鄭秋叡は宇静が病に倒れる前よりすでに、桂妃の真意を掴んでいた。宇静もまた同じくして、香月の身を案じて彼女の元へ助言を授けた。その夜である。宇静に流れる血が、香月への接触を許さなかったのだろう。桂妃の言葉もあながち間違いではなかった。
宇静は生死の境をさまよいながら秋叡に命じた。
──香月を救い出せ。

あれから、ひと月半。香月は深い眠りについていた。
桂妃の謀り事がまたたく間に後宮内を駆け巡り、彼女が庶民への降格を言い渡された後も、香月は一向に目を覚ます気配がなかった。
「よろしいのですか?」
秋叡が問う。苑で黄昏(たそがれ)る主の様子を堪りかねた言葉だった。対し、宇静はとぼけて池の魚を眺める。
「何がだ」
「琳香月です。一度、会いに行っては?」
病魔のせいで(うつ)ろだった宇静は、あの夜に秋叡へすべてを打ち明けている。彼は半信半疑だったが、今でも忠実に尽くしている。それを(わずら)わしそうに、宇静は笑い飛ばした。
「私が行けば、彼女の体に障る。遠縁とは言え、この身には始祖帝の血が流れている。私たちは相容れぬ」
初めに出会った頃もそうだった。目が合った瞬間、体の奥に眠っていた何かが暴れてのたうつ感覚に襲われた。それはきっと彼女も感じていたはずだ。
「なんの因果(いんが)か……これも呪いのうちか」
「しかし、陛下の魂は清らかです」
秋叡はきっぱりと言い放った。だが、宇静はこれを笑って受け流した。
「あなたは、香月を守ろうとしていました。だから、神からの自立を願った。そうして国を作ったんでしょう。すべては彼女のために。呪いを断ち切るために」
「………」
宇静はため息を漏らした。幼い頃から秋叡は弟のように思っていたが、素直に心を許せなかった。だが、今は違う。
「知ったような口をきくな……まぁ、そうだな。お前の言う通りにしてみよう」
振り返ると、それまで険しかった秋叡の顔が一気にほころんだ。

 ***

白い夢の中、雪が舞う外は肌身を凍りつかせるかのごとく寒く、吐く息が綿毛のようにふんわりと宙に浮かぶ。湖は寒々しく、薄い氷が張っていた。その下を魚がゆったりと身をくねらせる。
香月はその池をじっと眺めていた。幼く、小さな足で池をコンコンと叩く。
「香月様!」
そんな声が方々から聴こえてくる。香月は慌てて灯籠(とうろう)の影に隠れた。屋敷は広く、隠れていたら誰にも見つからない自信がある。しかし、彼だけは違った。
「あ、見つけた。香月様、戻りましょう」
同い年の少年は、しっかり者で凛々しい顔がとても魅力的だった。
「劉帆。香月〝様〟はやめてっていつも言ってるでしょ」
「でも、私はあなたの従者です」
「二人きりの時はいいの。これは私の命令だと思って。ね?」
「はぁ……うーん。じゃあ、香月」
劉帆はぎこちなく緊張気味に言った。それを受け取るかのように香月は彼の手を優しく取る。
「ごめんね、気を使わせて」
香月の言葉に、劉帆は首をかしげた。
「知ってる? 私は玄竜神様に捧げられるために生まれたの」
物心付く前から、両親の顔を知らずに育った。玄竜神の妃という役目を果たすためだけに生まれた存在なのだと教えられてきた。〝その日〟が来るまでの間、屋敷の奥深くに閉じ込められているが、たまにこうして人の目を盗んで遊ぶのが香月の唯一の息抜きだった。
そんな身の上を話せば、劉帆はなんとも言い難い表情を浮かべて真剣に唸っていた。
「あら、そんなに難しく考えないで。だから、〝その日〟が来るまでの間、私を普通の女の子として見てほしいの」
「分かりました」
劉帆は生真面目に返事した。
それが彼を意識したはじまり。ここから先は、叶わぬ恋に打ちひしがれる日々だった。
「また繰り返すのね」
薄氷に立つ香月は、幼い前世に言った。今、二人の香月が相対する。
「こんなことを繰り返しても劉帆は戻ってこないのよ。もう終わりにしましょう」
問う。これはきっと、己が解くべき呪いだ。心次第でこの呪縛から解放される。
「いいえ、まだよ。まだ終わらない」
前世の少女は強い口調で言った。
香月は眉をひそめた。すると、幼い少女の体がボロボロとまるで鱗が剥がれ落ちるかのごとく姿が崩れていった。流れていく前世の欠片が灰色の空へ舞い上がっていく。視線を移すと、そこには一条の黒竜が漂っていた。
「玄竜神様……!」
玄竜神は長い躰をくねらせ、天へ昇っていく。前世の欠片が玄竜神の中へ取り込まれていく。その時、香月の全身を旋風が襲った。飛ばされそうなほど強い風に抗おうと踏ん張るも、薄氷の上では足元が覚束(おぼつか)ない。氷が砕けていき、香月は冷たい水の中へ吸い込まれた。
その時、光る鱗を目の端に捉えた。背中の鱗が剥がれ落ちていく。香月の体が沈むにつれ、鱗だけが上へ上へと昇っていく。
──香月。
どこかからか声が聴こえる。それは少年のようでも、青年のようでもあった不可思議な音だった。そして、あの黄昏に浮かんだ影と同じ声だと気がつく。
──お前は、なんのために生まれてきた?
「なんのために……」
思考する。繰り返されてきたこの呪い、それはきっと罪に報いるためだけではない。
あの日に誓った約束を果たすため──

「香月!」
その声が耳に届いたとき、香月は息を吹き返した。
やわらかな寝台に横たわっており、ほのかに明るい蝋の火があたたかさを感じる。それよりも、先に目に留まったのは冷血漢と恐れられる皇帝。だが、その目は幾分も優しく儚い。
「陛下……」
香月はしゃがれた声で言った。慌てて身を起こす。すると、彼はすぐに手を差し出したが、気まずそうに引っ込めた。
空気が重い。それでも心が掻き立てる。その顔を見ていると、胸が熱くなる。段々と脳が覚醒していくにつれ、彼の顔が愛しい人と重なった。何も言わずとも、魂が惹かれる。
「劉帆……」
こわごわ呟くと、彼はほっと安堵したように笑った。そして、優しく引き寄せる。
「待たせてすまない、香月」
肩に顔をうずめて言う彼の声はとても弱々しく、儚げだった。触れるのが怖い。でも、触れられずにはいられない。こうして触れ合えるということは、つまり、呪いはもう解けたのだから。
「ずっと、君に会いたかった」
その声音はまさしく劉帆と同じく優しい。懐かしい薫り、ぬくもりに顔を埋める。
「私も……ずっと、この時を待っていたわ」
──だから、私は彼に会うために生まれたの。
心の奥で生きる〝彼女〟が言う。
悠久の時が今、ようやく終わりを告げた。

【完】