凜と背を伸ばした玄武は、大きな黒い瞳で瑛琉をにらみつけた。
「青龍兄様。ここは玄武殿です。出ていってください」
 双眸を細めた瑛琉は室内に踏み込み、卓に置かれていた茶碗を手にする。
 匂いを嗅ぐと、残った茶を金魚の泳ぐ水瓶へ注ぎ入れた。
 悠々と尻尾をひるがえしていた金魚たちは、ぷかりと水面へ浮く。
「眠り薬か。おまえがやりそうな手口だな」
「なんのことです。僕は眠ってしまった華嵐妃を休ませてさしあげるところだったのです」
「引っかかったな。どうして華嵐妃が眠ったという前提になっているんだ? 貧血による気絶かもしれないだろう」
 沈黙した玄武は視線をさまよわせた。
 彼が次の手段を講じているわずかな隙に、華は渾身の力を振り絞って、瑛琉に手を伸ばす。
「え、瑛琉……たすけて……」
「華!」
 ぐらりと傾いだ体を、瑛琉が受け止める。
 瑛琉の腕にしっかりと抱かれて、華は安堵の息をこぼした。
 ふっと、つないでいた意識が途切れる。眠りに落ちた華を横抱きにした瑛琉は、踵を返そうとした刹那、玄武に投げかけた。
「今日のことは黙っておいてやる。おまえも、皇帝の決定を無視して事を進めようとしたことが暴露されたら、まずいだろ?」
 唇を噛みしめた玄武はうつむいた。
 華を抱いた瑛琉は、堂々とした足取りで玄武殿を出たのだった。

 瞼を開けたとき、藍の天に瞬く大粒の星々が目に飛び込んできた。
 意識を取り戻した華は、ゆっくりと体を起こす。
 そこは芝生が広がる庭園だった。傍には青龍殿がそびえ立っている。
 柔らかな芝生に寝転がり、星を眺めるのは、気分が落ち着く。
「……起きたか。体の具合はどうだ?」
 ふと横を見ると、瑛琉が腕をこちらに投げだした恰好で仰臥していた。怪我をした彼の腕を枕にして寝ていたらしい。
「なんともないわ。瑛琉こそ、怪我は平気なの?」
「俺の心配かよ。砂利が乱れた水路を発見してから水滴の痕を追ったときのほうが、胸が痛かったな」
 突然いなくなったので、心配をかけたようだ。
 玄武殿でお茶を飲んだら眠くなってしまい、身の危険を感じたが、瑛琉に助けられたことを覚えている。瑛琉と玄武がなにか話していたようだが、意識が朦朧としていたので詳しい内容はよくわからない。
 しばらくふたりで星を見上げていた。
 ふと華は小さくつぶやく。
「瑛琉の指輪を、水路に落として、なくしてしまったの。ごめんなさい……」
 皇子の証である四神の指輪を紛失したら、瑛琉は皇帝になる資格を失ってしまうのかもしれない。
 でも、諦めたくなかった。
 瑛琉が華を華嵐妃として見出してくれたように、華の母親が先代の嵐妃かもしれないと知ったように、何事も断たれる未来などないと信じたい。
 もし諦めていたなら、未来に悲観した華は今頃、婆様と命を絶っていたかもしれないのだから。
「でもきっと、見つけるわ。明日の朝、また水路で探すから」
 希望を持って語りかけると、水路に目を向けた瑛琉は、まっすぐに指を差す。
「あれを見ろ」
「……え?」
 指し示された方角を、華は見た。
 そこには星明かりのもとに浮かび上がる、青き龍の姿があった。
「まさか……本物の龍……⁉」
 瑛琉とともに、姿を現した青龍へ近づく。
 すると、水路に佇んでいた青龍は霞のごとく、すうっとかき消えてしまった。
 幻影だったのだろうか。
 けれど、青龍の出現していた水底から、ぽう……と淡い光があふれていた。
「瑛琉……あそこ! 光ってるわ」
「待て、俺が行く……と言っても無駄か」
 ためらいなく華は水路に入り、水をかき分ける。光のあふれる川の底を、瑛琉とともに覗き込んだ。
 光源がなにかを目にしたふたりは、目を見開く。
 華は水底から、四神の象徴である青龍の指輪をすくい上げた。
 なくした指輪は、ここに流れ着いていたのだ。
「青龍が、教えてくれたのね。きっと、瑛琉が皇帝になる運命だということではないかしら」
「……どうだろうな。青龍は華を守ろうとしているのかもしれない。その指輪は、おまえに預けておくよ」
 青白い光を放つ宝玉を、瑛琉は華のてのひらに握らせた。そうしてから、ぎゅっと両手で包み込む。彼の熱い体温が、華の胸のこだわりも不安も、すべてを溶かした。
「私……これからも瑛琉の傍にいるわ。たとえ、どんなことがあっても」
 華嵐妃として彼を慈しみ、あらゆるものから守りたい。胸に響いたその想いを、華は夜の香りに乗せた。
 瑛琉の精悍な顔が近づき、傾けられる。
 さらさらと川のせせらぎが流れる夜闇の中、ふたりはくちづけを交わした。
「俺が、おまえの過去も未来も、すべてを守る」
 瑛琉の言葉に、悠久の愛情が宿る。
 かたく抱き合う華嵐妃と青龍皇子を、星々だけが見守っていた。