「やあ、君が遠野知唐くんか」
 今日もやって来るだろうあの子の為に、書庫の掃除をしようと思っていた。換気をするために扉を開けて、本棚の整頓から始めていたタイミングだった。
 開いていた扉には、一人の男性が立っていた。背が高くて伸びた黒髪が風に踊っている。髪の間から見える瞳は垂れていて、優しそうな印象を持たせていた。服装はスーツにトレンチコートと、色を合わせたハット。それに加えて煙草。
 柔らかい声色で俺の名を口にして、目の前の男は被っている帽子を外し、胸元に添え、足を少しクロスしてから、相手は少しだけ腰を曲げて、此方を見て笑みを浮かべた。
 手に本を持ったまま、顔も彼の方へ向けたまま、呆けた顔をして瞬きをした。
 目の前に、知らない人、それも本に出てくるような上流階級みたいな人が居る。
 突然の事に混乱して言葉も失っていれば、目の前の彼は何も気にしないと言わんばかりに、つかつかと靴音を鳴らしながら部屋の中に入り込んでくる。
「え、ちょ、え!?」
 突然の行為に、ハッと意識を呼び戻して、慌てて声を上げて静止させる。
「あ、ここは火気厳禁だよね。本当にごめん」
「いや、そうですけど。って、それもあるけれど違って。あ、貴方は……?」
 ポケットから取り出したらしい携帯灰皿で煙草を処理してから、彼は少しだけ口角を上げる。
「ん? ああ、簡単に言えばね、この世界の管理人みたいな感じ。そう呼んでくれて構わない」
「管理人、さん?」
「そうそう。弥生は案内人と言ってただろ? その上司だと思ってくれれば大丈夫」
「成程?」
 なぜ納得をしているのだろう。いきなり人の家に入り込んできた謎の人物だと言うのに。
 ああ、これも、この世界だからなあ。と納得して、慣れ始めている自分が居る。
「それなら彼に用が? 申し訳ないんですけど、弥生は留守にしていて」
「ああ、それは良いんだ。今日は君に用事があったからね」
「俺に?」
 自身を指さしながら問えば、彼は人当たりの良さそうな笑みを浮かべた。
「僕とも話をしてくれるかい?」

 *

 テーブルの上に置かれたほうじ茶から、白い湯気が渦を巻いて立ち昇っていく。電灯の光のように、多様な渦紋を描いては消え、描いては消え、を繰り返している。
 明らかに紅茶用だろうマグカップで、目の前の彼はほうじ茶を飲んでいた。この家は、俺が住んでいた家を元にしている、ということから自分の大雑把さに笑ってしまう。自分が使うだけには問題ないが、他人に差し出す分には、もう少し気にするべきだったかもしれない。それか、良い茶葉を使った紅茶でも出せればよかったのだが、生憎ほうじ茶しか我が家には置いていなかった。
「簡単に言うと、この世界は数ある世界の一つに過ぎないんだ」
「へえ」
「人の数は膨大だろう? だからね、部屋を増やさないと。君だって身動きの取れない、満員電車みたいに窮屈な空間じゃ嫌だろう?」
「それは、確かに……」
 固まった人混みは隙間もない、前にも後ろにも身動きできない。その中に自分が放り投げられたら圧死してしまいそうだ。現実でも嫌だが、非現実の世界でも死にたくない、と思わず顔をしかめてしまう。
「そんな各世界を、僕みたいな管理人が就いて、弥生みたいな案内人が居る。だからね、君のことも知っている。最近やってきた新参者だしね」
 にこにこ、と笑みを浮かべる管理人さん。
「他にも聞きたいことある? 答えられるものなら教えてあげるけど」
「えぇ? 突然言われても、とっさには思い浮かばないんですけど……」
「あはは、それは確かに」
「……それじゃあ、管理人さんは、いつもこっちに来るんですか?」
「普段は書類業務が多いよ。偶に現地視察に来るんだ」
「そうなんですね」
「うん。まあ僕はあまり事務作業が好きじゃないんだよね。現場派なの」
 あはは、と笑い飛ばしながら述べる彼を見て「それは、お気の毒に……」という言葉は口に出せなかった。
「いつもね、逃げ出しちゃうんだ」
「サボり、というやつでは?」
「その通り」
 あっけらかんと言ってしまう彼の表情を見て、彼の部下であろう人物に同情してしまった。弥生さんも部下の一人になるわけだろうから、なんだかかわいそうに思えてしまった。お気の毒と言わないでよかった。
「この世界に留まるには期限があるって、弥生さんが言っていたけれど」
「そうだよ。ずっとこの世界に居続けるのは、許可できない」
「それじゃあ、俺の残りの期間は?」
「あと3週間、ってところだね」
「3週間ですか……」
 長いとも短いとも言い切れない期限だ。何か〆切があるのだとしたら短いと感じるかもしれないし、目標も無くただダラダラと過ごすだけだったら長いと感じるかもしれない。
「俺は今、記憶が無いけれど、記憶は元通りになるんですか?」
「ちゃんと元に戻るよ。そうしないと不便でしょ?」
「確かに……」
 この世界から覚めても記憶が無ければ、それはもう大変だ。
「それじゃあ、無理に、今思い出さなくても、大丈夫なんですか?」
「そうだよ。無理に思い出す必要はない」
 優しい笑みを浮かべながら、管理人さんは言う。弥生さんもそうだ。俺に記憶が無くても、思い出せと強要などしてこない。俺の自由にしていいのだと、好きにすればいいのだと放任している。
 けれど、そうか。無理に思い出す必要は、ないわけだ。
「……分かりました。ありがとうございます」
「うん。また遊びに来るよ」
 爽やかに、にこやかにいうもので、彼の部下にあたる人々にエールを送りたくなった。
 自由奔放な上司の下に居ると、何だか大変そうですね。心の中の弥生さんに向かって手を合わせた。
「それじゃあ」
 外していた帽子を手に取って、被りながら扉の方へ彼は手を伸ばす。
「おや」
 彼が少し間の抜けた声を零したので、どうしたのかと彼の手元に目を向けてみれば、扉が少し隙間を空けていた。完全に扉を閉め切ってはいなかったらしい。
 彼がゆっくりと扉を開けば、そこに一つの人影があった。
「あ、えっと……」
 玄関先に居たのは杏哉くんだった。俺達が二人で並んでいるのを見て、少しだけ居心地の悪そうな顔をしている。
 管理人さんは杏哉くんを見て、少しだけ驚いたような表情をするが、すぐににこりと笑みを浮かべた。
「客人が来ていたようだね」
 管理人さんは杏哉くんの方に目を向けて、薄く笑みを浮かべて見せて、すぐに俺の方へ顔を向き直して、それじゃあねと家を後にした。
 杏哉くんの隣をすり抜けて、杏哉くんは軽く頭を下げて、管理人さんは小さく手を上げて「またね」と別れの挨拶を口にした。
「……えっと、知り合い?」
「いや、初対面です」
「そう」
 彼は少し気まずそうに視線を下に向けていて、少し忙しなく目を泳がせている。
 どうしたのだろうか、と思ったけれど、とある考えが過る。彼は、俺達の話を聞いていたのだろう。
 俺達の話していた内容は、俺の残り滞在期間、記憶に関すること。大雑把にまとめるとそのくらいだ。
「前も言ったけれど……」
 ぽつり、と呟いた俺の言葉を聞いて、彼は少しだけ肩を跳ねらせて、そろりと俺の顔を覗き込むようにして見やってきた。此方を窺うその瞳は、言葉よりも、うんと能弁に俺に言葉を示して来ていた。
「俺は君達からの好意を苦痛に感じたことは無いよ」
「……本当に?」
「ああ。それに、君たちのことも、知りたいって思うよ」
 これは紛れもない真実だ。こうして俺に対して親切にしてくれる人を思い出したいと考えるのは、至極当然のことだと思う。
 彼は俺の言葉と様子を見て、親に叱られるのを回避した子供のように安堵した表情で、ほっと溜息をついた。
 彼は家の中に入って来て、腕を伸ばし、何かを差し出してきた。
「これ、持ってきたんだ」
 そう言って彼が差し出したのは、紙袋。ずい、と差し出されたので受け取ってみれば、思ったよりも重みがあった。ずしり、と手のひらに感じた重みに少しだけ驚いてから、袋の中身を覗きこむ。
 なんだろう、と疑問を想うと同時に、少しのスパイスの香りが鼻孔をくすぐった。
「あの後、考えたんだ。好物でも、食べ慣れていた物の方が、良いんじゃないかって」
 紙袋の中から取り出したのは、ずしりと重量を感じるタッパーだった。茶色の液体でいっぱいになっているコレは、においからも、見た目からも合せて、カレーと言う存在になると結論付けた。
「アンタの好きだったカレー、持ってきた」
「わ、ありがとうございます……」
 わざわざ持ってきてくれたのだ。彼の優しさに感動して、自然と笑みが零れる。
「それじゃあ、今日の夕飯はこれにしようかな」
「まあ、数日は大丈夫だろうけど早めに食べてね」
「うん、そうします」
 取りあえず今日の夕ご飯。そして明日の朝ご飯とお昼ご飯もいけるかな? ああ、でも、弥生さんも一緒に食べるから、三食は難しいかもしれない。
「それでさ、代わりにと言っていいのか分からないんだけど……」
「うん?」
「また、苺音と会ってくれる?」
「勿論。君達さえ良ければ、いつだって」
 いつだって。
 ふ、と呟いた言葉に、自分で少し疑問を持った。外に見える季節はパステルカラー。薄いピンク色の花が咲き、散り始めている。地に生えている花々も、其々が自分は綺麗だよと主張してるように咲き誇っている。
「苺音ちゃんは、学校には……」
「……行っていないよ。休んでいるんだ」
「そうなんですね。深く聞いてごめんなさい」
「いや、良いんだよ。だから、良かったら相手してあげてほしいんだ」
 眉を下げて、少しだけ申し訳なさそうに言う彼を見て、誰が断ることが出来るだろうか。
 大丈夫ですよ、と力強く頷いて、ケーキを食べる約束もしましたからねと言えば、嬉しそうに笑みを返してくれた。

 *

「カレーを貰ったんだ」
「何でまた」
「俺の好物だかららしい」
「ああ、成程な」
 白米の上に、レンジで温めたカレーをかける。焦げ茶色のカレーには、ごろごろと少し大きめに切りそろえられた人参とジャガイモが入っていた。
 温めたことによってにおいもふわりと鼻孔をくすぐって、なんだか懐かしい気分がする。喫茶店で食べたカレーだって美味しそうなにおいがしたけれど、それとは違うにおい。
 弥生さんは盛りつけられたカレーを見て、にんまりと笑みを浮かべて、スプーンで一口サイズを掬った。
「家庭のカレーって感じだな」
「やっぱりそう思う?」
「カレーって家庭の個性が出るよな。おふくろの味、として味噌汁とかが定番だと思うけど、俺はカレーが一番分かりやすいんじゃないかと思う」
 それだけ言うと、彼はカレーを口の中に頬張った。それにつられて、俺もカレーを口の中に放り込む。
「どうだ?」
 弥生さんが笑みを浮かべながら問うてくる際に、俺はと言えば、何だか懐かしい気分で溢れかえってしまった。
 身体が覚えている、と言った方が正しいのかもしれない。俺はこの味を知っている。この味のカレーを食べたことがある。ハッキリと断言が出来るほどだ。
 美味しい、というご飯は沢山あるだろう。けれど、美味しくて落ち着く、という感情を持てる料理は限られてくるのだと思う。
「俺、杏哉くんと一緒にこれを食べてたんだろうな」
 ぽつり、と呟くと、弥生さんは優しい笑みを浮かべて、そうかもねえとカレーをスプーンでつつきながら小さく返事をした。
「俺、このカレーを作ろうと思えば作れるかもしれない」
「マジか。いや、でもせめて食い終えてからにしてくれ」
「食べ終えて、暫く経った後だね」
 確かに、ずっとカレーはキツイだろう。二人で顔を見合わせて、小さく笑い声を零し合った。