人間、記憶と五感を結びつけると、無くなる順番というものが存在するらしい。
 忘れる方から順番に、聴覚、視覚、触覚、味覚、嗅覚。逆に言うなれば、においの記憶は残りやすい。
 どうやらこれには脳科学的根拠があって、脳には本能や情動を担当する『大脳辺縁系』と、思考を担当する理性的な『大脳新皮質』という部分がある。大脳辺縁系に『海馬』と呼ばれる記憶をつかさどる器官があって、あらゆる情報は一旦『短期記憶』として海馬に保管される。何度も思い出すような情報は海馬で『長期記憶』に変換されるのだそうだ。
 ここまでで大方は察するかもしれないが、実は五感の中で嗅覚だけが、この海馬に直接情報を送ることができるのだ。残りの器官による情報は、一度大脳新皮質を通って海馬に運ばれる。
 つまるところ、記憶を残すために回し道をするかしないか。『記憶と感情を処理する脳機能』にダイレクトに伝わるのは嗅覚だけ。簡潔にまとめるとこういう事なのだろう。これ以上は、専門用語が並んでいるので、難しくて説明が出来ない。まず、俺が理解するのに難しいから。
「だから、アンタの好物でも食べれば、何か思い出すかもしれない。って思ったわけ」
「成程」
 あ、と少しだけ大きな口を開けて、卵サンドイッチを頬張った。ふわふわなオムレツをサンドしたものが、約半分彼の口の中に消えた。思ったより一口が大きい。
「パパ、もういらない」
「だから言ったじゃん。苺音じゃ食べきれないよって」
「でも……」
「あー、残りは俺が食べますよ」
 あまり厚くはない、家庭的な厚みのパンケーキ。どちらかと言えばホットケーキと言った方が馴染み深いのかもしれない。それでもおいしそうなきつね色に焼けた生地には、たっぷりな生クリームとフルーツが盛られてカラフルに彩られている。
 苺音ちゃんが食べたいと言っていたのだが、彼女の小さな体には入り切ることは出来なかったらしい。頼む前に、杏哉くんが無理だと言っていたのだが、苺音ちゃんが断固として首を横に振らなかった。意地でも食べたがっているように見えて、しぶっている杏哉くんを宥めて注文させた自分にも責任はある。残りは自分が食べよう。
「アンタも食べるじゃん」
「大丈夫ですよ、多分ね」
「あー、もう良いよ。俺も食べるし。二人でつまもうぜ」
 苺音ちゃんが食べやすいように、と彼が最初に一口大に切り分けていたから、テーブルを挟んで一つの皿からつまんでいくことは可能だろう。
 俺の前に置かれているのは、オムライス。目の前の彼曰く、俺の好物。
 表面のうすやき玉子で乾きつつ、少しだけとろみが残っている。味付けは少しだけ甘めのようだ。そのなかにたっぷりのトマトライスが入っている。玉子の甘さと、中のトマトライスの少しのしょっぱさが絶妙のマッチング。ソースは、トマトの感触が少し残っていた。この絶妙な組み合わせを、よく見つけ出したものだ。口あたりがやわらかくて、とてもおいしいのである。
「俺はオムライスが好きだったんだなあ」
 あの時の返事が、とっさの嘘にならなくて心底安堵している自分が居た。
「結構子供舌だよね。あとはハンバーグとかカレーも好きだよ」
「子供の好きなラインナップじゃないですか。本当に子供舌だな」
 このオムライスにハンバーグが乗っていて、ソースがカレーだったら。なんて想像してしまったら、一層幸福に満ち溢れてしまった。
 それを自覚したら、少し恥ずかしくなってきた。オムライスを口に含みながら、顔に熱が集まっていくのが自分でもわかる。
 自覚をするくらいだ。俺の変化は、当然目の前の彼には丸分かりで、喉を鳴らしながら小さく笑みをこぼした。
「良いじゃん別に。他人の好みをとやかく言える立場なんて、他人には無いんだから」
「そう、ですか」
「まあ、俺はトマトが大っ嫌いだから、アンタのトマト好きには理解できないけど」
「手のひらくるっくるだな」
 通りで、サンドイッチに付け合されているサラダのトマトに手を付けていないわけだよ。
 食べる? 苺音ちゃんにパスしようと、杏哉くんがトマトが残っているお皿を差し出す。先程までの父親としての威厳が無い。
 けれど、彼女は頷いて、残っていた一切れのトマトを口に含んだ。
「苺音ちゃんは食べれるんですねえ」
「はい。トマトだいすきなので」
 ふふん、と少しだけ自慢げ。父親が食べられない物を、自分は食べられる、という優越感があるのかもしれない。偉いですねえ、とテーブル越しに頭を撫でる。俺が撫でれば、彼女はくしゃりと目を閉じて嬉しそうにしてくれるのだ。それが何とも愛おしくて、自然と口元が緩んでしまう。

「それで、何かは思い出しそう?」
 最後のサンドイッチを大きな一口でかぶりつきながら、彼は問うてきた。
「……どうだろう。美味しい、と思っているから、好物だったのは本当だったんだろうなあ、って」
「つまりは思い出してはいないってことね」
「すみません……」
「良いよ。そんな簡単じゃないだろうという事は想定内だし」
 思わず背を丸めながら小さく謝ったが、目の前の彼は言葉通りに大して気にしていないようだ。もぐもぐと咀嚼をしながら、本を読み始めた苺音ちゃんを横目で眺めている。
「記憶に残りやすい、ってだけで、思い出せるとは別かもしれないし」
「そんなもん、ですかね」
「分かんない。そういうのは、俺の専門じゃないから。でも、思い出させられなくてごめんね」
 ほぼ毎日が夜勤で、理系だと言う彼は医療関係者なのではないかと思っていたが、よく考えたら医療関係と言っても幅広い。医者でも専攻があるくらいだ。こういった知識も、彼は深く必要とする仕事ではないのかもしれない。
 彼等の事を、俺は良く知らないなあ。なんて思うが、ここは夢の世界だ。それなら、彼等の事を深く思い出せないのも、仕方がないのかもしれない。
「……ねえ、杏哉くん」
「ん?」
 サンドイッチを食べ終えた彼は、フルーツと生クリームがたっぷり乗っているパンケーキにフォークを突き刺した。赤いベリーがフォークに突き刺さり、赤い汁が生クリームをじわじわと赤く染めていく。
「どうして君はここまで俺に付き合ってくれるんですか?」
「え?」
「いや、失礼なのは百も承知ですけど。それでも、記憶の無い相手。それも回復の見込みも感じられない。そんな俺のことをここまで考えて、つきあってくれて。本当に優しいなと思って」
 俺もオムライスを食べ終えたので、目の前の彼に倣ってパンケーキにフォークを刺す。柔らかい生地に、ぷすりと銀色のフォークは難なく沈んだ。
 そのまま口の中に放れば、想像していた通りの甘さが口の中に広がる。生クリームの甘みとしっとりとした舌触りに、ふわふわの生地が組み合わさる。何かフルーツも一緒に含めばよかったかもしれない。少し口の中が甘味で充満してしまった。
「……だって、アンタは優しいひとが好きだろ?」
 彼はそう問いながら、フォークを突き刺した一口大のパンケーキを口に含んだ。あっま、と小さくぼやいて、少しだけ顔をしかめる。
 不思議な事を訊ねるんだな、と思った。
 自分に優しい人を嫌う人など、それこそ少数派だろう。『好意の返報性』という言葉があって、好意が好意で返ってくるという恋愛心理学でも極めて単純明快な法則だ。人から優しくされると、その人にも優しくしてあげたくなる。仮にその裏の打算に気付いたとしても流されてしまう程度には、他人の好意とは甘美な麻薬だと思う。
 特別視されたい。優しくされた。愛されたい。それらの寄せられた好意には好意で返したい。人間であれば至極当然の欲求だと思う。
「そうだね。優しい人は、好意的に見える」
「でしょ? だから、俺はアンタに優しくしてんの。記憶を思い出す手伝いをして、良い人だって。優しい人だって思ってもらいたいの」
「俺にも優しくされたいから?」
「それはもう良い。俺が返す番だから」
 真っ直ぐと、己の意志と感情をぶつけるようにして、じっと俺を見つめてくる。それはどこか、玩具を買って欲しいと駄々を捏ねて泣き喚く事もできない内向的な子供が、無言のままに涙が零れ落ちそうな目で訴える姿を連想させた。
 きっと杏哉くんは、なんらかの俺の言葉が欲しいのだろう。
 ――それじゃあ、お言葉に甘えようかな。
 ――いやいや、そこまでしてもらう義理は無いよ。
 ――そんなこと言って、本当は見返りを求めているんだろう?
 どんな返答が正解なのかは分からない。俺には彼の思考を正確に言い当てる事はできない。
 さて、どうするべきなのだろうか。あんまり時間は取れない。一瞬で、すぐに答えを見つけ出さないといけない。そう思われた。
 彼はじっと俺の目を見つめていたが、ふ、と視線を下に向けた。そんな彼を見て、あ、と考えが思いついて。その言葉が正解なのかどうか、脳内会議に出すことも無く、ぽろりと口から零れ出てしまった。
「記憶を思い出すのを協力する、と言いだしたのは君ですけど、それを断らずに賛同したのは俺自身ですよ」
 俺の言葉を聞いて、彼は少しだけ視線を泳がせて、気まずさからか再度パンケーキにフォークを突き刺した。カツン、とフォークとお皿が衝突した音がする。力加減を考えられないほど、動揺でもしているのだろうか。
「だから、思い出せないからと、君が気負いをする必要はないんです」
 二つ目の切り分けられたパンケーキに苺ごとフォークを突き刺す。
 優しい人だと思われたい。そう言っている彼は、そんな考えを持つ必要もないくらいに、優しい人なのだ。見かけだけでも優しい人と思われたいのであれば、頑張ってくださいねとでも言えば良い。何かあったら手伝いますよ、と受け身の体勢で居れば良い。
 それでも、彼は……杏哉くんと苺音ちゃんは俺に付き合ってくれている。どうだと提案して、付き合ってくれている。
「だけど、提案したのは俺だよ」
「そうですね。でも、君のせいじゃないです。俺が記憶を失っているのは、君が原因ではない」
「……」
「君の所為ではないです。君は、不幸とか責任を率先して引き受けようとしていますけど、良いんですよ。俺の不幸くらい、背負い込まないで。慰みで手を差し伸ばす程度の気持ちでいてください」
「……うん、ありがとう」
 それだけ言って、彼は少しだけ眉尻を下げて不格好な笑みを浮かべる。それにつられて俺も小さく口角を上げた。ちらりと苺音ちゃんに目を向ける。
 本にずっと目を向けてはいるものの、たまにこちらの方に目を向けているのは見えていた。聞き耳は少し立てていたのだろう。申し訳ないことをした。
 そう思うと同時に、ツキンと頭が痛む。
 思わず頭に手を添えれば、二人揃って、どうしたんだと心配そうに問うてきた。
「すみません。少しだけ頭が痛んで……」
「おじさんも、頭痛くなるんですか?」
「そうだねえ。なるもんだね」
「それじゃあパパと同じですね」
「え?」
「パパも、よく頭がいたくなるんです」
 そうなんですか? と彼の方に目を向ければ、現在進行形で痛いですよ、と言わんばかりに眉間にシワを寄せて頭に手を添えていた。困って頭が痛む、と言った感じだ。勝手に暴露されて恥ずかしかったのかもしれない。
 少しだけ苦笑いを浮かべて、互いに大変ですねと労いの言葉を掛けた。

 苺音ちゃん、と彼女の名を呼んで、パンケーキの上に乗っていた苺にフォークを刺し、彼女の前に差し出す。
「苺はお好きですか?」
「大好きです!」
「それじゃあ、どうぞ」
 少し口元に近付ければ、ぱくりと彼女はフォークごと苺を口に含んだ。
 もぐもぐと口を動かして、苺の甘酸っぱさに頬を緩ませている。好物は別腹、というものだったのかもしれない。
「今度は、ケーキでも食べようか」
「っ! また、お出かけしてくれるんですか!?」
「え、ああ、苺音ちゃんさえ良ければね?」
 ぐい! と顔を近づけて、目を少しだけ開きながら、吸い込まれそうなほどの黒い瞳が俺の目を覗きこんでくる。その突然の衝動的な動作に、つられて目を開きつつも頷けば、彼女はじいと俺の目を見る。本当の事かどうか、品定めをされているような気分がした。もしかしたら、これは彼女の癖の一つなのかもしれない。
 俺が嘘を言っていないという事が分かったのだろう。彼女は乗り出した体勢を止め、椅子に腰かけて、にまりと頬を緩めて、頬を両手で添えていた。
「恋する乙女だなあ」
「父親的には、複雑ですか」
「そりゃあそうだよ。けれど、まあ、初恋なんだ。許してあげてよ」
 ふふ、と彼は小さく笑いながら食後の珈琲を飲む。
「初恋を奪ってしまって、申し訳ないですね」
「本当だよ。だから、せめて、もう少し一緒に遊んであげてよ」
「君達の頼みなら、断れないですね」
 幼い女の子とはいえ、好意的な感情を向けられるのはありがたいことだ。彼女が大人になった時に笑い話にでもできるのなら、せめて、綺麗な思い出として残せるように、頑張ってみようかと思う。