがない生粋のお嬢様の専業主婦だ。
この家は母親側の持ち家で、一般的な家とは違い、“洋風のお屋敷”と言ったほうがしっくりくる。“心を読む能力”を持った曾祖父の資金を元手に作った繊維製造会社を、母親は継がずに、婿養子に入った父親が社長となって継いだ。
昔はお手伝いも住み込みで雇っていたけれど、今は祖父と祖母も亡くなったためお手伝いは通い制度になり、この無駄に広い家で父母と三人暮らしをしている。
ヴィンテージもので重厚感あるソファーが部屋の中で一番存在感があり、テレビのそばには祖母が趣味で集めていたという海外製のアンティークが並べられている。
ヨーロッパ調デザインの年季の入ったダイニングテーブルの奥には、今時珍しく暖炉があり、床には当たり前のように全面に絨毯が敷かれていて、今の時代に沿った家ではないことは分かっていた。
「慧の高校の文化祭は華やかで有名だものね」
ワンレンボブの髪で顔を隠して、母親はカウンターキッチンで食材を切るふりをしている。目を合わせないほうが感情を読みにくい、という、俺が幼いころについた嘘を、家族は今も信じ続けている。
そんな嘘をついたのは、家族を思ってのことではなくて、俺にとってもその方が都合がよかったからだ。
本心とちぐはぐなことを言われているとき、どんな顔をしたらいいのか、分からないから。
荷物を置いて、制服の上着を脱ぐと、俺はすぐに自分の部屋へと向かおうとした。
しかし、そんな俺を母親が呼び止める。
「慧。部活のことだけど……、あれはお父さんと話し合って、慧のことを思って判断したの。それだけは分かってほしい」
「分かるって、何を?」
「お父さんが勝手に顧問の先生に話をしに行ったのは、少し強引だったかもしれないけど、そうしないと慧は辞めてくれなかったでしょう?」
少し遅れて、言葉とは裏腹な声が聞こえてくる。
『無理やり退部させたこと、怒っているだろうか』
『いつか不満が爆発しないだろうか』
『私たちを憎んでいるのではないだろうか』
まるで、危険物にどう触れたらいいのか分からず怯えているようだ。
心の声と、取り繕われたうわべの声、そのどっちに俺は言葉を返したらいい?
今母親が言いたいのは、分かってほしい、ではなく、私たちを恨まないでほしい、ということだ。
母親は、まっすぐこちらを見つめて、俺の返答をどぎまぎしながら待っている。
そのおびえた目を見ると、自分は化け物なんだろうかとさえ思う。
もしかしたら志倉も、明日からこんな風に俺に怯えて近寄ってこないかもしれない。
ああ、だったら、化け物でもいいかもしれないな。
自分の八つ当たりのせいで、俺は彼女の人生を変えてしまったんだ。
死んでも許さないと言われても仕方ないことを、俺はしたのだから。
こんな風に怯えられながら、距離をとったまま、いつか彼女が俺のことを思い出してくれたら……、そのときは必ず、彼女の力になろう。
俺にできることはいつだって、その人の人生から“消える”ことしかない。
「もうどうでもいい」
「え……」
「そんなこと、もうどうでもいい」
走ることは、俺の唯一だった。
だけど、もうそんなことはどうでもいいと、諦めることでしか受け止めることができない。
ただ走るだけならいつだってどこでだってできるのだから。
「慧……」
母親は、俺が母親を“安心させるような言葉”を言ってくれなかったことに不安になり、何か言いたげな表情をしていた。
俺はそれに気づかないふりをして、古い螺旋階段をのぼり二階へと向かう。
ベッドとテーブルと本棚以外、ほとんど物がない自分の部屋に入ると、俺は窓際にある椅子に腰かけ頬杖を突く。
最近の家ではあまり見かけない、天井の高さほどある縦長の格子窓から、月明かりが差し込んでいる。
俺は部屋の電気をつけないまま、その景色をただ眺めた。
そっと目を閉じると、能力のことを打ち明けた時の、志倉の驚いたような表情が瞼の裏に浮かんだ。
『彼は嘘や冗談を言っているわけではない』。あんなに動揺していたのに、なぜすぐにそれだけは確信してくれたのか。
どうしてそんなに、心がまっすぐでいられるのか。
彼女の瞳には、いったいどんな風に世界が見えているのか。
……教えてほしい。
そんな風に思うことくらいは、許してもらえるだろうか。
「志倉、柚葵……」
なんとなく彼女の名前を口にすると、今も色褪せることのない罪悪感が浮かび上がってくる。
彼女の声を聞いたのは、もうずいぶん前のことで、どんな声だったかも思い出せない。
記憶と五感の関係性で考えると、最初になくなるのは「音の記憶」だと聞いたことがある。
どうして神様は、人間をそんなつくりにしたのだろうか。自分の耳に入る人の声だけは、どんな技術を使っても完璧には再現できないというのに。
そんな大切なものを、俺は彼女から奪ってしまったのだ。
四月に再会したあの瞬間、志倉に対して瞬時に思ったことを、俺は今も鮮明に覚えている。
……許してほしい。
俺の全部をあげるから。俺が君の声になるから。
自分本位にも、そう願ってしまったのだ。
■君の秘密 side志倉柚葵
人の心が読める。
そんなこと、ありえる訳がない。
でも、成瀬君がそんな冗談を私に言う理由も見つからない。しかも、あんなに真剣な瞳で。
あのメッセージを送った後、彼は少し何かを後悔したような表情をしていた。
なんだかその表情が、初めて出会ったあの日の弱弱しい彼を彷彿とさせて、私は頭の中が真っ白になってしまったのだ。
何もメッセージを返せない私を見つめて、彼はふいと視線を私から逸らした。
ありえるわけがない。だけど、成瀬君はきっと、嘘をついていない。
矛盾した感情がいつまでもぐるぐると胸の中で渦巻いて、私はその日の夜、中々寝付くことができなかった。
次の日、私はどぎまぎしながら教室に入り、成瀬君の姿を探す。
いつ成瀬君にメッセージを送ってもいいのか。昨日のことは本当なのか。これ以上深堀してもいいのか。
何も感情を整理できないまま教室のドアを開けると、成瀬君は今日も男女に囲まれていた。
彼の席は私の席よりずっと前なので、うしろ姿しか確認することができないけれど、きっと今日も気怠そうな、クールな表情をしているのだろう。
その背中を見て、私はふとあることを試したくなった。
もし、彼が本当に心を読むことができるなら、私が今心の中で念じたことに反応してくれるかもしれない。
ドクンドクン、と勝手に心臓が速く動き始めて、緊張が増していく。
私は手に汗を握る思いで、ある言葉を胸の中で強く念じた。
『成瀬君。本当に心が読めるなら、今右手を挙げてみて』
一番後ろの席から、一番前にいる成瀬君へ、そっとメッセージを送ってみる。
すると、彼は友人の話を適当に聞きながらも、すっと右手を軽く挙げたのだ。
――嘘だ。本当に?
偶然かもしれない。だけど、こんなタイミングでありえる?
信じられない気持ちでそのうしろ姿を見つめていると、手に持っていたスマホが震えた。
そこには『左手も挙げようか?』というメッセージが。
私は慌てて『信じます』とだけ返した。
この世界には、色んな人がいるものだ……。
私の小さい脳では、そんな浅い感想しか出てこず、スマホを持ったまま固まっていると、再び彼からメッセージが届く。
『今日の放課後、美術室行っていい?』
そのメッセージを見て驚きパッと顔をあげると、彼は私のほうをじっと見つめていた。
能力のことを、詳細に話してくれるつもりなのだろうか。
どうして私なんかにそんな秘密を暴露してくれたんだろうか。
他に知っている子はいないのだろうか。
次々浮かんでくる疑問の数々に、私はメッセージを返すことを一瞬忘れてしまう。
そんな私の感情を彼は再び読み取ったのか、とてもシンプルなメッセージを返してきた。
『能力のことは、家族以外誰も知らない。志倉しか知らない』
そのメッセージを見て、私はますます動揺の色を浮かべてしまった。
今このクラスで私と成瀬君がメッセージを送りあい、しかも重大な秘密を唯一共有しているだなんて、いったい誰が想像するだろうか。
私は、抱えきれないほどの疑問を抱きながらも、彼の秘密に触れたい欲を抑えられずに、『はい』と一言だけ返してしまった。
この教室で、一番存在が遠い人と、文字通り“心”で繋がっているだなんて。
こんな不思議なことが、私の人生に起こるだなんて、私だって想像もしていなかった。
〇
「じゃあ、今日も遅くならないようにね」
白髪が似合う美術部の顧問は、今日もゆるく私に話しかけてから、特に何も課題を与えずに教室を出ていった。
私はペコッと会釈だけ返し、窓際にイーゼルを運んで、いつものように大きなスケッチブックを立てかける。
桜はもうすべて葉桜になり、夕日が新緑を透かし輝いている。
私はあえて教室の電気をつけないまま、窓から見える景色をぼうっと眺めていた。
この窓から成瀬君が走る姿を見られなくなってから、もう二カ月が経とうとしている。
そして信じられないことに、この距離からしか眺めることができなかった彼が、今日この教室にやって来るというのだ。
緊張して、上手く筆が動かせない。
成瀬君がいつ来るのかばかり気になって、絵具をパレット上で混ぜるばかり。
しかも、今描き途中の絵は成瀬君が走っている様子の絵で、これを本人に見られるわけにはいかない。と言っても、廊下でぶつかったあの日、下絵を見られてしまったのだけど……。
彼が来たらすぐにこの絵を閉じて隠そう。そう考えもしたが、心を読まれてしまうのだから、後ろめたいことは隠しても意味がないのか。
だったらもう、開き直ってこの絵と向き合うしかない。