叛逆の玄竜妃と黒鱗の王

ゆらめく炎からのぼる煙はほのかに甘い。その甘さに体がしびれ、まどろんでいく。思考力を奪われた。厳粛な広場で、人々がぐるりと炎を囲って集う。そこに真黒な(ほう)をまとった男がいた。
「──……──……」
何かを言う。男は炎に向かって祈りを捧げた。人々も祈る。祈る。ただただ祈る。
その様子をぼうっと見つめる。しかし、ふいに立ち上がって逃げる。場面が変わる。
暗転。景色が断片的に流れる。
彼女は息を上げながら、森林を疾走していた。裸足で地を走れば、かかとに何かが刺さる。それでも構わず走る。髪を振り乱し、一心不乱に。背後を振り返れば、祈りを捧げていた人々が追いかけてくる。その形相、さながら生気を(うしな)った鬼のごとく。
──逃げるのよ。
気持ちは前へと逸る。足がもつれ、上体を崩す。落ちていく体。
またも暗転。区切られた場面の中、痛みだけが鮮烈に感じられる。髪をつかみ上げられ、引きずられる。頭を殴られ、背中を蹴られ、捕縛される。振りほどけない。逃げ場がない。
彼女はうめきながら顔を上げた。瞬間、背中に焼け付くような痛みがべったりと張り付いた。

「はっ……」
(りん)香月(こうげつ)は飛び起きた。全力疾走した後のように息が乱れる。
いつもの夢だ。夢の中の不遇な少女に憑依(ひょうい)したかのごとく、鮮明で恐ろしく生々しい──悪夢に(さいな)まれている。
香月は背中を触った。硬質な(うろこ)に覆われた背中は呪いの証。絶対に誰の目にも触れさせたくはない。
やがて、彼女は落ち着きを取り戻して、(すそ)がすりきれた衣をまとった。

 ***

小高い山の中腹に、彼女の住まいはあった。ここからだと、荘厳(そうごん)な城郭が見えることもあるのだが、年がら年中、霧に包まれているせいでろくに見えない。
香月は村からはずれた山奥の洞穴で生活していた。それもこれも自分が生まれたせいで、両親ごと村から迫害を受けることになったのだ。
村へ行けば、きっと石を投げられるのだろう。しかし、昨夜に食糧が尽きた。
仕方なく、ゆっくりと集落の方へ行く。まず、川で顔を洗った。水面に映る顔は垢や泥で汚れていてみすぼらしい。目ばかりが大きく、頬や腕は痩せこけている。とても十六の娘には思えないほど小さく脆弱だ。
ひっそりと息をひそめ、誰にも見つからぬよう注意しながら集落へたどり着いたものの、やはり仕事に勤しむ若者たちに出くわした。うつむき加減に道を早足で進む。
そして、長老の元へ行き、食糧を分けてもらう。家も職も取り上げられたが、なぜか生活に必要最低限の食糧だけは確保されている。だが、それゆえに毎度、奇異の目にさらされなくてはならない。
不干净(けがらわしい)!」
突然、小さな子どもが叫んだ。石を投げつけられ、香月は驚きのあまり立ち止まった。
「やめなさい!」
母親が子どもの腕を引っ張る。しかし、その顔は(わら)っている。香月は顔を長い髪で隠しながらその場を切り抜けた。

叛逆の玄竜妃──それが香月を蔑む呼び名だった。村民たちは香月の動きを逐一見張る。それはなんだかあの夢に酷似していた。
香月は少ない食糧を抱えて、洞窟へ帰った。そこでようやく安堵の息をつく。ここまで来れば誰も追ってはこない。
いつも、怯えながら独りで生活している。いっそ死ねたら楽だが、長老は死を許してくれない。
いつの間にか父は消えた。母はこの生活に耐えられず、香月が五つの時に発狂して川へ身を投げた。それでもなお、香月は生かされていた。だが、そのうち〝その日〟が来て、死ぬのだと思っている。
母は死ぬ前に「お前は忌まわしい呪魂者だ」と繰り返し言っていた。
「その背中の鱗が証拠。玄竜神様にそむいた呪いだ」
玄竜神とは村に伝わる神である。その妃となる娘は逃亡を図り、あえなく捕らえられ、背中に呪いを受けて殺された。言い伝えでは、その娘の魂は何度も(めぐ)り、生まれ変わる。うなじから背骨に添うようにびっしりと皮膚からむき出した黒鱗は(けが)れた魂の証であると。
香月はたびたび、この黒鱗を触っては陰鬱にため息を落としていた。
そして考える。あの夢の中の娘は、なぜ神にそむいたのだろう、と。

とても重苦しく長い一日が過ぎようとしていた。洞穴の住居から見る夕暮れは、一日の憂さを忘れさせてくれるごくわずかな安らぎの時間だ。山の向こうへ落ちゆく陽を見ながら、夕餉(ゆうげ)の粥を食べる。火を()べて、小さな鍋に穀物と水を入れて煮る。味気のないものだが、それをゆっくり喉へ送る。
パチパチと火花が飛ぶ。その様子をただぼうっと眺めていると、どこからともなく風が吹いた。と、思った。だが、真正面にある草木が不自然に揺れたのを捉えた。
瞬間、(かたまり)のごとき黒い影が二つ、むくむくと浮かび上がった。否、それは(よろい)をまとった人であった。素早い動きで香月に向かって飛び出し、覆いかぶさる。火をもみ消され、気がついたときには地に伏して口を塞がれていた。
「女だ」
「ここに住んでいるのか」
「寝床があるぞ」
「身を隠すにはちょうどいいかもしれんな」
男が二人。伸び放題の髭は黒く、肌もなんだか浅黒い。
「どうする、この娘」
「殺すか」
「いや、殺すのはまずい。我々の足跡がやつらにバレる」
そうして、彼らは迷うように香月を見遣った。
「騒げば殺す」
脅しながらゆっくりと香月の口を離した。圧迫感がなくなり、香月はすぐさま新しい空気を取り入れた。だが、上から男にのしかかられており、身動きはとれない。
「思ったよりおとなしいな」
上に乗った男が言った。
「油断するな。麓には村がある」
もうひとりの男が言った。
「おい、娘。我々をこの洞穴に隠せ。騒ぎ立てたら殺すからな」
男たちの言葉に、香月は震えながら頷いた。男たちは彼女の腕を縄で縛り、やすやすとこの場を支配した。
香月は言われるままに洞穴の奥へ彼らを案内する。その頃にはようやく声も出るようになった。
「あ、あの……私は、どうしたらいいの?」
しばらく声を出して他人と会話していないからか、ひどくしゃがれた声が飛び出した。男たちは不快そうに眉をひそめる。
「もし、馬が通りかかったら言え。何も見ていないとな。それだけで良い」
その言葉を香月は不審に思った。ここは村の最果てで、独房のような場所。誰も通りかかるはずがない。この十六年間、ひとりも人間を見たことがない。
そんな香月の不審を見抜いたか、男のひとりが言った。
「我々は霧国(むこく)の捕虜となっていたが、命からがら逃げ伸びたのだ」
「ここから山を越えれば故郷だ」
香月は目をしばたたかせて驚いた。そして、的はずれな言葉を漏らす。
「この国は、霧国というんですね」
「………」
「………」
男たちは困ったように顔を見合わせた。沈黙が訪れる。やがて彼らはボソボソと囁きあう。
「この娘、もしかすると罪人の娘なんじゃないか」
「罪人……?」
香月は首をかしげて言った。男たちは今度は苦笑を浮かべた。
「どうやら何も知らないらしい。哀れな娘だ」
そう言われ、香月はうつむいた。しかし、罪人と言われればなんだか腑に落ちた。
来る〝その日〟というのは、おそらく刑の執行か。香月は肩の力を抜いた。それと同時だった。男のひとりが香月にかけた縄をぐいっと引っ張った。
先ほどと違い、妙に不埒(ふらち)でぬめやかな空気を感じる。それはあの、夢の中で暴行を受ける時のような──本能が逃走を促すも間に合わず、香月は床に叩きつけられた。
「汚い娘だ」
男は言った。そして、もうひとりが香月の衣を剥ごうとする。
「やっ、やめて……!」
しかし、願いも虚しく背中から一気に衣を破かれた。
「なんだ、これは」
見られた。香月は絶望を感じ、その場に崩れて泣いた。
その時だった。洞穴の入り口から何やら賑やかな音が響いてくる。ザクザクと地を走る音。それがこの場のすべてを制した。男たちは一瞬、息を詰めたがすぐに香月を前方に押しやった。
すると、まもなくして煌々と燃える松明(たいまつ)の群れが香月の前に姿を表した。立派な鎧に身を包んだ屈強な武官たちだった。隣国のあの男たちとは比べ物にならないほど凛々しく、いくらか若い。先頭に立つ男が香月を睨んだ。
「捕虜を(かくま)っているな?」
その言葉は、何もかもを見据えたようだった。しかし、香月はまともに答えられなかった。
「我が敵国の捕虜が二人、ここに逃亡した。(あざむ)くは国にそむくとし、直ちに斬首する」
香月はうなだれた。とにかく今は破れた衣服を抱いて背中の鱗を見せないように徹した。
武官たちは香月を突き飛ばす勢いで洞穴の奥へ向かった。勇ましい喧騒が響く。やがて、彼らは暴れる捕虜たちをしっかり捕縛して現れた。
「連れてゆけ」
「この娘はどうします?」
「同罪だ。陛下に欺く輩は皆殺しにせよ」
「お待ちください!」
突如、狼狽(ろうばい)で上ずった声が上がる。奥から長老がなだれ込んできた。細長く白い毛を乱しながら香月の前に立つ。
「この娘は〝呪魂者(じゅこんしゃ)〟です! 玄竜神様の裁きなしに処せば、この国に(わざわい)をもたらします!」
一様にざわめきが立つ。たくましい武官ら皆が眉をひそめて香月を見た。その目は奇異を帯び、香月は震えた。
「呪魂者だという証を示せ」
統率者らしき武官が言う。すると、長老は香月の長い髪を引っ張り上げ、無理やりに地面へ平伏させる。
「これが、その証です」
黒鱗があらわになった途端、ざわめきが一層際立った。この異様な空気に、香月は圧倒されて悲鳴すら上げられずにいた。
屈辱と恐怖で全身が強ばる。松明の灯りが香月を灯した時、皆が一斉に息を飲んだ。
「──その話はまことか」
唐突に鋭い若々しい男の声が聴こえる。その声に驚いた長老がその場から離れる。香月はおそるおそる顔を上げた。
現れたのは真黒な袍をまとった冷たい目をした男。
上から見下され、その視線に縛り付けられる。しかし、その黒い瞳を見ていると、強張っていた体が軽くなった。香月は両眼を見開き、彼を見つめた。
次第に心臓の底で何かがのたうつ。悲哀とも恐怖とも憤怒とも違う不思議な感情が全身を(めぐ)る。
瞬間、背中の鱗が熱を帯びた。腰から背骨を這うように走る電熱に耐えきれず、香月は意識を手放した。
黒袍をまとう男の顔は残虐そのものであり、その目にはおよそ情と呼べるものはない。
「神に(あだ)なす者に裁きを。香月、そなたは呪いを受け、この罪に(むく)いなければならない」
男が言う。脳内に響く声は低く、恐ろしい旋律(せんりつ)(ゆが)む。ぐるぐると血が廻る。背を這い、内へ内へと潜り込む。体内を呪いが鉤爪で引っ掻き(うごめ)く。
「香月」と呼ぶ声がどこからともなく聴こえる。しかし、応えることもできない。
魂へ呪いが刻まれていく──

香月は目を覚まし、飛び起きた。その瞬間、背中に鈍い痛みが走る。逆立った鱗をさすり、うずくまる。
「……ここは?」
辺りを見回すと、そこは狭い円筒形の空間だった。扉には格子状の木枠がはまっている。体の上から粗末な布をかぶされていた。気を失った間に、どこかへ移動させられたらしい。
とても湿っぽくて灯りはない。香月は抗う気力もなく、ただ床にうずくまって息をひそめていた。すると、見計らったかのように誰かが格子の向こうに立った。
「気がついたか」
屈強で冷徹そうな武官である。確か、香月に向かって厳しく問い詰めた人物である。彼は無感情に言った。
「琳香月。皇帝の命により、その身柄を後宮に移す」
しかし、そう言われても皆目わからない。首をかしげると、彼はため息をついた。
「無罪放免。しかし、その身体は呪いを受けている。儀式までの期間、後宮に住むことになる。意味は分かったか?」
少し言葉を柔らかくしてくれた。思ったよりも悪い人ではなさそうだ。香月はお礼も返事もまともに言えなかった。ただ頷くだけ。
「お前は後宮での幽閉が決まった。部屋を一つ与えられたから、そこに住む。生活に必要なものは一通り揃えてあるから使うといい」
彼は咳払いし、格子の扉を開けた。そして、動かぬ香月に焦れながら腕を引っ張って牢から出す。
「幽閉ということは、私はもう村には戻れない……?」
なんとなく思いついたことを言ってみる。すると、武官は眉をひそめた。
「あの村に戻りたいのか?」
「……いえ」
言いながら、香月は罪悪感を抱いた。不遇な扱いを受けていたが、あの村での生活は人生のすべてだった。愛着なんてものはなく、むしろ忌まわしさしかないが、それでも住み慣れた場所から引き離されるのは心もとない。
武官は鼻を鳴らした。そして、香月の腕を引っ張ったままどこかへといざなう。
「後宮とはどんな場所ですか」
「女官や妃が住まう場所だ」
「はぁ……そんな場所に……」
香月は硬質な脳を叱咤(しった)し、考える。
結局、どこへ行っても扱いは変わらないのだろう。
しかし、皇帝という存在が気になる。こんなにみすぼらしい自分を死罪にせず、命令一つで住まいを与えてくれるとは。
「あの、捕虜の人たちはどうなったんですか?」
冷たい地下牢の中を裸足で歩きながら、香月はおずおずと訊ねる。と、前を歩く武官は無感情に言い放った。
「斬首した。すでに刑は済んでいる」
その言葉にはなんの感情も湧かなかった。
とにかく、皇帝やこの武官は敵国の人間なら容赦なく殺すのだろう。一瞬、あの夢に出てくる黒袍の男と重なった。

それから、武官は香月を下女たちに預けた。彼女たちは香月の呪いについて知らされているようで、一言も喋らず、香月の身なりを整えた。初めての湯浴みは緊張で震えた。されるがまま、頑固な垢と泥を綺麗に取り除いてもらう。いくらか本来の肌色を取り戻し、ごわついた髪に(くし)を入れられる。これがかなり手間取った。しっかりした襦裙を夢の中以外で見るのは初めてだった。くすんだ灰色だったが、穴のない衣に感激する。なんとか整った髪の毛は少々のうねりがあるものの、四方八方に伸びっぱなしだった毛束はすっきりした。
廊下へ出ると、待っていた武官が両目を見開かせた。
「見違えたな」
これに香月は曖昧(あいまい)に笑う。すると、彼は咳払いした。
「部屋に案内する。着いてこい」
言われるまま、鏡のように磨き上げられた廊下に恐る恐る踏み出す。そして、早足の武官の後ろをパタパタと小走りに着いていく。身なりを整えてくれた下女たちを振り返ると、彼女たちはただ静かに目を伏せていた。
長い廊下は何度か曲がり角があった。外へ出ると、いくつか建物が並んでいる。見たこともないほど雅で美しい苑があり、その脇を通り過ぎる。挙動不審に見渡すも、この空間には人が誰もいなかった。美しく整えられているのに寂しさを感じる。
剪定(せんてい)された庭木、咲き乱れる花々、池には橋がかかっており、その向こうにも似たような建物と廊下が見える。全体的に朱や金、黒を使った絢爛豪華な造りは壮観である。ため息が出そうなくらいのどかだ。
「琳香月」
急に武官の男が無愛想に言った。香月は慌てて視線を真正面に正す。
「陛下はお前を探していたのだ」
「え……?」
唐突な言葉に、香月はうまく反応ができない。これに、武官は疑心たっぷりに睨んできた。
「呪魂者でありながら後宮へ入ったこと、陛下が咎めなかったこと、そのほかにも訊くことはあるはずだ。気にならないのか?」
「えっと……気になります」
「その言い方は意思ではないな」
武官はため息交じりに言った。どことなく悔しげな様子である。香月は首をかしげるしかなかった。何か言わなければ、どこぞの野原や谷にでも放り出されてしまうかもしれない。そんな焦燥を抱き、香月は思考を巡らせて訊いてみた。
「あなたのお名前が気になります」
すると、彼はさらに冷ややかな視線を浴びせてきた。
──間違えた。
咄嗟に思う。
(てい)秋叡(しゅうえい)だ」
彼は無骨に答えた。諦めたようにため息を落とす。それきり、秋叡は何も言わずに先を歩いた。
言われてみれば疑問は出るが、それを形にするのが難しい。何が分からないのかすら分からないのだ。
やがて、秋叡は香月を後宮の奥深くにある古い部屋へ放り込んだ。そして、彼は何も言わずに部屋を締め切り、どこかへ帰っていく。
朱や金であしらわれた豪華な宮とは違い、黒色を基調としていた。いたるところに竜を模した彫刻が施されている。長いこと洞窟暮らしをしていた香月にとって、隙間風のないしっかりとした壁のある部屋に入るのはとても贅沢なこと。寝台は埃をかぶっていたが、今まで感じたことのない弾力が新鮮だ。
「こんな贅沢、いいのかな」
不安になる。そして、ようやく秋叡の言葉を理解した。
「こういうことを訊けばいいのね」
しかし、今後は誰に訊けばいいのだろう。あの下女たちには話しかけられる雰囲気ではなかった。それに、秋叡は〝儀式までの期間〟と言った。おそらく、あの夢と同じような儀式が行われるのだろう。きっと〝その日〟は避けられない。
香月はすべすべの床にぺたんと座り込んだ。
いつもと同じくとても長い一日が過ぎようとしている。状況が急変したにも関わらず何をすることもできず、ただぼうっと途方に暮れるだけ。夕餉を告げられるまで香月は息をひそめて床にうずくまっていた。

 ***

「──以上です」
鄭秋叡は淡々と琳香月についての説明を終えた。皇帝、(いん)宇静(うせい)は神妙に唸った。彼は夜闇のような黒色の髪と瞳を持ち、眉目好(みめよ)い容貌。しかし、凍てつかせるほどの鋭い眼光で周囲を圧倒する。この若き皇帝は(たぐい)まれな武運と統率力に恵まれ、国土を広げることに心血を注ぐ。
そんな彼にも苦悩の種が芽吹いた。あの呪魂者──香月の存在を確認するなり、彼は無理やりに香月を城郭へ引き取ったのだ。
「……まぁ、それが(おきて)だからな。仕方あるまい」
「ですが、あの様子は異常です。礼儀はおろか意思疎通も難しいです」
「呪われし玄竜妃に余計な知恵を与えて、また逃げられでもしたら困る。ゆえに、先代らは妃の生まれ変わりを幽閉し、儀式の際に呼び出して殺すことにしたんだ。我が国の安寧のために」
宇静の声はやや嘲笑めいていた。秋叡は不審げに主君を見つめた。
「我が国はもはや玄竜神を頼りになどしていません。神の時代は終わった。これからは陛下のように国を統べる王の時代となりましょう」
「いいや、それはどうかな」
宇静は秋叡の脇を通り過ぎ、開け放った扉から外へ出た。黄昏(たそがれ)に染まる石段の向こうには後宮がある。彼はそれを見つめながら言った。
「この国はまだまだ神を敬っている。きっと、私の代でも変わらないだろう」
秋叡は眉をひそめた。主君の元へ行き、一歩下がった場所に控える。
「儀式を行うのですか?」
「そうしなければ民が困る。現に呪いは存在しているのだ。玄竜神はあの娘を許さず、むろん民も同じく許しはしない」
宇静は無感情に言った。秋叡は堪らず開口した。
「訊いてもよろしいですか?」
「なんだ」
「陛下はなぜ、あの娘を後宮に移したのですか?」
その問いは秋叡にとっては賭けでもあった。ゴクリと唾を飲み、主君の答えを待つ。
宇静は唸った。それは是否も言い難い。
やがて彼は何も言わずに冷笑を浮かべて振り返った。秋叡の脇を通り過ぎ、部屋へ入る。扉を締め切り、そして問いの答えではなく、脈絡のない提案を持ち出した。
桂妃(けいひ)に会おう。近いうちに」
秋叡は目を(しばたた)いた。
「桂妃ですか?」
今まで、世継ぎのことなどまったく考えず、戦ばかりにかまけて後宮の妃たちをないがしろにしてきた彼が、一体どんな風の吹き回しか。
「あの呪魂者に教えてやらねばならん。この世の(ことわり)をたっぷりと。今からでも遅くはない。桂妃は教養豊かな才女……確か、そうだな?」
「えぇ、そうですね。妃の中では適任かと」
宇静の薄情な言い方に秋叡は頬を強張らせた。長い付き合いではあるが、一向に彼の思考は読めない。
尹宇静──霧国歴代皇帝の中でも随一の武運に恵まれ、冷血漢と恐れられる。戦場では血を欲するかのごとく敵国を制圧し、側近ですら冷や汗を浮かべるほど。
また彼は、この霧国で恐れ敬われる玄竜神の化身。敵を容赦なく制圧する冷酷さとその容姿にちなみ、いつしか彼は「黒鱗の王」と呼ばれる。
叛逆の妃である香月へ並々ならぬ憎悪を持つはずで、それは確実に彼の血がそうさせるのだと想起された。
金露宮(きんろきゅう)──目がくらむような豪勢な金箔をふんだんに使ったその宮には、(ばく)桂華(けいか)が住む。桂妃(けいひ)と呼ばれる彼女は愛と知性に恵まれ、他国であれば傾城(けいせい)として皇帝の寵愛を一心に受けているであろうと囁かれるほどだった。
そんな桂妃へ書簡が渡ったのは、呪われし玄竜妃が後宮へ連れてこられた翌朝のこと。
多忙を極める皇帝が、直々に桂妃の元へ訪れる。後宮はまたたく間に浮足立った。女官はともかく侍女やその下の女たちもそわそわと落ち着きがない。
だが、当の桂妃は複雑な気持ちで受け取っていた。とにかく皇帝陛下を迎えるための準備で朝から忙しい。章丹の襦裙があちこちでひらひら舞う。一同、気の入り方が違う。
そんな中、宇静(うせい)は書簡で伝えたとおり、きっかり定刻に現れた。昼も過ぎ、のどかな陽光が差す頃だった。
(きら)びやかな(かんざし)や耳飾りには丹桂(たんけい)を模した飾りがあしらわれており、光の加減で輝度が変わる。
部屋の中心で卓越しに彼らは向かい合っていた。
桂妃は若干の緊張を浮かべていた。普段は夢心地に垂れた目尻を持ち上げている。
「お話というのは、かの呪魂者(じゅこんしゃ)のことでしょうか?」
「あぁ。さすがに耳が早い」
「その件について、陛下がお越しになることは予感しておりました」
桂妃は嘆息気味に言った。すると、宇静はわずかに目を細めた。
「私の目に狂いはないな」
「あら、ご冗談を。陛下と私は一度しかお会いしておりませんよ」
桂妃はぎこちなく笑った。
彼女は高位な身分の家柄だが、入宮の際に宇静へ拝謁したきり一度も会っていない。その頃から桂妃は彼からの寵愛を諦めていた。
「昨日から、この後宮は大騒ぎです。それもそのはず。ここ数十年は呪魂者が生まれたという記録はなく……私が生まれた頃にはとうに幻のような扱いでした。儀式など行わずとも、この世は安泰です。それなのに、今になってなぜ……」
「そなたもそう言うのだな」
宇静は嘲笑を飛ばした。その意味が分からず、桂妃は眉をひそめた。
「国は豊かになれど、呪いは現存するのですね。その琳香月とやらは、背に鱗を持つと?」
桂妃は思慮深く言った。妃の中でも優秀で勤勉な彼女は史伝を好み探求するという趣味がある。それゆえ、宇静の話もすんなりと解釈できる。だが、探求者ゆえに懐疑的でもあった。
「その琳香月に会ってみたくはないか?」
やにわに宇静が言う。これがまさしく本題だ。桂妃は瞠目(どうもく)した。
「私が会って、一体なんになりましょう。その娘は慣わしのとおり、玄竜神様に捧ぐのでしょう? 陛下はその娘に知恵を授けようとなさるおつもりでしょうが、私はその必要はないと思います」
桂妃は迷いつつも静かに言い放った。瞬間、その場に控えていた女官や衛尉(えいい)らが息を飲んだ。
宇静へ意見するというのはことさら恐ろしいのだ。それは桂妃であっても同じことだった。彼の命令ならば絶対であり、どんなに黒であろうとも白と答えなければならない。そんな暗黙が破られている。
しかし、皆が思うよりも宇静は平静だった。
「ともかく、会ってみてくれ」
「陛下、しかし」
「良いな、桂妃。あの娘に後宮のしきたりなどを教えてやれ」
宇静はもう用済みだとばかりに席を立った。桂妃も堪らず立ち上がり、彼の後を追うも逆らうことはできなかった。
「承知いたしました」

 ***

後宮へ入ったものの、華やかな生活は皆無であり、ただ粛々(しゅくしゅく)と日だけが過ぎていく。
香月は部屋の中で食事を済ませた後は、とくに何もすることがなく、じっとうずくまるばかりだった。食事の支度をする下女らは絶対に目を合わせようとせず、香月もまた遠慮していた。そもそも、人と会話することすらおこがましいのだと思っていた。
場所が変わっただけで生活はいつもと変わらない。変わったことと言えば、夢の内容がわずかに変化したことだった。
香月は今朝見た夢を脳内で複写した。見えたのは白壁の門。そこには淡紅色の花が咲き乱れている。そこで少女が誰かを待っていた。
「香月」
名を呼ばれる。少女は親しげに手を振った。その相手は、翡翠の衣をまとった青年だった。そして、二人は月下を走る。
──誰なんだろう、あの人は。
夢はいくらか優しげだった。あの儀式めいた物々しい場ではなく、密やかで静寂な夜だった。
「彼女はあの人と一緒に逃げたのかもしれない」
香月は考えを絞り出して呟いた。
逃げた。どこへ。どうして逃げた。それは──死にたくないから?
安易な考えだろうか。しかし、それしか思いつかない。
すると、不意に廊下の向こうが騒がしくなった。夕餉の刻かと思ったが、部屋の前に下女ではない誰かが現れる。煌びやかに着飾った章丹の襦裙に、うず高く髪を結い上げた女性がいる。思わずため息がこぼれそうなほど美しいその人は眉をひそめて香月を見下ろした。
「そなたが琳香月?」
女性は囁くように小さな声音で言った。甘やかにしっとりとした優しさを湛える。圧倒的な美しさを前にし、香月は思わず平伏した。
「はい」
「こなたは桂妃と申す。琳香月、面を上げなさい」
その言葉に香月はゆるゆると顔を上げた。桂妃はたおやかに笑み、香月の部屋に入った。後ろに控える女官たちが何か言いたそうに口を開けるも、何も言えずにいる。
その様子を察した香月は思わず両手を広げて桂妃の行く手を遮った。
「あ、あの! 私に近づかないほうがいいと思います……」
「こなたは陛下から命を受け参ったのです。そなたにしきたりを教えるようにと」
「でしたら、私から行きます。だって、なんだか悪いもの」
「悪い、というのは遠慮しているということ? その必要はなくてよ。もっとも、そなたはこの部屋から出ることは許されない」
「あっ……そうでした……」
香月はうなだれた。こんなにも身分の高い人を招くような格好はなんとなく居心地が悪く、いくら礼儀知らずと言えども、無礼であることを察した。また、この部屋から出ることが許されないという事実が明白となり、香月はさらにふさぎ込む。
「私は儀式のために生かされているのですね?」
なんとなく口をついて出た言葉に、桂妃は両目を(しばたた)いた。
「儀式のことを知っているの?」
「いいえ。あまり知りません。でも〝その日〟が来れば、私は玄竜神様に捧げられるのでしょう。なんとなく、その予感はありました」
「そう……」
桂妃は気の毒そうに顔をしかめた。そして、香月に近づく。
「陛下のお考えはよく分かりませんが、もしかすると玄竜神様へその身を捧げる時に無知であるのは良くないことなのでしょうね」
「そうかもしれませんね」
香月は頷いた。すると、桂妃は迷いなく香月の手を握る。それは今までに感じたことのないとてもあたたかで、ふっくらと柔らかな手だった。

それから、七日に一度だけ昼の刻に桂妃が訪れることになった。
後宮でのしきたり──妃への言葉遣い、礼儀作法をみっちり叩き込まれる。香月は少しでも桂妃の目に触れる間は彼女へ最大の敬意を払った。
後宮に他の妃も複数いること、宮中のおおまかな造り、話し方、食事の仕方、茶の飲み方、学ぶものはとても多い。香月は毎度、頭がパンパンに膨れ上がりそうなほどの知識を蓄えた。
常識を習得した頃には、ひとりで化粧を施すこともできるようになったが、桂妃にしか見せることがないので、どれもこれも不必要なものではないかと訝しんでいる。
「これで、ようやく人並みかしら。前は獣と似ても似つかないほどだったのにね」
五度目の面会では桂妃もすっかり馴染み、口調もくだけて楽しげだった。
香月は支給された銀箔の襦裙に質素な髪飾りをつけ、(しと)やかに背筋を伸ばしている。笑い方も教わったとおりにし、それでもぎこちなく微笑みを向ける。
「桂妃様には恩義を返し尽くせません。まことにありがとうございました」
「あら、何を言っているの。儀式までまだ日はあるわ」
香月は茉莉花(ジャスミン)茶を湯呑に注いだ。桂妃からの(いただ)き物である華やかな茶がふうわりと天井へ舞う。その(かお)りを楽しむように桂妃が言った。
「では、私の願いを聞いてくれるかしら?」
「願い、ですか?」
香月はきょとんと目を丸くした。茶をこぼしかけるも、なんとか大事には至らなかった。そんな香月を面白そうに見る桂妃は、茶をゆっくり飲んで喉を潤す。
「私の家は代々、皇帝陛下の元で占いや儀式の手助けする系譜でね。でも、三〇〇年ほど前にそのお役目が外れてしまったのよ。その後、世は戦をするようになり、国土を広げていったわ。一方で私たちは玄竜神様への儀を欠くことがないよう、史伝を受け継いできたのよ」
「はぁ」
途方もない話だ。香月は不可解なままで相槌(あいづち)を打つ。そんな香月を見透かした桂妃は困ったように笑い、なおも続けた。
「史伝には呪いも記されているわ。呪われし玄竜妃の伝説──その呪いの根源がなんなのか、それを解明するのが私の使命でもある。というのは建前で、興味があるの」
「興味ですか……こんな私に興味を持っていただけるなんて、なんだか夢のようです」
香月は前向きに受け取った。桂妃はとてもおおらかで優しい。神々しささえ思わせる。そんな憧憬とも言うべき人から興味を持ってもらうなんて恐れ多い。香月は目を伏せた。
すると、桂妃は香月の手を取った。
「これは、おそらく陛下のお役にも立てるはずだわ。協力してくれる?」
「もちろんです。桂妃様のお役に、陛下のお役にも立てるなら本望でございます」
「それは良かった」
桂妃は「ふふふ」といたずらっぽく笑った。
そして、彼女はふと視線を外へ向ける。開け放った扉の向こうには翡翠色の(えん)がある。ここは城の西に位置し、花々の向こうに湖があるのだが、そこに掛かった橋の中腹に、袍をまとった男がひとり立っていた。
「陛下!?」
桂妃が驚いて立ち上がる。香月もその脇から目を向けた。
その人は、遠くから見ても高貴で端麗であることが窺える。こちらを見ているのか、それとも湖を見ているのか判然としない。やがて彼は橋を渡り、姿を消した。
「珍しいこともあるものだわ……あの陛下がこの苑にいらっしゃるなんて」
「そうなのですか? しかし、皇帝陛下ならばこの後宮へ参られるのもお仕事のうちだと、桂妃がおっしゃいましたよ」
香月は覚えたての知識を述べた。すると、桂妃は目を細めた。湯呑を揉み、悩ましそうに唇を噛む。
「そうね。でも、陛下は戦ばかりでお世継ぎのことなんてちっとも考えていらっしゃらないのよ。誰も逆らえないから、急がせる人もいない……あぁ、秋叡(しゅうえい)様だけは少し違うみたいだわ」
香月は「あぁ」と相槌を打った。彼のことは知っている、という意味を含めている。すると、桂妃も軽快に話をしてくれた。
「陛下とは幼い頃から親しいらしいわ」
「そうなのですね」
「そんなお方でも、陛下のお心に近づくのは難儀らしいのだけれど……陛下にはそろそろお世継ぎのことを考えてもらいたいものだわ。これは、皆が思っていることよ」
「そうですね……」
香月はぼんやりと返事した。
尹宇静の姿を見たのは二度目だ。一度目は背中の鱗が熱を帯び、まともに見ることができなかった。しかし、先ほどはあまり感じなかったように思う。
「陛下のお顔を一度だけしっかり見ました。でも、この黒鱗がとても熱くなって……あまりの痛みに気を失ってしまったのです」
言いながら宇静の顔を思い出す。すると、なんだか背中の鱗が逆立った。思わず手をやり、さする。
その動作を見た桂妃は静かに唸った。あまり共感的な声ではなく、わずかに固い。そんな桂妃に構わず、香月は身を乗り出して訊く。
「この呪いは陛下にも関係が深いのでしょうか?」
しかし、その答えは返ってこない。桂妃は動揺しているのか、瞳を揺らがせた。
「そのお話はまた次にしましょう」
それから彼女は、逃げるように部屋を出て行った。

 ***

香月はその日は、脳内がほわほわと浮かれ気味だった。寝台に横たえてもなかなか寝付けない。こんな気持ちになるのは生まれてはじめてだ。
宇静と呪いの関係、桂妃の願い、そして祖であるもうひとりの香月。すべてが繋がるようで繋がらない、点と線が一向に交わらない。
──気にならないのか?
突如、鄭秋叡の言葉が唐突に脳裏によみがえる。
知を得た今、これまでの生活があまりにも粗末で人間と思えぬほど蔑まれていたのだと分かった。それでもなお、神に身を捧げなくてはならないことは深く心に刻みこまれている。では、なぜ宇静は香月に知を与えようとするのか。
落ち着かない胸を抑え、ぎゅっと目を閉じた。このところ背の鱗を布に当てると痛むので、壁を向いて眠るようにしている。
次の面会では玄竜妃や呪いのあらましを聞くことができる。そうすれば、あの夢の正体もつかめるだろう。深く呼吸し、夢の中へ潜り込んだ。

白壁をくり抜いたような門は、おそらくどこかの屋敷であると推察する。さらに夢の深淵(しんえん)へ潜れば、周囲がようやく鮮明に描き出された。それまでは彼女の歩く道にしか色がなく、白あるいは黒であった。描き出された世界は後宮の苑にある翡翠の湖を思わせる。
その橋で香月は青年の手を取った。彼もまたしっかりと握り返してくれる。
「香月、逃げよう。君を失うのは嫌なんだ」
彼は言った。顔が見えない。香月は首を振った。
「そんなこと、できないわ。玄竜神様は許してくださらないもの」
「覚悟の上だ。たとえ、神や掟にそむこうとも、僕は君と共に在りたい」
劉帆(りゅうほ)……」
香月は口元が引きつった。彼の名を呼ぶと、心の奥に仕舞っていた恐怖が溢れ出す。いてもたってもいられず彼の胸に飛び込み、声を殺して泣いた。
「私だって嫌よ。怖い。でも、逃げたらどんな罰が降るか……あなたも無事では済まないそれが分かっているのに、私はあなたと共に生きたいと願っているの」
「それでいい。その心が本物だ。香月、僕は君を守る。だから、逃げよう」
劉帆は香月を抱きしめて言った。心に溜まった何かが晴れていく。彼の言葉とぬくもりによって浄化されていく。この時間が永遠に続けばいい。そんな甘く切ない感情が爆発する。
暗転。
景色は月下へ移った。香月は息を切らして森林の中を走った。劉帆に手を引かれながら走る。走る。体の中が壊れそうなほど冷たい空気に満たされていた。
──もうダメだわ……。
夢の中の自分か、それとも今の自分か、脳裏の中で警告が点滅する。力が抜け、膝がガクンと崩れ落ちた。
「香月!」
劉帆が叫ぶ。すると、彼の胸に矢が突き刺さった。香月の目前で倒れていく。離れた手が宙を舞い、真っ白な月を背景に黒いしぶきが上がる。浴びる。香月は呆然と彼の絶命を見た。
叫ぶ。喉の奥が震え、言葉ですらない叫びを上げる。それを封じるかのように衛吏たちの手が伸びる。乱雑に揉まれ、腕を縛られる。
こうなることは分かっていた。しかし、わずかな希望を捨てきれずにいた。その甘さに足元を(すく)われたのだ。彼はもう(かえ)ってこない。
「気は済んだか?」
やがて、目の前に誰かが立つ。香月は気力を失い、地に伏していた。すると髪を掴み上げられ、無理矢理に目を合わされる。心臓が跳ね上がりそうなほど驚愕した。
冷たく氷のような目を持つその人は──尹宇静だった。
夜。金露宮(きんろきゅう)
頼りなげな(ろう)の灯りの中、ふくよかな体躯の女官、(よう)梓明(しめい)が荒々しく入ってきた。
桂妃(けいひ)様、もうあのような者の元へ通われるのはおやめください」
唐突な言葉が部屋中に響く。薄い衣に替え、小卓で茶でも飲もうと腰掛けた直後だった。気色(けしき)ばむ梓明に、桂妃は小首をかしげた。
「そうは言っても、もう次の約束をしてしまったわ」
「ですが……もし、桂妃様にも呪いが感染(うつ)りでもしたらと思うと、心配で心配で」
「あら、呪いは感染(うつ)らないわよ。史伝にはそう記されている。それに、儀式の前にはどのみちあの〝銀楼宮(ぎんろうきゅう)〟へ閉じ込めなくてはいけないのよ」
桂妃は脇に置いていた巻物を出した。
梓明は口ごもった。桂妃はうっとりと微笑み、彼女の艷やかな頬を()でてなだめる。
「心配ないわ。この使命を果たした暁には、私はきっと陛下の寵愛を賜るでしょう……でなければ、」
そこまで言って口を閉じる。周囲を見やり、笑って誤魔化(ごまか)した。
「もう少しの辛抱よ。耐えて、梓明」
「はい……桂妃様がそうおっしゃるのなら……」
彼女はふっくらとした唇を震わせながら言った。まだ何か言いたげだが、黙らせることはできた。すごすごと引き下がっていく。
桂妃は史伝巻物を広げた。文字を追う。
近く、香月にこの史伝の中身を話さなければならない。こうした過程は逐一、宇静(うせい)へ報告しなくてはならず、またその報告次第で香月へ教えるべきことを指示される。いいように使われているだけなのだ。梓明の言うとおり、これは妃のするべき仕事ではない。もっとも、史伝を扱う家系であったゆえに抜擢(ばってき)されたのだろうが──宇静の思惑を解き明かさなくては、この不可解な役目も気持ちよくまっとうすることができない。
桂妃は一心不乱に書物を読んだ。香月の言っていた黒鱗も気になる。
その時、部屋の入口から声がかかった。
「精が出ますね。あまりご無理なされぬよう」
「まぁ、秋叡(しゅうえい)様」
桂妃はぱっと顔を上げた。秋叡が来たということは、もう報書を上げる時間だ。
「このような格好で申し訳ございません」
「いえ、こちらこそ。あまりに熱心にお仕事をなされているようなので、お邪魔してしまいましたな」
秋叡は優しげに言った。そんな彼に桂妃は優雅に微笑む。そして、あらかじめ記しておいた報書を彼に渡す。
「ご苦労様です」
秋叡は堅苦しく言った。そして、すぐさま部屋を出ようとする。そんな彼を、桂妃はためらいがちに追いかけた。
「秋叡様」
「はい」
「あの、陛下はどんなご様子ですか?」
「どんな……変わらず、といったところです。儀式については前向きのご様子ですが」
それはそうだろう。玄竜神への供物を捧ぐ大事な儀式は皇帝の責務である。しかし、妙に胸騒ぎがするのだ。昼間、彼が香月が住む銀楼宮を見ていたこともあり、宇静が香月へ特別な感情を抱いているのではないかと疑っている。
桂妃は目を伏せた。
「では、やはり香月は儀式に捧ぐのですね……では、どうしてあの娘に史伝や前世での罪を教えなければならないでしょう。知らぬ方が幸せなことだってあるでしょうに」
「まさか、桂妃様。あの娘に情でも移しましたか」
秋叡が鋭く訊く。桂妃は首を横に振った。情が移ったわけではない。
これに秋叡は思案げに唸った。
「陛下はあの通り、誰にも心を開きません。何があの方をそんなにも縛り付けているのやら……幼い頃からああなのです」
「そうらしいですわね。確かに(いん)家の歴史は古く、玄竜神様の化身という由緒ある血筋です。歴代の中でもとくに国のことを一番に考えていらっしゃる。その重圧も大きいのかしら……陛下のお心を解き放つにはどうしたら良いのでしょう」
桂妃は憂いを口元に浮かべた。それが仄暗い灯りの助けで扇情的に浮かび、秋叡は慌てて目をそらして咳払いした。
「それはやはり、呪いを()つことではありませんか?」
簡潔に答える。
「どんな名君も血には抗えぬものです。ゆえに、あの方は世界を変えようとしている。神を崇めつつも世を武力で治め、神から自立しようとするお考えなのですよ。小国だった我が国は、今、海も山も広大な大地もあります。これを(ひら)いたのは紛れもなく陛下です。でなければ、こんなに大きくはならなかった」
主を心から慕うような秋叡の堂々たる解答に、桂妃はあっけにとられた。
「神からの自立ですか。確かにそう捉えてもおかしくはありませんね」
桂妃は穏やかに言った。すると、秋叡は満足そうに口の端を伸ばして頷く。そんな彼に、桂妃はこれ以上水を差す気にはなれなかった。秋叡の背中を見送る。廊下の奥で彼は衛尉(えいい)から何かを告げられ、足早に姿を消した。
桂妃は部屋に戻り、扉を閉めた。再び卓に落ち着き、書物に目を向ける。
(いにしえ)始祖帝(しそてい)は、一族間の霊力を持つ娘を玄竜神に捧げた。妃に選ばれた娘は十六になれば竜穴にて封じる。その間、尹家は一族総出で三日三晩祈祷(きとう)する】
「しかし、これに叛逆した娘がいた……娘の逃亡を手助けした男もその場で処刑、娘は神によって呪いの裁きを受ける。その者は玄竜神の妃である証として、背に黒鱗を持つとされる。魂魄(こんぱく)はすでに乖離(かいり)したものとされ、家柄、血筋は関係なく、霊魂のみが継承される。ゆえに呪魂者は各地で忌み嫌われる」
桂妃はゆっくりと声に出して読み上げた。
さて、香月は叛逆の玄竜妃と同じ名である。黒鱗の呪いを受け継ぐ娘を彼らはそう呼び蔑んでいるのだ。では、宇静は香月を憎むべき一族の恥であると思っているはずだ。
「陛下は、あの娘を不幸にしたいのかしら。これ以上の不幸はないでしょうに」
だが、すぐに秋叡の言葉を思い出す。
神からの自立を図っている宇静は呪いを断とうとしているのではないか。ということは、つまり──
桂妃は息を飲んだ。自身の考えに思わず身震いする。感情が乱れ、口元は笑いを浮かべている。冷や汗が止まらない。
「あぁ、困ったわ……どうしようかしらね」
夜更けの部屋で、彼女は静かに呟いた。

 ***

香月は後宮がわずかに緊張感を持ったことを察知した。最近、窓の外を女官らがやたら慌ただしく走り回っている。しかし、外へ出られないので何があったのかは想像がつかない。もしかすると、ようやく宇静が世継ぎのことを考え始めたのかもしれない。そうすれば、この国の安寧は保たれるのだろう。
しかし、素直に喜べない。宇静のあの冷たい目が、夢に出てくる黒袍の男と重なって仕方ない。もしかすると、いや、宇静こそがあの男の子孫であるのだ。そんな残虐非道な男が心優しい桂妃を寵愛するという描写ができない。
とにもかくにも呪いの根源は神である。そして、執行したのはあの男であることは間違いない。
「私は、あの人に呪われたのだわ……」
呟くと、言葉の恐ろしさに喉が締め付けられた。無意識に背中を触る。この憎き呪いの刻印は、来世にも受け継がれてしまうのだろうか。できることなら、ここで断ち切りたい。そのためにはどうするべきだろうか。
「香月!」
思考を掻い潜るように鋭い声を浴びせられる。背後には金色の装飾をまとった桂妃がいた。
「け、桂妃様!」
「呼んでも出てこないなんて、なんて無礼なんでしょう」
「申し訳ございません。考え事をしておりました」
「考え事?」
桂妃は形のいい眉を不機嫌に歪めた。
「あなたがどんな考え事をするというの?」
今日の妃はなんだか棘がある。しかし、まともに返事ができなかったこちらが悪いので、どんな罰でも受ける所存である。香月は頭を垂れたまま正直に言った。
「呪いについてです。私、思い出したのです」
「思い出した? 何を?」
「えぇと……」
夢の中のことは誰にも話したことがない。香月はどこから説明したら良いか迷った。すると、焦れた桂妃が詰め寄った。
「どうしたんです? はっきりおっしゃいなさいな」
「あ、はい……あの、私は生まれた時から、どうやらこの呪いの始祖の記憶を夢に見るのです」
「なんですって?」
桂妃は頓狂(とんきょう)な声を上げた。すると、部屋の外で控えていた侍女たちが一斉に立ち上がる。部屋に踏み入ろうとするも、桂妃が制した。その物々しさに香月はゴクリと唾を飲んだ。
やがて、桂妃はぎこちなく笑って部屋を締め切った。外では主の様子にどよめいていたが、それもしばらくすれば落ち着いた。
「──香月、すべて話しなさい」
「はい」
香月は小さな声で答えた。そして、これまでの経緯をたどたどしく話し始めた。
「私は、生まれた頃からすでに呪魂者(じゅこんしゃ)として村から嫌われていました。村は私を恐れ、両親共々、険しい山の中にある洞窟で生活を強いられました。やがて父はどこかへ消え、母はこの生活に耐えきれず病み、川に身を投げて死にました。その頃から、私は毎夜同じ夢を見ていました」
「夢……?」
「はい。月下で、私は逃げ惑います。そして、あえなく捕らえられ、背に呪いを受けるのです」
香月の言葉に、桂妃は険しい顔つきで聞いていた。半信半疑のようだったが、香月は構わず続ける。
「その呪いを与える者は、申し上げにくいのですが……陛下と同じ顔でした」
声が震えたが、桂妃は咎めることはなかった。むしろ、先を促すように頷くだけ。
「この光景を毎夜見るたび、背中が痛むのです。思えば、十三になった頃からそうだったかと。しかし、夢はこの後宮に入ってから変化しました。私は青年に連れられて逃げたのです。そして、捕らえられました。その青年は胸を()たれて死にました。その時の恐ろしさと言ったら……様々な感情が胸中を(めぐ)り、ひどく混乱しました」
香月は言いながら、ふと思い出した。そう言えば、初めて宇静に会った瞬間と同じ感情だったように思う。あれの正体はいまだにつかめないが、もしも宇静がこの呪いをかけた末裔ならば、激情に駆られるのも不思議ではないのかもしれない。
「そう……そうだったのね」
桂妃が言う。その声はどこか(たかぶ)りを抑えるようでもあった。そして、彼女は椅子に深く腰掛ける。かと思えば動作はせわしなく、頭を抱えたり卓を指で小突いたり、何かを考えているようだ。
やがて、艷やかな紅色の唇で呟いた。
「香月──呪いをかけたのは確かに始祖帝です。そして、陛下はその血筋よ」
「……っ」
桂妃の言葉に、香月は全身を強張らせた。
「玄竜神様にそむいた報いとして霊魂に呪いを刻んだ。それは間違いないわ。玄竜神様の化身として、使命を果たしただけのこと」
「この呪いは、どうやったら解けるんでしょう?」
香月は胸を抑えながら言った。桂妃が驚きに目を見開く。対し、香月は真剣だった。
「私はもう、この(からだ)で呪いを断ち切るべきだと思うのです。こんな思いをするのは、もう私だけにしたいのです」
優しい桂妃ならば答えをくれるはずだ。そう信じて、彼女の助言を仰ぐ。
桂妃はしばらく言葉を失っていた。そして──緊張をほぐすように口元を緩ませる。桂妃は香月の頬を撫で回した。
「呪いを断ち切る……そんなこと、考えもしなかったわ」
そう言い、香月の額まで手を這わせる。そして、前髪を思い切り掴んだ。
「でもね、香月。呪いは続くわ。だって、こんなにも醜穢(しゅうわい)なあなたが許されるはずないでしょう?」
突然の暴挙に香月は青ざめた。目の前で笑う優しい桂妃が、たちまち狂気を帯びる。喉は縛り付けられたかのように機能せず、掴み上げられた前髪により頭皮がきしむ。絶望に支配され、身動きが取れない。
桂妃は香月を床に叩きつけた。黒鱗の背を思い切り踏みつける。
「あぁ、おぞましい娘。まるで虫けらのようね。そうしているほうがお似合いよ」
「桂妃様……そんな……」
「まったく。陛下の手前、優しく丁寧に施したのが(かえ)って(あだ)になったものだわ。思い上がりも甚だしい。不愉快よ」
「申し訳ありませんでした。どうか、お許しください……!」
床に伏して許しを請う。確かにそれは、地を這う虫のごとく惨めなものだった。しかし、桂妃の言うことは理解できる。罪人がおいそれと許されるわけがないのだ。考えの甘さをすぐさま改める。
桂妃は(たか)ぶったまま、香月を見下ろしていた。
「香月、あなたにまともな暮らしは許されないわ」
「はい、その通りです」
「あなたは、汚らわしい罪人よ」
「はい」
「しかし、今回は目を瞑りましょう。陛下にも報告しないでおくわ。感謝なさい」
「あ、ありがとうございます、桂妃様」
香月は恐ろしさのあまり、目を瞑っていた。顔を上げることはできない。桂妃は陰険な笑いを漏らした。
そして、女官らを従えて銀楼宮を出ていく。それでもなお、香月は動けずにいた。乱れた髪を元に戻すこともできず、呆然としてしまう。
先ほどの桂妃の怒りを脳内で反芻(はんすう)し、ゆっくり飲み込む。そうすると、いかに己が(いや)しい存在であるか思い知った。
「……うっ」
嗚咽(おえつ)が飛び出す。大粒の涙が床を濡らし、香月は顔を覆って泣いた。あの美しい桂妃に憧れ、勝手に友情を抱いていた。そんなはずがないのに、こんな自分でも受け入れてくれると期待していたのだろう。
夢のようなひとときだった。そのあとに訪れるのは激しい痛み。こっぴどく絶望を背中に刻みつけられた。こんなことならば、知りたくなかった。
「知りたくなかったのに……」
夢の中の彼女も同じく期待していた。あの感情がようやく交わる。
──あぁ、これが、(かな)しみなのだわ。

 ***

数日が過ぎた。あれから桂妃は一度も訪れない。だが、その方が香月にとっては都合が良かった。会ってどんな話をしたら良いか分からない。もう一生会わずにいたい。
香月は寝台にいることが多くなった。出される食事も喉を通らない。窓も扉も締め切っており、部屋の中はとにかく陰気だった。なんだか洞窟に住んでいた頃と変わらない。
そんな日々が続くのだと思っていた。彼が現れるまでは。
「──琳香月」
夕刻、落日でできた人影が部屋の中に伸び上がる。男性の深い声だった。
香月は頭をもたげて寝台から身を乗り出して見遣(みや)った。
「誰ですか?」
長いこと話していなかったせいで、声がしゃがれる。いくらか整えて扉に近寄る。
「誰?」
「誰かは知らぬ方がよかろう」
彼は静かに言った。この後宮でまともに話をした人は数えるほどしかいない。どこの誰か見当もつかず、ただただ息をひそめて彼の声を聞くに徹する。
「食事をしていないそうだが、何かあったのか?」
「食べたくありません」
香月は正直に言った。影が憂いげにため息をこぼした。
「それでは体を壊す」
「いいんです。私は罪人ですから……食事は不要です」
すると、彼は言いよどんだ。香月はその影をじっと見た。大きな人影だ。一体、どこの誰が話しかけているのやら想像もつかない。
「お前は罪人だったのか?」
やがて、彼が言った。
「そうです。だって、そうでしょう。私は玄竜神様にそむいたのです。呪いは(めぐ)り、次の私も次の私も永遠と報いなければなりません」
香月はわずかに声を荒らげた。チリチリとした感情が心臓の奥でくすぶるようなもどかしさだった。こんな話をわざわざしなくとも、皆がよく知っているはずだろうに。
「では、未来永劫(えいごう)、その呪いを受け入れ続けると?」
「はい。玄竜神様に許しをいただくまで私は何度でも生まれ変わり、苦しみ続けるのです。それこそが我が魂に課された宿命(さだめ)です」
「逃げ出したいとは思わないのか?」
「逃げたとて、捕まります。今までもずっとそうでした」
影が揺れた、ような気がした。だが、構わず続ける。
「その昔、私を連れ出した人がいました」
香月は夢の模様を思い出した。
「私を哀れんだ彼は、私と共に生きようと言い、儀式から逃げ出しました。私たちは懸命に走りましたが、一族や玄竜神様は許してくれませんでした。そして彼は死に、私は呪いを──」
思い出すだけで吐き気を催す。言葉を切ると、影はまたもため息をついた。そして、迷うように言う。
「その者は、きっとお前を愛していたのではないか?」
「愛……?」
思わぬ言葉にハッとする。しかし、それがどんなものか想像がつかず、すぐに顔を伏せる。
「私にはそのような情が分かりません」
つい語気を強めて言うと、影がまた揺らいだ。だんだん影の輪郭が(よい)に飲まれていく。香月は影を掴むように指先を伸ばした。
「香月」
影が静かに言う。その声音が弱々しく、影と同じく形がぼやけていった。それが言い知れぬ慈愛に満ちており、香月の心をぎゅっと締め付けた。無意識に感じるそれは、切なさ。
「いつか、必ずお前を──」
言葉が遠ざかっていく。影が消えていく。香月は思わず寝台から這い出た。そして、扉を思い切って開け放つ。
「……誰もいない」
燃えるような陽が沈み、地平線が宵闇を呼び起こす。長い廊下には誰もおらず、香月はその場に座り込んだ。
あの声、あの言葉──夢の中で幾度となく見た、あの優しい青年を思い浮かべずにはいられなかった。

 ***

その夜、桂妃のもとに侍女が飛び込んできた。血相を変えた彼女は、(あご)が外れたかのように言葉を紡ぐことが難しく、しばらくあわあわとあえいでいた。
「何があったの?」
「へ、陛下が……倒れられて……」
それだけ告げ、侍女は腰を抜かしてさめざめと泣いた。
侍医(じい)が言うには山を越えたと……しかし、目を覚まされないのです」
「これもきっと、あの呪いのせいですわ」
侍女の言葉を遮って、梓明が確信ありげに言う。その戸惑いはまたたく間にあちこちへ響き渡った。桂妃は狼狽のあまり、卓にもたれかかった。
「桂妃様」
口々に嘆く侍女たち。そんな彼女らに、桂妃はキッと眉をつりあげた。
「私たちが路頭に迷っていても仕方がないでしょう! 陛下のために何ができるか、よく考えなさい」
とは言え、何ができるか。古代人たちのように祈るしかないのだろうか。文明が発展しても、天命には(あらが)えないのだろうか。
「桂妃様、儀式を執り行うことはできないのでしょうか?」
梓明が問う。侍女たちが涙目で桂妃を見つめる。呪いが悪いのだと皆が声を揃える。
だが、現在の霧国は玄竜神との関係が破綻していると言って等しい。それでも、神罰というものがあるならば宇静の異変はまさしく、それによるものか。では、やはり彼は呪魂者を寵愛する(・・・・・・・・)という禁を犯したのかもしれない。
「……陛下の(ゆが)んだ心を正す必要があるわね」
桂妃はひそやかに呟いた。侍女たちが耳を傾ける。
「これも陛下のため……きっと、玄竜神様も分かってくれるはずでしょう」
その声に侍女たちの目が期待の色に変わる。桂妃はたおやかな笑みで彼女たちの心を慰めた。
だが、心にともした火は黒い。そんな彼女をあらわすかのごとく、蝋の火が大きく揺らめいた。
ある秋の暮れ。屋敷の外で香月は、白雪のような襦裙をまとっていた。隣には優しく微笑む青年──劉帆(りゅうほ)がいる。湖の魚を見つめ、香月はため息をこぼした。
「私、呪われるかもしれないわ」
鬱々と言う。すると、彼は首を横に振った。
「そんなこと、僕がさせない」
「あなたは玄竜神様の恐ろしさを知らないのよ。それに、陛下がどんな方かも」
「陛下は残虐非道で、君を人間と思っていない。よく知ってるよ」
「まぁ、そんなことを言って、もし誰かに聞かれたら……!」
香月の鋭い声に、劉帆はクスクスと忍び笑った。その余裕ある態度が理解できず、香月は腹を立てる。
「もう! 私はあなたのためを思って言ってるのよ!」
「ごめん。ありがとう、香月」
そう言って、彼は香月を抱きしめた。
「やっぱり離したくない。君を見送るなんて、僕にはできない。君を愛しているんだ」
「それは……私も同じ気持ちよ」
香月は喉を振り絞って囁いた。胸の奥が切なくなり、涙が溢れそうになる。
「私、怖いの。この身が竜穴の中に封印されるなんて。どうして、私なの? どうして私はあなたと生きられないの?」
「香月……!」
劉帆の力が一層強くなる。香月は彼に身を(ゆだ)ねた。このまま埋もれていきたい。彼と生きられたらどんなに幸福だろう。劉帆はいつも励ましてくれた優しい人だ。そうして次第に心が惹かれて、離れがたくなってしまった。
「逃げよう、香月」
「でも」
「大丈夫。もうずっと前から準備してきたんだ。あとは君の心次第だった。今、僕は改めて思った。この身が朽ち果てても、どんなことがあっても香月を思い続けるよ」
「誓って?」
「あぁ、誓う」
その力強い言葉に、香月は胸を打たれた。愛とは、なんと美しく儚いのだろう──

いつの間にか枕を濡らしていた。それに気がついたのは、宮の外が騒がしくなったと同時だった。
「琳香月!」
翌朝、香月は数人の衛尉たちに叩き起こされ、部屋から引きずり出された。
一体何事か。部屋を出てはならないという命令を無視するわけにいかず、抵抗を試みたもののか弱い少女の力ではどうすることもできなかった。
香月は拝殿に連れてこられた。そこには、無数の衛尉、妃、貴人までが揃っている。皆、香月を遠巻きに眺めており、目を合わそうとはしない。しかし、一人だけは違った。
「琳香月」
呼ばれて顔を上げると、そこには黄金の装飾がまばゆい桂妃の姿があった。彼女は凛とハリのある声で言う。
「陛下が病に伏しました。一命はとりとめたものの依然として眠ったまま。この意味がそなたに分かりますか?」
「い、いいえ……」
香月は驚きでひっくり返りそうになった。しかし、なんとか態勢を崩さぬよう努める。
桂妃は厳しく眉をつりあげ、香月を睨んだ。
「そなたの呪いが陛下に悪影響をもたらしたと、この場にいる皆がそう思っています」
「そんな……私の呪いは私だけのものです」
「口を慎みなさい。勝手な発言は許しません」
桂妃の声がひときわ響き、香月は首をすくめた。
考えがまとまらない。混乱する。どうしたら良いかなど分からない。しかし、自分が悪いということは目に見えて明らかである。
「これは国の一大事です。一刻も早く儀式を執り行い、玄竜神様にお許しいただくのです。良いですか、香月。今宵(こよい)、そなたを竜穴に封じることが決まりました」
桂妃の言葉に、全員が声を上げた。大きな拍手と歓声に包まれる。異様な空気に飲み込まれていく。
しかし、ようやく役目を果たすことができるのだ。呪いを断ち切る術は結局見つからなかったが、それももう諦めるしかない。
その時、不意に昨夜の影の言葉を思い出す。
──逃げ出したいとは思わないのか?
すぐさま振り払う。香月は深々と一礼した。
「陛下のために、この身を玄竜神様に捧げます」
すると、周囲のざわめきがぴたりと止む。おそるおそる顔を上げると、桂妃がうっとりと夢見心地に笑っていた。

香月はとにかく従うしか手立てがなかった。
竜穴へ封じる前に体を清め、雷紋(らいもん)の刺繍が施された黒襦裙と月桂樹の髪飾りをつけられる。首には玉飾りがあり、とても重たい。一つ一つの装飾が上等のものだが、見た目は陰気だった。
冷たい石壁の間に通され、その中央で赤々と蠢く炎が香とともに焚かれる。周囲を囲う高尚な長老たちが祈りを捧げる。香月はあの夢の模様を思い出していた。その一方で疑心を浮かべる。
儀式を行うのは宇静の役目のはずだ。その彼が病に伏したなら、誰が儀式を執り行うのだろう。しかし、問うべき相手がいない。秋叡(しゅうえい)ならば何かわかるのではないかと、周囲の目を盗んで探したが、彼の姿も見つからない。
「この者を竜穴へ」
いよいよ準備が整い、香月は抱えられるようにして輿に乗せられた。
足音だけが聴こえる。生き物の呼吸音も感じられず、空気がすべて清廉されていた。これから、あの夢の中の少女と同じく痛い目にあうのだろうか。
『そんなことはさせない』
突如、脳内のどこかで声がした。あの影の声と似ている。香月はハッと顔を上げた。〝声〟の主はどこにもいるはずがなく、香月はすぐに顔をうつむけた。目を閉じる。
もしかすると、心で会話ができるのかもしれない。それに気がついた時、体が急激に軽くなった。空に舞うような感覚。どことなく、あの夢の中にいるような──その場で魂だけが漂流しているように思えた。
──あなたは誰?
『誰かは知らぬ方が良いだろう』
〝声〟は頑なに存在を隠し続けた。
──なぜ、私に声をかけるの?
『君を助けると誓った』
「……っ」
思わず感情が揺れる。この決断がまた揺らぎそうになる。香月は首を横に振った。
『この呪いを断つ。必ず、果たしてみせる。だから──』
「やめて……もう、いい」
小声で呟くと〝声〟はふわりと消えた。同時に体が重さを取り戻す。
その時、輿の揺れも止まった。地へ降ろされる。
香月はゆっくりと外に出た。満月が近い。空気が冷たく、うっすらと霧に覆われていた。ここがどこかも分からない。辺りは鬱蒼とした森であり、濃い緑と土の匂いがする。集団が持つ無数の松明で照らされた道の中、目をこらして見てみると、正面にぽっかりと大きな穴があった。真っ暗な洞穴だ。住んでいた場所とは様子が違い、穴には幾重も縄が張り巡らされていた。人ひとりがようやく入れるような空間がある。
香月は足がすくんだ。この中には入りたくない。禍々しく冷たい気で満ちていることを肌で感じた。この場にいる誰もがこの竜穴に圧倒されている。
「これこそが、玄竜神様へ通じる道、竜穴です」
そう言ったのは、黒袍をまとった桂妃だった。
「どうして、桂妃様が……」
「陛下に代わって、私が儀を執り行います」
彼女は無慈悲にも言い放った。ここにいるすべての者たちが異を唱えることなく、香月を見つめている。香月は納得がいかなかった。それは、本当に自分の気持ちなのか、夢の中の前世がそう言っているのか判然としない。
──これで、本当に儀式が成立するの……?
その疑心が拭えない。すると、桂妃は香月の目を見て、何かを悟ったように唇を舐めて微笑んだ。
「香月」
一歩、近づく。彼女から漂う金木犀(きんもくせい)(かお)りが甘く、鼻腔をくすぐっていく。目眩がしそうなほどに、脳の奥がしびれていく。
「あのね、あなたは陛下から寵愛を受けていたのよ」
「えっ?」
思いもよらない言葉だった。なぜ、どうして、いつの間に。問いが溢れるも思うように口が動かない。桂妃は耳元で優しく囁いた。
「不思議よね。あなたに呪いをかけた始祖帝の子孫なのに、あの方はあなたをとても大事にしているの。どうしてなのかしら? そもそも神にそむいたからと、呪いをかけてまで苦しめるだなんておかしいと思わない?」
「おかしい……?」
「異分子は抹殺して(しか)るべきなのに、魂を(めぐ)らせ後世に残す。奇妙だわ。そこになんらかの歪んだ愛憎が練り込まれているような気がしてならない。陛下の病は、あなたへの寵愛という禁を犯したからだと私は思うの」
香月は両目を見開いて彼女を見た。不確かな情報のみで、香月の抹殺を企てている。その思惑に気が付いてももう遅い。すでに体は薫りで拘束されている。口もきけない状態でただただ愕然とする。
夢の中の少女と劉帆、そして黒袍の始祖帝が一様にぐるぐると脳内を駆け巡った。背中の鱗も熱を帯び、逆立っていく。香月は今、自分がどこにいるのかすら認識できないほど混濁していた。
「玄竜妃! 神に選ばれし妃よ。今より神と(ちぎり)を交わし、国に安寧を、王に繁栄を、永久(とこしえ)に和をもたらし(たま)え」
桂妃の鋭い声を合図に、香月は竜穴の中へ自ら足を踏み入れた。暗闇の中へ吸い込まれていく。もう引き返すことはできない。桂妃の声も、誰の声も耳には届かない。
そして、彼女は静かに(うろ)の中へ消えた。

 ***

琳香月を竜穴に封印してから、ひと月が経った。宇静は早足で桂妃の元へ向かうべく、後宮に姿を現した。
一時期は昏睡状態だったのが嘘のように回復している。彼の病はやはり呪いの影響だったのだと皆が噂した。
そうして、この功績を讃えて祀り上げられたのが桂妃である。彼女への期待は一気に膨れ上がり、誰もが宇静の寵愛を受けるのだと信じた。
豪華に飾り立てられた金色の部屋の中、桂妃が美しい佇まいで彼を迎える。
「随分と世話になったようだな」
宇静が言う。いつもと違い、その瞳は憑き物が落ちたように生き生きと光を帯びている。桂妃はうっとりと夢見心地に言った。
「すべては陛下のため。この命にかえても、あの呪魂者から陛下をお守りせねばと決意しました」
「何を言っているんだ。呪いは感染(うつ)らないと、お前が報書で何度も書いていたはずだろう? 私の病はあの呪魂者のせいだと?」
どうやら彼は、呪いの影響だとは考えていないようだ。桂妃は面食らい、言いよどんだ。しかし、すぐに笑みを浮かべて上目遣いに見る。
「この世にはまだまだ分からないことが多いのです」
「……それは違いない」
そう言って宇静は肩をすくめて笑い、彼女を強く引き寄せた。突然のことに桂妃は驚く。しかし、すぐに微笑を浮かべて彼の胸に身を委ねる。冷血漢だと恐れられる黒鱗の王が、ようやく心を開いた瞬間だ。
宇静は桂妃を寝床に誘導した。その間、彼は何も言わなかった。しかし、桂妃も無言でその愛を受けようと努めた。その手に触れて、唇を重ねて、永遠に結ばれる。
もう少しで触れ合えるところで、宇静が静かに言った。
「──気は済んだか?」
「え?」
驚くのも束の間。桂妃の喉が思い切り絞め上げられる。宇静の左手が彼女の喉を握っていた。
「桂妃、よくも(たばか)ったな」
一瞬で恐怖に塗り替えられる。
宇静の手はすぐに離れたが、ただならぬ気迫がこの場をあっという間に支配した。彼は覆いかぶさるように桂妃の両脇に手をつく。桂妃は両手で口元を覆い、えずきながら彼の冷たい目を見る。涙に濡れる頬を拭うことはなく、宇静は底冷えするような声音で言った。
「私の目が黒いうちは、何人も謀りは許さぬ。まったく、血は争えないとはよく言うが……私も迂闊(うかつ)だった。始祖帝の血筋に当たるお前を信用するなど、愚の骨頂」
「お、おっしゃってる意味が分かりません」
桂妃は震えながら言った。すると、宇静はにべもなく嘲った。
「お前の血筋は大元をたどれば始祖帝に行き着く。知らされていないのか、しらばっくれているのか……(ばく)家はその昔、始祖帝の直系だった。しかし、呪いを生み出したせいで世の顰蹙(ひんしゅく)を買った。その後、莫家は親族の(いん)家に王座を渡した」
「そんな……私は知りません! そのような記録はどこにも……!」
彼女は壁に積み上げた史伝巻物に目を遣った。すると、彼もその視線を追いかける。
「お前の持つ史伝は莫家のもの。名誉を守るため誤った記録があっても不思議はない」
宇静の言葉に桂妃は言葉を失った。首を横に振って訴える。が、宇静は容赦なく凄んだ。
「おとなしく従っていればまだ大目に見たが、よもや香月を竜穴に封じるとはな。恐ろしい女だ」
「だって、あの娘は……でなければ、陛下のお命が危うく……」
もはや言葉も整わず、切れ切れにあえぐ桂妃。
宇静は嘲笑を飛ばしながら、彼女からゆっくり離れた。扉を開け放ち、遠く彼方にある銀楼宮を見つめる。
「私はあの時、死んでも良かった。香月を守れないなら、いっそこのまま滅んでも良かったのだ」
「なんてことを!」
桂妃は思わず叫んだ。身を起こし、宇静の元へ駆け寄る。
「お気は確かですか? そのお話が本当ならば、陛下にも始祖帝の血が流れていますわ。呪いで縛り付けるほど、あの娘が憎いはずなのに……陛下は禁を犯したのですよ。その証拠があの病ではありませんか?」
「確かに血には抗えないものだ。しかし桂妃、一つ勘違いをしている」
宇静はくるりと振り返った。口元を緩め、桂妃をまっすぐに見つめる。
「三〇〇年前、香月と青年が玄竜神にそむいた。その際、始祖帝が呪いをかけた。この時、すでに青年は絶命していた……と、記されているが、これは間違いだ」
「なぜそう言い切れるんです?」
「私がその真相を知っているからだ」
桂妃は固唾を飲んだ。明晰(めいせき)な彼女は、すでにその真相を浮かべて愕然とする。と、同時に宇静は低い声で言った。
「呪いは青年にもかけられていた。魂魄(こんぱく)乖離(かいり)し魂だけが(めぐ)る。血筋や家柄は問わず、平等にどこぞへ生み落とされる。例えば三〇〇年後、皇子(おうじ)として生まれることも──ある」
「そんな……では、陛下は、その青年の魂だって言うの……?」
桂妃の悲鳴にも似た声に、宇静は鋭利な目尻をふわりと緩める。気の抜けた笑顔を見せる彼は、ようやく何かから解放されたかのように晴れ晴れとしていた。桂妃は腰を抜かして、その場に座り込んだ。
鄭秋叡は宇静が病に倒れる前よりすでに、桂妃の真意を掴んでいた。宇静もまた同じくして、香月の身を案じて彼女の元へ助言を授けた。その夜である。宇静に流れる血が、香月への接触を許さなかったのだろう。桂妃の言葉もあながち間違いではなかった。
宇静は生死の境をさまよいながら秋叡に命じた。
──香月を救い出せ。

あれから、ひと月半。香月は深い眠りについていた。
桂妃の謀り事がまたたく間に後宮内を駆け巡り、彼女が庶民への降格を言い渡された後も、香月は一向に目を覚ます気配がなかった。
「よろしいのですか?」
秋叡が問う。苑で黄昏(たそがれ)る主の様子を堪りかねた言葉だった。対し、宇静はとぼけて池の魚を眺める。
「何がだ」
「琳香月です。一度、会いに行っては?」
病魔のせいで(うつ)ろだった宇静は、あの夜に秋叡へすべてを打ち明けている。彼は半信半疑だったが、今でも忠実に尽くしている。それを(わずら)わしそうに、宇静は笑い飛ばした。
「私が行けば、彼女の体に障る。遠縁とは言え、この身には始祖帝の血が流れている。私たちは相容れぬ」
初めに出会った頃もそうだった。目が合った瞬間、体の奥に眠っていた何かが暴れてのたうつ感覚に襲われた。それはきっと彼女も感じていたはずだ。
「なんの因果(いんが)か……これも呪いのうちか」
「しかし、陛下の魂は清らかです」
秋叡はきっぱりと言い放った。だが、宇静はこれを笑って受け流した。
「あなたは、香月を守ろうとしていました。だから、神からの自立を願った。そうして国を作ったんでしょう。すべては彼女のために。呪いを断ち切るために」
「………」
宇静はため息を漏らした。幼い頃から秋叡は弟のように思っていたが、素直に心を許せなかった。だが、今は違う。
「知ったような口をきくな……まぁ、そうだな。お前の言う通りにしてみよう」
振り返ると、それまで険しかった秋叡の顔が一気にほころんだ。

 ***

白い夢の中、雪が舞う外は肌身を凍りつかせるかのごとく寒く、吐く息が綿毛のようにふんわりと宙に浮かぶ。湖は寒々しく、薄い氷が張っていた。その下を魚がゆったりと身をくねらせる。
香月はその池をじっと眺めていた。幼く、小さな足で池をコンコンと叩く。
「香月様!」
そんな声が方々から聴こえてくる。香月は慌てて灯籠(とうろう)の影に隠れた。屋敷は広く、隠れていたら誰にも見つからない自信がある。しかし、彼だけは違った。
「あ、見つけた。香月様、戻りましょう」
同い年の少年は、しっかり者で凛々しい顔がとても魅力的だった。
「劉帆。香月〝様〟はやめてっていつも言ってるでしょ」
「でも、私はあなたの従者です」
「二人きりの時はいいの。これは私の命令だと思って。ね?」
「はぁ……うーん。じゃあ、香月」
劉帆はぎこちなく緊張気味に言った。それを受け取るかのように香月は彼の手を優しく取る。
「ごめんね、気を使わせて」
香月の言葉に、劉帆は首をかしげた。
「知ってる? 私は玄竜神様に捧げられるために生まれたの」
物心付く前から、両親の顔を知らずに育った。玄竜神の妃という役目を果たすためだけに生まれた存在なのだと教えられてきた。〝その日〟が来るまでの間、屋敷の奥深くに閉じ込められているが、たまにこうして人の目を盗んで遊ぶのが香月の唯一の息抜きだった。
そんな身の上を話せば、劉帆はなんとも言い難い表情を浮かべて真剣に唸っていた。
「あら、そんなに難しく考えないで。だから、〝その日〟が来るまでの間、私を普通の女の子として見てほしいの」
「分かりました」
劉帆は生真面目に返事した。
それが彼を意識したはじまり。ここから先は、叶わぬ恋に打ちひしがれる日々だった。
「また繰り返すのね」
薄氷に立つ香月は、幼い前世に言った。今、二人の香月が相対する。
「こんなことを繰り返しても劉帆は戻ってこないのよ。もう終わりにしましょう」
問う。これはきっと、己が解くべき呪いだ。心次第でこの呪縛から解放される。
「いいえ、まだよ。まだ終わらない」
前世の少女は強い口調で言った。
香月は眉をひそめた。すると、幼い少女の体がボロボロとまるで鱗が剥がれ落ちるかのごとく姿が崩れていった。流れていく前世の欠片が灰色の空へ舞い上がっていく。視線を移すと、そこには一条の黒竜が漂っていた。
「玄竜神様……!」
玄竜神は長い躰をくねらせ、天へ昇っていく。前世の欠片が玄竜神の中へ取り込まれていく。その時、香月の全身を旋風が襲った。飛ばされそうなほど強い風に抗おうと踏ん張るも、薄氷の上では足元が覚束(おぼつか)ない。氷が砕けていき、香月は冷たい水の中へ吸い込まれた。
その時、光る鱗を目の端に捉えた。背中の鱗が剥がれ落ちていく。香月の体が沈むにつれ、鱗だけが上へ上へと昇っていく。
──香月。
どこかからか声が聴こえる。それは少年のようでも、青年のようでもあった不可思議な音だった。そして、あの黄昏に浮かんだ影と同じ声だと気がつく。
──お前は、なんのために生まれてきた?
「なんのために……」
思考する。繰り返されてきたこの呪い、それはきっと罪に報いるためだけではない。
あの日に誓った約束を果たすため──

「香月!」
その声が耳に届いたとき、香月は息を吹き返した。
やわらかな寝台に横たわっており、ほのかに明るい蝋の火があたたかさを感じる。それよりも、先に目に留まったのは冷血漢と恐れられる皇帝。だが、その目は幾分も優しく儚い。
「陛下……」
香月はしゃがれた声で言った。慌てて身を起こす。すると、彼はすぐに手を差し出したが、気まずそうに引っ込めた。
空気が重い。それでも心が掻き立てる。その顔を見ていると、胸が熱くなる。段々と脳が覚醒していくにつれ、彼の顔が愛しい人と重なった。何も言わずとも、魂が惹かれる。
「劉帆……」
こわごわ呟くと、彼はほっと安堵したように笑った。そして、優しく引き寄せる。
「待たせてすまない、香月」
肩に顔をうずめて言う彼の声はとても弱々しく、儚げだった。触れるのが怖い。でも、触れられずにはいられない。こうして触れ合えるということは、つまり、呪いはもう解けたのだから。
「ずっと、君に会いたかった」
その声音はまさしく劉帆と同じく優しい。懐かしい薫り、ぬくもりに顔を埋める。
「私も……ずっと、この時を待っていたわ」
──だから、私は彼に会うために生まれたの。
心の奥で生きる〝彼女〟が言う。
悠久の時が今、ようやく終わりを告げた。

【完】

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