ある秋の暮れ。屋敷の外で香月は、白雪のような襦裙をまとっていた。隣には優しく微笑む青年──劉帆(りゅうほ)がいる。湖の魚を見つめ、香月はため息をこぼした。
「私、呪われるかもしれないわ」
鬱々と言う。すると、彼は首を横に振った。
「そんなこと、僕がさせない」
「あなたは玄竜神様の恐ろしさを知らないのよ。それに、陛下がどんな方かも」
「陛下は残虐非道で、君を人間と思っていない。よく知ってるよ」
「まぁ、そんなことを言って、もし誰かに聞かれたら……!」
香月の鋭い声に、劉帆はクスクスと忍び笑った。その余裕ある態度が理解できず、香月は腹を立てる。
「もう! 私はあなたのためを思って言ってるのよ!」
「ごめん。ありがとう、香月」
そう言って、彼は香月を抱きしめた。
「やっぱり離したくない。君を見送るなんて、僕にはできない。君を愛しているんだ」
「それは……私も同じ気持ちよ」
香月は喉を振り絞って囁いた。胸の奥が切なくなり、涙が溢れそうになる。
「私、怖いの。この身が竜穴の中に封印されるなんて。どうして、私なの? どうして私はあなたと生きられないの?」
「香月……!」
劉帆の力が一層強くなる。香月は彼に身を(ゆだ)ねた。このまま埋もれていきたい。彼と生きられたらどんなに幸福だろう。劉帆はいつも励ましてくれた優しい人だ。そうして次第に心が惹かれて、離れがたくなってしまった。
「逃げよう、香月」
「でも」
「大丈夫。もうずっと前から準備してきたんだ。あとは君の心次第だった。今、僕は改めて思った。この身が朽ち果てても、どんなことがあっても香月を思い続けるよ」
「誓って?」
「あぁ、誓う」
その力強い言葉に、香月は胸を打たれた。愛とは、なんと美しく儚いのだろう──

いつの間にか枕を濡らしていた。それに気がついたのは、宮の外が騒がしくなったと同時だった。
「琳香月!」
翌朝、香月は数人の衛尉たちに叩き起こされ、部屋から引きずり出された。
一体何事か。部屋を出てはならないという命令を無視するわけにいかず、抵抗を試みたもののか弱い少女の力ではどうすることもできなかった。
香月は拝殿に連れてこられた。そこには、無数の衛尉、妃、貴人までが揃っている。皆、香月を遠巻きに眺めており、目を合わそうとはしない。しかし、一人だけは違った。
「琳香月」
呼ばれて顔を上げると、そこには黄金の装飾がまばゆい桂妃の姿があった。彼女は凛とハリのある声で言う。
「陛下が病に伏しました。一命はとりとめたものの依然として眠ったまま。この意味がそなたに分かりますか?」
「い、いいえ……」
香月は驚きでひっくり返りそうになった。しかし、なんとか態勢を崩さぬよう努める。
桂妃は厳しく眉をつりあげ、香月を睨んだ。
「そなたの呪いが陛下に悪影響をもたらしたと、この場にいる皆がそう思っています」
「そんな……私の呪いは私だけのものです」
「口を慎みなさい。勝手な発言は許しません」
桂妃の声がひときわ響き、香月は首をすくめた。
考えがまとまらない。混乱する。どうしたら良いかなど分からない。しかし、自分が悪いということは目に見えて明らかである。
「これは国の一大事です。一刻も早く儀式を執り行い、玄竜神様にお許しいただくのです。良いですか、香月。今宵(こよい)、そなたを竜穴に封じることが決まりました」
桂妃の言葉に、全員が声を上げた。大きな拍手と歓声に包まれる。異様な空気に飲み込まれていく。
しかし、ようやく役目を果たすことができるのだ。呪いを断ち切る術は結局見つからなかったが、それももう諦めるしかない。
その時、不意に昨夜の影の言葉を思い出す。
──逃げ出したいとは思わないのか?
すぐさま振り払う。香月は深々と一礼した。
「陛下のために、この身を玄竜神様に捧げます」
すると、周囲のざわめきがぴたりと止む。おそるおそる顔を上げると、桂妃がうっとりと夢見心地に笑っていた。

香月はとにかく従うしか手立てがなかった。
竜穴へ封じる前に体を清め、雷紋(らいもん)の刺繍が施された黒襦裙と月桂樹の髪飾りをつけられる。首には玉飾りがあり、とても重たい。一つ一つの装飾が上等のものだが、見た目は陰気だった。
冷たい石壁の間に通され、その中央で赤々と蠢く炎が香とともに焚かれる。周囲を囲う高尚な長老たちが祈りを捧げる。香月はあの夢の模様を思い出していた。その一方で疑心を浮かべる。
儀式を行うのは宇静の役目のはずだ。その彼が病に伏したなら、誰が儀式を執り行うのだろう。しかし、問うべき相手がいない。秋叡(しゅうえい)ならば何かわかるのではないかと、周囲の目を盗んで探したが、彼の姿も見つからない。
「この者を竜穴へ」
いよいよ準備が整い、香月は抱えられるようにして輿に乗せられた。
足音だけが聴こえる。生き物の呼吸音も感じられず、空気がすべて清廉されていた。これから、あの夢の中の少女と同じく痛い目にあうのだろうか。
『そんなことはさせない』
突如、脳内のどこかで声がした。あの影の声と似ている。香月はハッと顔を上げた。〝声〟の主はどこにもいるはずがなく、香月はすぐに顔をうつむけた。目を閉じる。
もしかすると、心で会話ができるのかもしれない。それに気がついた時、体が急激に軽くなった。空に舞うような感覚。どことなく、あの夢の中にいるような──その場で魂だけが漂流しているように思えた。
──あなたは誰?
『誰かは知らぬ方が良いだろう』
〝声〟は頑なに存在を隠し続けた。
──なぜ、私に声をかけるの?
『君を助けると誓った』
「……っ」
思わず感情が揺れる。この決断がまた揺らぎそうになる。香月は首を横に振った。
『この呪いを断つ。必ず、果たしてみせる。だから──』
「やめて……もう、いい」
小声で呟くと〝声〟はふわりと消えた。同時に体が重さを取り戻す。
その時、輿の揺れも止まった。地へ降ろされる。
香月はゆっくりと外に出た。満月が近い。空気が冷たく、うっすらと霧に覆われていた。ここがどこかも分からない。辺りは鬱蒼とした森であり、濃い緑と土の匂いがする。集団が持つ無数の松明で照らされた道の中、目をこらして見てみると、正面にぽっかりと大きな穴があった。真っ暗な洞穴だ。住んでいた場所とは様子が違い、穴には幾重も縄が張り巡らされていた。人ひとりがようやく入れるような空間がある。
香月は足がすくんだ。この中には入りたくない。禍々しく冷たい気で満ちていることを肌で感じた。この場にいる誰もがこの竜穴に圧倒されている。
「これこそが、玄竜神様へ通じる道、竜穴です」
そう言ったのは、黒袍をまとった桂妃だった。
「どうして、桂妃様が……」
「陛下に代わって、私が儀を執り行います」
彼女は無慈悲にも言い放った。ここにいるすべての者たちが異を唱えることなく、香月を見つめている。香月は納得がいかなかった。それは、本当に自分の気持ちなのか、夢の中の前世がそう言っているのか判然としない。
──これで、本当に儀式が成立するの……?
その疑心が拭えない。すると、桂妃は香月の目を見て、何かを悟ったように唇を舐めて微笑んだ。
「香月」
一歩、近づく。彼女から漂う金木犀(きんもくせい)(かお)りが甘く、鼻腔をくすぐっていく。目眩がしそうなほどに、脳の奥がしびれていく。
「あのね、あなたは陛下から寵愛を受けていたのよ」
「えっ?」
思いもよらない言葉だった。なぜ、どうして、いつの間に。問いが溢れるも思うように口が動かない。桂妃は耳元で優しく囁いた。
「不思議よね。あなたに呪いをかけた始祖帝の子孫なのに、あの方はあなたをとても大事にしているの。どうしてなのかしら? そもそも神にそむいたからと、呪いをかけてまで苦しめるだなんておかしいと思わない?」
「おかしい……?」
「異分子は抹殺して(しか)るべきなのに、魂を(めぐ)らせ後世に残す。奇妙だわ。そこになんらかの歪んだ愛憎が練り込まれているような気がしてならない。陛下の病は、あなたへの寵愛という禁を犯したからだと私は思うの」
香月は両目を見開いて彼女を見た。不確かな情報のみで、香月の抹殺を企てている。その思惑に気が付いてももう遅い。すでに体は薫りで拘束されている。口もきけない状態でただただ愕然とする。
夢の中の少女と劉帆、そして黒袍の始祖帝が一様にぐるぐると脳内を駆け巡った。背中の鱗も熱を帯び、逆立っていく。香月は今、自分がどこにいるのかすら認識できないほど混濁していた。
「玄竜妃! 神に選ばれし妃よ。今より神と(ちぎり)を交わし、国に安寧を、王に繁栄を、永久(とこしえ)に和をもたらし(たま)え」
桂妃の鋭い声を合図に、香月は竜穴の中へ自ら足を踏み入れた。暗闇の中へ吸い込まれていく。もう引き返すことはできない。桂妃の声も、誰の声も耳には届かない。
そして、彼女は静かに(うろ)の中へ消えた。

 ***

琳香月を竜穴に封印してから、ひと月が経った。宇静は早足で桂妃の元へ向かうべく、後宮に姿を現した。
一時期は昏睡状態だったのが嘘のように回復している。彼の病はやはり呪いの影響だったのだと皆が噂した。
そうして、この功績を讃えて祀り上げられたのが桂妃である。彼女への期待は一気に膨れ上がり、誰もが宇静の寵愛を受けるのだと信じた。
豪華に飾り立てられた金色の部屋の中、桂妃が美しい佇まいで彼を迎える。
「随分と世話になったようだな」
宇静が言う。いつもと違い、その瞳は憑き物が落ちたように生き生きと光を帯びている。桂妃はうっとりと夢見心地に言った。
「すべては陛下のため。この命にかえても、あの呪魂者から陛下をお守りせねばと決意しました」
「何を言っているんだ。呪いは感染(うつ)らないと、お前が報書で何度も書いていたはずだろう? 私の病はあの呪魂者のせいだと?」
どうやら彼は、呪いの影響だとは考えていないようだ。桂妃は面食らい、言いよどんだ。しかし、すぐに笑みを浮かべて上目遣いに見る。
「この世にはまだまだ分からないことが多いのです」
「……それは違いない」
そう言って宇静は肩をすくめて笑い、彼女を強く引き寄せた。突然のことに桂妃は驚く。しかし、すぐに微笑を浮かべて彼の胸に身を委ねる。冷血漢だと恐れられる黒鱗の王が、ようやく心を開いた瞬間だ。
宇静は桂妃を寝床に誘導した。その間、彼は何も言わなかった。しかし、桂妃も無言でその愛を受けようと努めた。その手に触れて、唇を重ねて、永遠に結ばれる。
もう少しで触れ合えるところで、宇静が静かに言った。
「──気は済んだか?」
「え?」
驚くのも束の間。桂妃の喉が思い切り絞め上げられる。宇静の左手が彼女の喉を握っていた。
「桂妃、よくも(たばか)ったな」
一瞬で恐怖に塗り替えられる。
宇静の手はすぐに離れたが、ただならぬ気迫がこの場をあっという間に支配した。彼は覆いかぶさるように桂妃の両脇に手をつく。桂妃は両手で口元を覆い、えずきながら彼の冷たい目を見る。涙に濡れる頬を拭うことはなく、宇静は底冷えするような声音で言った。
「私の目が黒いうちは、何人も謀りは許さぬ。まったく、血は争えないとはよく言うが……私も迂闊(うかつ)だった。始祖帝の血筋に当たるお前を信用するなど、愚の骨頂」
「お、おっしゃってる意味が分かりません」
桂妃は震えながら言った。すると、宇静はにべもなく嘲った。
「お前の血筋は大元をたどれば始祖帝に行き着く。知らされていないのか、しらばっくれているのか……(ばく)家はその昔、始祖帝の直系だった。しかし、呪いを生み出したせいで世の顰蹙(ひんしゅく)を買った。その後、莫家は親族の(いん)家に王座を渡した」
「そんな……私は知りません! そのような記録はどこにも……!」
彼女は壁に積み上げた史伝巻物に目を遣った。すると、彼もその視線を追いかける。
「お前の持つ史伝は莫家のもの。名誉を守るため誤った記録があっても不思議はない」
宇静の言葉に桂妃は言葉を失った。首を横に振って訴える。が、宇静は容赦なく凄んだ。
「おとなしく従っていればまだ大目に見たが、よもや香月を竜穴に封じるとはな。恐ろしい女だ」
「だって、あの娘は……でなければ、陛下のお命が危うく……」
もはや言葉も整わず、切れ切れにあえぐ桂妃。
宇静は嘲笑を飛ばしながら、彼女からゆっくり離れた。扉を開け放ち、遠く彼方にある銀楼宮を見つめる。
「私はあの時、死んでも良かった。香月を守れないなら、いっそこのまま滅んでも良かったのだ」
「なんてことを!」
桂妃は思わず叫んだ。身を起こし、宇静の元へ駆け寄る。
「お気は確かですか? そのお話が本当ならば、陛下にも始祖帝の血が流れていますわ。呪いで縛り付けるほど、あの娘が憎いはずなのに……陛下は禁を犯したのですよ。その証拠があの病ではありませんか?」
「確かに血には抗えないものだ。しかし桂妃、一つ勘違いをしている」
宇静はくるりと振り返った。口元を緩め、桂妃をまっすぐに見つめる。
「三〇〇年前、香月と青年が玄竜神にそむいた。その際、始祖帝が呪いをかけた。この時、すでに青年は絶命していた……と、記されているが、これは間違いだ」
「なぜそう言い切れるんです?」
「私がその真相を知っているからだ」
桂妃は固唾を飲んだ。明晰(めいせき)な彼女は、すでにその真相を浮かべて愕然とする。と、同時に宇静は低い声で言った。
「呪いは青年にもかけられていた。魂魄(こんぱく)乖離(かいり)し魂だけが(めぐ)る。血筋や家柄は問わず、平等にどこぞへ生み落とされる。例えば三〇〇年後、皇子(おうじ)として生まれることも──ある」
「そんな……では、陛下は、その青年の魂だって言うの……?」
桂妃の悲鳴にも似た声に、宇静は鋭利な目尻をふわりと緩める。気の抜けた笑顔を見せる彼は、ようやく何かから解放されたかのように晴れ晴れとしていた。桂妃は腰を抜かして、その場に座り込んだ。